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巻の十八    神隠し事件

 江戸でのつづきです

巻の十八   神隠し事件   



 秋晴れの空の下、直也一行は浅草に向かって歩いていく。さすがに繁華街、人の行き来も半端ではない。

 そうこうするうちに雷門の前までやってきた。そこからは仲見世と呼ばれる門前の商店街を抜けていく。その先が浅草寺である。

 直也だけお参りをしてくる。御先稲荷の環も、妖狐の弥生も、お寺の参詣とは無縁である。

 気が付くと、境内に捕り方らしき小者が散見される。何かあったのだろうかと、三人が休憩がてら寄った茶店で直也はお茶を持ってきた爺さんに尋ねてみた。

「へえ、ここのところ『神隠し』が多いのですよ。それも若い、十五から二十くらいまでの娘っ子ばかり、もう十人も…」

「このお寺の境内で!?」

「へえ。一辺に二人が消えたこともあるってんです。なのでここんとこ娘さんの参拝客が減ってしまって」

 確かに、若い娘の姿は見られない。いるのは男衆と、お歯黒した女(既婚女性)ばかり。

「気をつけなせえよ、お連れの方二人とも別嬪べっぴんじゃから」

 そう言って、茶店の爺さんは引っ込んだ。

「弥生様、どう思われます?」

「うむ、あまりに人が多くて、化け物の気配が感じ取れぬ…じゃによってわからん」

「そうですね…でもぉ、もしそういう人の世に仇なす化け物がいるのなら御先稲荷おさきとうがとして放っておくわけにはいきません」

 だんだんと御先稲荷としての自覚が出て来ているのか、たまきは決然と言い放った。

「しかしじゃな、もし本当なら用意ならぬ相手じゃぞ。これだけ人が大勢いる中であっという間にさらって…それも二人一辺と言うこともあったそうじゃから、その力は相当なものじゃ」

「…弥生様、手伝って下さいません?」

「面倒くさい」

 ばっさりと切る弥生。環はすがるような目つきで、

「…弥生様あ…」

「実のところ、儂にはこの国の人間全部よりも直也一人の方が大事なのじゃ」

「や、弥生…」

 その科白にさすがに直也は狼狽を隠せない。

「直也の為ならこの身を売ることもいとわぬが赤の他人の為なんぞ御免じゃ」

「……」

 がっくりと項垂れる環。それを見かねて、

「なあ弥生、そう言わずに、手伝ってやったらどうだ?」

「お主を一人にしておくわけにはいかぬ。お主が巻き込まれそうと言うなら何を置いても手伝うが、狙われているのが何処の者とも知れぬ娘ではな…」

「弥生が俺のこと心配してくれるのは有難いよ。でも、俺としては困っている人がいるのなら、そして何とか出来るのなら何とかしてやりたいんだ」

「…相変わらずじゃのう、直也は…。それでは、この辺に宿を取り、あらためて環と儂とで探ってみることにするか」

「感謝します! 直也様、弥生様!」

そこで、浅草寺近く、大川(隅田川)のほとり、駒形堂の袂の旅籠に宿を取った。

「良いか、翠龍を懐に入れ、片時も離すでないぞ」

 直也にくどいほどに念を押し、弥生と環は二人で浅草寺境内に戻った。

 そろそろ夕暮れである。参詣客が減り始めた頃、一陣の旋風が吹いた。

「うわっ」

「きゃあ」

「ぷっ」

「ぺっぺっ、こりゃひでえ風だ」

 その風が収まった時、弥生と環の姿は消えていた。

「わっ、ここにいた娘が消えちまった」

「神隠しだぁー!」

 境内は一時大騒ぎとなった。散らばっていた寺社奉行配下の小者達もやってきたが、なすすべもなかった。

 

*   *   *

 

 一方、弥生と環。

「どこじゃ、ここは…」

 気が付くと広い地下室のような場所に連れて来られていた。地下室のようなと言ったのは、窓が一つもないからだ。周囲は石で囲まれている。

 環は、一種めまいのようなものを感じた。

「環、気をつけよ。この場所、普通ではないぞ…」

 弥生のその言葉が終わらないうちに、一人の男が現れた。神主の付けるような装束を身に纏っている。

「ようこそ、御先稲荷おさきとうが殿、妖狐殿」

「貴様が神隠しを起こしておるのか?」

 弥生がそう尋ねると、

「そうよ。神通力を持った先生よ」

 男の後ろから、手下達が現れる。その一人の顔に見覚えがあった。風神一家の清八だ。

「おめえはあの若造の連れ…いいざまだなあ、おい」

 下卑た笑いを浮かべて、弥生と環を睨め回す。

「おいてめえら、遠慮はいらねぇ、こいつらふんじばっちまいな」

「そうは行かないよぉ!」

 環は掌から狐火を飛ばそうとする。…が、何も出ては来ない。

「な?…なんで?」

 慌てる環。弥生は落ち着いたもので、

「そうか、貴様の結界じゃな?」

「ふはははは、その通り、我の結界内で術が使えると思うたか。今のお前達は普通の娘と変わらぬ」

 環の感じた異常な感覚は、この先生と呼ばれる男が張った結界によるものであったのだ。

「くっ!…」

 たちまちのうちに、環と弥生は荒縄で縛り上げられ、転がされてしまった。

「よし、次は口をきけないよう、こいつを噛ませておけ」

 更に猿轡を噛ませられた。

「これでお前達も無力だ。我の結界の中、印も結べず、呪も唱えられない。我の思うがままだ」

「先生、こいつら、やっちまっていいですかい?」

 下っ端がいやらしい目つきで尋ねた。

「阿呆目。この二匹は狐だぞ。それでもいいのか?」

「え、狐…」

「そうだ。一匹は御先稲荷おさきとうがだし、もう一匹は妖狐だ。それでも抱いてみたいか?」

「い、いえ、結構です…」

 びくついて後ろに下がっていく。

「お前達、ご苦労だった。後は我だけでよい。呼ぶまで下がっておれ」

「へーい」

 清八初め、手下達が消える。先生と呼ばれたその男は、

「さて、神隠しを続けるのに邪魔だからお前達を攫ったが、この先どうしてくれようかな?…」

(むぐっ、むーっ)

 環は必死に藻掻くが、縛り上げられた縄は緩まない。

「莫迦目。その縄にも呪が施してあるのだ。我がよしと言うまでほどけるものか」

(……)

「そのままでは話もできんな」

 男が指を鳴らすと、二人の猿轡が緩み、話が出来るようになった。

「言っておくが呪は無駄だぞ」

 そう言って、何やら書いた呪符を二人の額に貼り付けた。途端に、狐の耳と尻尾が飛び出す。化身を無効にする呪符らしい。

「もう一枚貼れば化けの皮は全部剥がれるのだが、狐に戻られてもそれはそれで話がしづらいからな。勘弁してやる」

「なにが目的でこんなことをするのぉ! さらった娘達はどうしたのよぉ!?」

 環が叫ぶ。

「目的?…ふふふふ、話してやってもよいが。…それよりどうだ、我の手先にならんか?」

「手先?」

「そうだ。御先稲荷と妖狐なら、我の脇侍にぴったりだ。どうだ?」

 それまで一言も喋らなかった弥生が、口を開いた。

「貴様、もしや『マーラ』か?」

「何?」

 マーラと呼ばれた男は驚いたように弥生の顔を見つめた。

「何故それを?…そうか、お前は…もしや…みくずか?」

「その名で呼ぶな。今は弥生という名がある」

「ふむ、転生したというわけか」

(え?え?)

 環は展開について行けなくなりつつある。

(マーラって…マーラって…たしか天竺の悪霊よね…それが何故ここに? 弥生様と知り合いなの?)

「貴様こそ、那須野で滅びたとばかり思っていたのじゃがな」

「ふん、三浦も上総も我を滅ぼすことなぞ出来ぬ。多少力を殺がれたのでな、しばらく地に潜っておっただけよ」

「多少じゃと? そうではあるまい。かなり弱っていると見たぞ。何故なら、以前の貴様のやり口に比べ、あまりにも底が浅い」

「ふふ、そこまでわかるとは流石だ。転生したと言ったが、頭の出来は昔のままと見える。…そう、あれから保元の乱、平治の乱を起こしたが力が足りず、世は治まりおった」

 マーラの語りは続く。

「応仁の乱に続けて戦国の世を到来させたまでは良かったが、日吉社(山王社)の守護を受けた日吉丸とかいう輩のおかげで世がまとまってしまった。

 その子孫を滅ぼすのには成功したが、東照大権現と呼ばれる奴のおかげで泰平の世となってしまった」

(こいつって…こいつって…そんな恐ろしい奴だったの…?…あたしなんかが敵う相手じゃなかった…)

 環は心の底から震えていた。

「なるほどのう」

「それでも島原ではかなりの血を流させたし、由井正雪の場合は惜しいところまで行ったのだ」

「この前は悪龍をそそのかしておったな」

「気が付いておったか。そうとも、守りの堅い泰平の世となった今、我はこの国の各所に散らばり、人心を腐敗させることにしたのだ。我に取り、百年など瞬きの間だからな」

「やはり手口が見え透いておる。そうとう弱っておるな」

「…口惜しいが認めよう。…どうだみくず、いや今は弥生だったな、昔のように我に力を貸せ」

(えっ?…弥生様って昔…?)

「断る」

「なぜだ藻いや弥生、お前はあれほど人を憎んでいたではないか。それが何故、人の味方をする」

「別に味方をしているわけではない。人間など死のうが生きようがどうでも良い」

「なら我に力を貸せ。お前が再び我の眷属となればこの世を闇に落とすことも出来ようぞ」

「貴様に魂を売り渡すことだけは死んでも出来ぬ」

「何故それほどに我を拒む…」

「貴様に話しても理解できまい。それに今の儂には守るべき者がおる。その為ならこの身も魂も何ほどでもない」

 それを聞いたマーラはいやらしく顔を歪め、

「そうか、その言葉が本当かどうか、試してやろう」

 そう言って手を叩く。下っ端の男が二人、やって来た。

「お呼びですかい、先生」

「うむ。この女狐に例の責めを味合わせてやれ」

「へいっ」

 いそいそと準備にかかる手下。一人は弥生を天井から下がった縄に括り付け、逆さに吊り上げた。もう一人は大きな水桶を運んでくる。

 環は震えながらそれを見ていた。

「さて弥生、もう一度聞くぞ。我に力を貸すか?」

「お断りじゃ」

「…よし、やれ」

 マーラの合図で、二人の男はそれぞれ前と後ろから、逆さに吊られた弥生を竹の棒で殴りつける。

 頭、胸、腹、顔、背中、尻、脚。所構わず殴りつけられた弥生の顔は無惨に腫れ、口の端から血が流れ出す。

「よし、止め。…どうだ、我の眷属となるか?」

「…こ…と…わ…る」

 マーラの指示で、再び責めが始まった。

「がはっ…」

 鳩尾を突かれ、血を吐いて弥生がぐったりした。すると桶の水が浴びせられ、目を覚まさせられる。

「どうだ、まだ強情を張るか?」

「あ…た…り…ま…え…じゃ…」

 弥生は屈しない。

 次に手下どもは、大きな水桶を弥生の下に据え、綱を緩めた。弥生の頭が水の底に沈む。苦しがって身体を曲げ、空気を求めて喘ぐ弥生だが、更に綱が緩められ、身体の大部分が桶に沈められてしまうと、最早呼吸が出来ない。

 そのまましばらく放置し、藻掻く弥生の動きがわずかになったところで綱が引かれ、弥生の身体は水から引き上げられた。その弥生の胸を竹の棒で突くと、

「げほっ…」

 鼻と口から大量の水を吐き出す弥生…だが十分に息をつく間もなく、再び水に沈められる。

 それを目の当たりにした環はなすすべもなく涙を流し、震えていた。

 数度の水攻めでついに気絶した弥生を逆さに吊り上げたまま、マーラは環に向き直った。

「どうだ?報われない御先稲荷おさきとうがなぞ辞めて、我の眷属にならぬか?」

 環は迷った。たった今、横で弥生に行われた責め苦、耐え抜く自信は全くない。弥生ほどの力のない自分は簡単に殺されてしまうことだろう。それは嫌だった。

 だが。

 昨夜、十両を届けてやった時のおせいの顔が目に浮かんだ。涙を流し、喜んでくれた。御先稲荷おさきとうがとしては下っ端の自分を拝んでくれた。その時の幸福感がよみがえった。

「いやです。私は四谷追分稲荷社御先稲荷。世に災いをもたらす手先にはなりません」

「そうか、貴様も責め苦を味わいたいわけだな」

「あ、味わいたくなんて無いけどぉ、悪魔の言う事なんて聞けません」

「よし、やれ」

 環に近付く手下二人。そこに弥生の声が響いた。

「よく言うた、環。それでこそ誇りある狐族じゃ」

「何…!」

 声の方を向くマーラ。

 そこには、弥生が平然と笑みを浮かべて立っていた。

「貴様、どうして…」

 横を見る。そこには逆さに吊られて気を失っている弥生がいた。

「最初から儂は縛られたりなぞされておらぬぞ」

「何!?」

「ほれ」

 弥生は指を鳴らす。すると、逆さに吊られていた弥生はみるみるうちに小さくなり…切り抜かれた紙となって床に落ちた。

「儂の分身じゃ」

「それにしても何故…我の結界内だというのに…」

「歴然とした力の差があれば結界など何ほどでもない。…それ以前に、マーラ、貴様の結界は儂には効かぬ。いや、効かぬどころではない。儂の力になってしまうのじゃ」

「何と!…するとお前は妖狐のまま転生し、魂だけでなく、身も心も未だ妖狐のままであるというのか! にもかかわらず人間にくみするとは…有り得ぬ!」

「現にそうなのであるから仕方ないであろ?」

 弥生が妖艶に微笑む。

「くっ、お前ら、この女を斬り捨てろ!」

 手下に命令するマーラ。清八初め、十数人が駆けつけてきた。

「止めよ、人間風情が敵うと思っておるのか?」

 おもむろに、掌に青緑色の狐火ーーー木気の塊ーーーを灯し、手下どもに吹き付ける弥生。それらはすべて手下の刀に吸い込まれーーー弾けた。

 紫電が満ち、跳ね回り、手下どもは全て床に倒れる。不利と見たマーラは逃げ出した。

「環! 追うぞ!」

 縛られた環に向けて指を差す弥生。同時に環を縛っていた縄が切れ、環は自由になる。額の御札も剥がれ落ちた。

「はっ、はい!」

 弥生に見惚れていた環は我に返ると、走り出した弥生に続く。

 地下室から地上へ続く広間へ出た。マーラは階段を登り、地上へ逃れようとしている。

「環、ここには結界はない。マーラを討つのじゃ!」

「え、でも私…」

「早ようせい! 逃げられてしまうぞ!」

「はいっ!!」

 環は手に霊力を溜め、一気にそれを放った。

 あと二歩で地上に出るところであったマーラの背にそれは吸い込まれる。

「な、何…!」

 マーラの身体から黒い煙か霧のようなものが立ちのぼってきた。

「環、あれこそが本体じゃ。もう一度、霊力を放て」

「は、はい…」

 力なく頷く環。先程の一撃に渾身の力を込めたため、二撃目を放つのに時間がかかる。

「しっかりせい! お主は御先稲荷おさきとうがであろう!」

 弥生の檄に、環は気を取り直し、再度霊気を放った。それはマーラの本体、黒い霧に吸い込まれると、

「……!!!」

 声にならない声を上げ、マーラは霧散した。あとに残ったのは取り付かれていたらしい神主然とした男であった。気絶しているようだ。

「ようやったぞ、環。お主がマーラを退治したのじゃ」

「や、弥生様ーーーーーーっ!」

 今になって感情が高ぶったのか、弥生に縋って泣きじゃくる環であった。

「ありがとうございます、弥生様…あたし、あたし…」

「天狐になる修行は辛いじゃろうが、挫けるでないぞ」

「はい、はい…」

 環が落ち着くと、弥生は地下室へとって返す。

 気絶している清八と手下を自分たちが縛られていた縄で縛り上げると、奥の扉に目をやる。鍵が掛かっていたが、弥生が触れると外れて落ちた。

 扉の向こうにいたのは、十数人の娘達。神隠しで攫われてきた娘達であろう。

 弥生の姿を見ると泣いて出してくれと訴える。弥生は、

「もう大丈夫じゃ。御先稲荷おさきとうがが救いに来た」

 そう言うと環に娘達の縛めを解かせる。狐の耳と尻尾を出したままであるが、御先稲荷と言われた娘達は怖がる風も見せない。

「あ、ありがとうございます…」

「ありがとうございます、お稲荷様…」

「お稲荷様、お稲荷様…」

 環は照れながら次々と縛めを解いてゆく。

 娘達は縄が解かれると、環の先導で地上へと出た。そこは風神組所有の別宅であった。

 弥生は、環に娘達を任せると、残った者がいないか見て回る。三人ほど留守番役がいたので、軽く気絶させて縛っておいた。

 環は娘達を途中まで送っていく。まだ灯りの残る浅草界隈、町の灯りに狐耳としっぽを照らされた環は神々しく見えた。

 別れしなに、娘達はもう一度環に手を合わせた。

「環、お手柄じゃったな」

「弥生様、なんで私に手柄を譲って下さったのですか?」

「別に譲ったわけではない。マーラの力が儂の力になったように、儂の力がマーラの力になるのを恐れたのじゃ。妖力ではマーラは倒せぬ。霊力か神力でなければな」

「それであたしに…」

「さて、帰るとしよう。直也が心配しているじゃろう」

「はい」

 帰り道すがら、環が尋ねる。

「…弥生様」

「なんじゃ?」

「弥生様、さっきの…あの…マーラ…ご存じなんですか?」

「うむ、…おおそうじゃ、環、そなたから、江戸中の御先稲荷おさきとうが、できれば天狐様にまで伝えてもらいたい」

 そう言って弥生が語ったマーラの所業。

 その昔、天竺で斑足太子の妻、「華陽夫人」に取り憑き、千人の首を斬り塚を作らせた。

 その後中国へ行き、夏の国の最後の王、桀王けつおうの寵姫「妹妃ばっき」となり夏の国を滅亡に導き、

 次いで商の国の受王の寵姫、「妲妃だっき」に取り憑いて残虐の限りを尽くし、その国を滅ぼした。

 更に商の国の後に立った周の幽王の寵姫、笑わない姫「褒似ほうじ」となって一度は周を滅亡寸前にまで追い込んだ。

 そして遣唐使船に紛れてこの日の本へ渡り、…鳥羽上皇の時代、「玉藻前たまものまえ」を操って世の中を乱そうとした奴である。

 そいつが、この泰平の世を乱さんと、跳梁跋扈ちょうりょうばっこし始めている、と。

「弥生様って…まさか…」

「…聞かんでくれ」

 辛そうな弥生の表情に、環は口を閉ざした。そのまま二人は黙って歩き、駒形堂の袂に着いた。

「さあ、直也さんの所に帰りましょう」

「そうじゃな」

 直也は、弥生の顔を見るなり、

「弥生! 無事だったのか!…浅草寺で神隠しがあったと聞いて、心配してたんだぞ…お前達二人とも帰ってこないし」

「心配かけたのう、直也。…じゃが、お主の希望だったのじゃろう?」

「…そうだけど。…ということは、解決したのか?」

 弥生は大きく頷いて、

「うむ。環のおかげでな」

「そっか、環さん、ご苦労様」

 環は頬を染めて、

「そんな…弥生様がいてくださったからこそですよぉ…」

「何にしても、二人とも疲れたろう、まだ風呂には入れるようだから、汗と埃を流してきたらどうだい?」

「うむ、そうするか」

 そこで弥生と環は湯を浴びることにした。

「ああ、いいお湯ですねえ」

「そうじゃな」

 湯船に浸かってくつろぐ二人。他に客はいないので貸し切り状態だ。

「…ねえ弥生様、一つだけ教えて下さいませんか」

「何じゃ?」

「弥生様は、なぜ直也様の守護狐をなさってらっしゃるのですか?」

「何故じゃろうのう…一つには直也の父と母から頼まれたからじゃな」

「それだけですか?…直也様のこと、お好きなんでしょう?」

「ふふ、そうじゃな、直也は気に入っておる。小さい頃から見てきたが、人が良すぎる事を除けばそうはおらぬほど出来た男じゃ」

「そうではなくて、その、…男の人として」

「何!?」

 慌てる弥生。

「弥生様、顔が真っ赤ですよぉ」

「湯に浸かっていたからじゃ。…のぼせぬうちに上がるとしよう」

 湯舟から出て、着物を着に出ていく弥生。その背中に向けて環は、

「弥生様、答えて下さいよぉ」

 弥生は環に背中を向けたまま、

「…『隠れ里』を知っておるか?」

「えっ!…『隠れ里』…」

 隠れ里、それは人界を離れた別世界であり、そこに住む者は人も妖も等しく、争いもなく、満たされた生活をしていると言われる理想郷である。

「...直也はな、この先『隠れ里』の当主になるべき男なのじゃ」

「直也様が…」

「…だからこそ、直也にはしっかりした男になってもらうと共に、相応しい花嫁を見つけてやるのが儂の役目なのじゃ。…こんな薄汚れた妖狐が妻になってよいものか」

「弥生様…そんな…」

「環、そなたじゃから話したが、里のことは他言無用じゃぞ」

「はい、わかっています。でも、弥生様はそれでいいのですか?」

「儂はな、直也の影でいられればそれでよい」

 一足先に部屋へ戻っていく弥生。その背中を見つめ、環はそっとため息をつき、空を見上げた。

 一面の星月夜。天の川が美しく空に架かっていた。

 さてさて、弥生の過去が気になって来たかと思いますが、それはもう少し先のお楽しみです。

 マーラと九尾の狐との関係はオリジナル解釈です。

 妹妃ばっき褒似ほうじは近い字での当て字です。


 それでは、次回も読んでいただけましたら幸いです。

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