巻の十七 江戸での一騒動
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巻の十七 江戸での一騒動
笹子を発った直也と弥生は、甲州街道に出、東へと歩いて行く。
宿場としては黒野田宿、阿弥陀海道宿、白野宿、中初狩宿、下初狩宿、花咲宿ときて、大月宿にやってきた。その行く手に、怪異な山容が見える。
「あれが岩殿山という山じゃな」
それは山と言うより巨大な岩塊。垂直に切り立った岩壁を擁し、重厚な存在感があった。
もう夕闇が迫る時刻であり、大月宿でその日は泊まる。
翌日は早立ち、駒橋宿、猿橋宿、鳥沢宿、犬目宿と歩いて行く。このあたりは宿場間が短い。その分、宿場の規模も小さいのであるが。
「犬、猿、鳥、なんて桃太郎みたいだな」
「そう言えば昔、お主に話してやったのう。実はこの左手の山じゃが、ももくらやま(百蔵山)と言うそうじゃぞ」
「へえ、じゃあ鬼もいたのかな?」
「その通りじゃ」
「えっ?」
「右手奥には『九鬼山』なる山があるそうじゃ」
「……」
「鬼の伝説は多い。これから先も、学ぶ姿勢を貫く事じゃ」
直也の心にわだかまっている鬼への拘りを知る弥生は、明るい調子でそう言った。
吉野宿で一泊し、小さな仏像が安置されたことからその名がある小仏峠を越えると駒木野の関所である。
だが手形を持たない直也と弥生は、峠から山の中を歩き、関所をやりすごした。
関所破りが見つかればえらいことになるが、弥生が一緒なので問題もなく、その日は八王子の先、日野宿泊まり。
明けて、いよいよ江戸に入る日である。
「弥生は江戸へ行ったことがあるのか?」
「うむ、まだ家康が幕府を開く前にな。その頃は片田舎の町といった規模じゃった。しかし今は一大都市に発展したという事じゃからな。お主も一度見ておくにしくはない」
流石の弥生も、今の江戸の繁盛ぶりは噂に聞くだけで、直に見たことはないようだ。
府中を過ぎ、高井戸も過ぎて内藤新宿、いよいよ江戸の町に入った。
江戸に近付いた頃から往き来する人間が多くなっていたが、新宿を過ぎるとこんなに人間がいたのかと思うほどに人が溢れている。直也は初めて体験する雑踏に目を見張っていた。
「まるで祭の人混みだ…いつもこんなに人が多いのかよ、江戸って所は」
「気をつけよ、掏摸や物盗りに遭わぬようにな。はぐれるでないぞ」
弥生も少々、面食らっているようだ。何せ、弥生にとっても前回江戸へ来たのは百年以上前の事であるから。その事を直也は知らないが、わざわざ直也に話す気は弥生には無かった。
しかし、このまま当てもなく歩くのも無駄なことと思い、道案内を頼むことに決める。
しばし立ち止まり、周囲に感覚の網を張り巡らせる弥生。狐の耳を出せないので手間取っている。
「どうした、弥生? 疲れたのか?」
「静かにせい。…うむ、案外近くにおるな」
事情が飲み込めていない直也を伴って、ある所を目指す弥生。やって来たのは小さな神社の前。赤い鳥居が目を惹く。
「弥生、ここって…」
「うむ、稲荷社じゃよ」
「知り合いでもいるのか?」
「知り合いというわけではないが、同族のよしみで道案内を頼もうと思ってな。少しここで待っておれ」
そう直也に説明すると、弥生は一人で境内に踏み込む。いつの間にか狐の耳と尻尾を生やしているのだが、境内にちらほらいる人々には見えていないようだ。
やがて、弥生は本殿の中に吸い込まれるように入っていってしまった。
待つこと小半刻。直也がふと気が付くと、弥生がもう一人の女と連れ立って歩いてくるところだった。
「待たせたの、直也。…これが直也じゃ。儂が後見人をしておる」
最後の言葉は一緒に来た女に向けて言った言葉だ。
「よろしく、直也さん。あたし、環といいます。御先稲荷です。…まだ野狐ですけどぉ」
環と名乗ったその女は、弥生と年格好は同じくらい、黄八丈の着物を着て黒い帯を締め、髪は島田に結っていた。耳も尻尾も見あたらない。目尻がちょっと吊り上がった、色白の美人である。
いったい、狐というものは陰の気の動物なので、常に男の精を求め、化ける時は女に化けることが多い。牡狐でも化ける時は女に化けると言われる。
しかし牝狐の化けた女は皆見目麗しく、牡狐の化けた女はどこか野暮ったいとも言われている。
その環と名乗った狐は間違いなく牝狐であろうことが見て取れた。
「よろしく、環さん。…で、野狐って何ですか?」
「…まあ野良狐と考えて良い。要は下っ端ということじゃ」
「ひっどーい!弥生様、そんな言い方すること無いじゃないですか。これでも御先稲荷の一員なんですから」
「…で、御先稲荷って何ですか?」
「あらまあ、直也さん、ご存じないんですか?…稲荷神のお使いですよぉ。上から「主領」「寄方」「野狐」とあって、この関東じゃ王子稲荷で試験を受けて、段々と位が上がっていくんです。あたしはやっと御先稲荷になれたばかりなので下っ端には違いないですけどぉ」
そう言って拗ねたように口を尖らせ、身を捩る。なんだか色っぽい。
「こらこら、直也を誘惑するのは止めい。…それでは数日、江戸の案内を頼むぞ」
「はい、わかってますよぉ。それで、何かご希望は?」
「そうじゃな、なにしろ初めてのようなものじゃ、任せる。…直也、お主は何か希望があるか?」
「江戸は右も左もわからない。…環さんにお任せするよ」
「わかりました。それじゃあまず、お城方面へ行きましょう」
そう言って環は歩き出す。
「お城?」
「はい、将軍様がおわしますお城です。もちろん中へは入れませんが、九段のあたりからだとよく見えるんですよぉ」
そこで、環の先導で、四谷、市ヶ谷を経て、一行は九段にやって来た。
「あれが江戸城です。今は五代将軍様がおわします」
九段から坂を下ると直に神田神保町である。さすがに江戸っ子の町と言われるだけあって神田界隈は活気に溢れていた。
そろそろ夕暮れが近付き、三人は喧噪から少し離れた小さな宿屋に泊まることにした。宿屋の二階でくつろぐ一行。
「すみませんねえ、あたしの分も払って頂いて」
「案内を頼んだのはこっちなんだから、これくらいは当たり前ですよ」
「直也さんはお優しくていらっしゃる。弥生様がうらやましい。あたしも御先稲荷でなくて守護狐になればよかったかな」
「環、そなたはまだまだ俗気が抜けておらんのう…そんなことでは天狐になるのはおぼつかぬぞ」
「あたしはあんまり気乗りしなかったんだけどぉ、妹達がみんな御先になるっていうので仕方なく御先になったんですものぉ」
「その様子では妹の方が先に位が進みそうじゃな」
「うっ…確かに、もう妹達はみんな寄方になってますけどぉ…」
狐の美女二人の話には付いて行けそうもないので、直也は暮れゆく窓の外を行き交う人々をぼんやりと眺めていた。
翌日は神田から日本橋方面へ向かう。
江戸一番の賑わいを見せる日本橋通町。大店が軒を連ね、直也は初めて目にする繁華街である。
弥生と環は興味深そうに、小間物屋で簪や櫛を眺め、呉服屋で反物を愛で、行き交う華やかな装いの娘達に目を向けている。
「弥生もやっぱりああいうものに興味あるんだな」
直也が誰に言うとも無しに呟くと、弥生は、
「うむ。やはり今風に化けるためにはそれ相応の知識がないとな」
…欲しいわけではなく、化けるための参考資料だったらしい。
少し疲れた一行は、茶店に立ち寄ることにした。緋毛氈を敷いた縁台に腰掛け、弥生が茶店の娘に注文する。
「お茶を一杯ずつ、それに大福を十皿」
「えっと、お三人様ですよね?」
聞き間違いかと思ったらしい。
「そうじゃ。お茶三人分と大福十皿じゃ」
赤い襷を締めた娘はあわてて店の奥に引っ込み、お盆にお茶と大福を乗せて戻ってきた。お茶を各人に、大福を直也の前に八皿置こうとしたので、
「違う違う。儂に八皿寄越せ」
完全に目を丸くした娘は、弥生の前に八皿、直也と環には一皿ずつ、大福の皿を置き、
「ごゆっくりお召し上がり下さい」
やっとそれだけ言うと、そそくさと引っ込んでしまった。
直也は苦笑しながら大福をつまんだ。餡がたっぷり入っていて、なかなか旨い。弥生は大福を一口に頬張り、旨そうに食べていく。環はと見ると、お上品に少しずつ食べていた。
狐がみんな弥生みたいに大食らいじゃないことを知った直也であった。
ふと気が付くと、周りに人が大勢集まっている。皆、弥生と環をそれとはなしに見つめているようだ。
結わずに髪を垂らした弥生と島田髷に結った環。いずれ劣らぬ美女が二人、茶店で休んでいれば、人目を惹くのも当然と言えた。
(別嬪の娘だねぇ)(どこの娘かなあ)(髪を結っていないところを見るとどこかの巫女かねえ)(島田髪の娘はどっかの大店のお嬢さんかなあ)
(それにしても一緒にいる野郎は何なんだろう)(むさっくるしい格好しやがって、山出しだな)
当の本人達は知ってか知らずか、黙々と大福を食べ、茶をすすっている。
やがて大福も食べ終わった弥生は、
「さて、次へ行くか。環、次はどこじゃな?」
「そうですね、上野、浅草へ行ってみましょうか」
そういうことになった。
秋葉ヶ原を通り、神田明神下、黒門町、そして上野は不忍池の辺で一行はまた休憩することにした。
茶店に入り、黄粉餅を注文する。ここでも弥生は五皿を平らげ、もう三皿追加注文した。あきれる直也。茶店の娘もびっくりした顔で黄粉餅を持ってやってくる。
そこに、招かれざるものが現れた。
「おお、おせいちゃん、今日も別嬪だねぇ」
やくざ風の男である。弟分らしき男を四、五人連れている。
「何のご用ですか」
すげなくはねつけるおせいという娘。
「これを見ろ。お前のお父っつあんがこさえた借金の証文だ。元利合わせて十両。払ってもらうぜ」
茶店の主人、おせいの父親らしき初老の男が出て来た。
「そ、それは伊勢屋さんに書いた証文で、伊勢屋さんは返すのはいつでも良いと言って下すって…」
「うちの親分が肩替わりしたんだよ。さあ払ってもらおうかい」
「そう言われましても急に十両なんて大金は用意できません...」
「それじゃあおせいをもらっていくぜ。…さあ、一緒に来てもらおうか」
「何するのよ…!…いやーっ!!」
「おせいを連れて行かれては困ります、清八さん」
父親は必死にそれを止めるが、清八と呼ばれた男はそれを振り払い、
「うるせぇっ!こっちにゃ証文があるんでぇっ! おせいを煮て喰おうと焼いて喰おうとこっちの勝手なんでぇ!」
「いやーっ!やめてー!」
おせいは必死に振り解こうとするが、男の力には敵わない。しかも焦れた清八は、おせいに平手打ちを喰らわした。
ぱん、と乾いた音が響く。おせいは、涙目になりながらも、連れていかれまいと藻掻いている。
「いいかげんに止めろよ」
見かねた直也が間に割って入った。
「何でえ、てめえは。すっこんでろい!」
「やっぱり娘さんをひっぱたくというのは良くないな。その手を離してあげなよ」
おせいは目を丸くして、止めに入った直也を見つめている。
清八はこの上野・浅草界隈に勢力を持つ「風神一家」の大物で、この辺りの者は逆らうことなどしたくても出来ないのだ。
それを横目に、
「ねえ、直也さんっていつもああなのぉ?」
「うむ。お節介というか、人がいいというか、とにかく揉め事に首を突っ込みたがるのじゃ」
「弥生様も苦労が絶えませんねぇ…」
「そうでもないわ。あれが直也のいいところでもあるんじゃからな」
「助けてあげなくていいんですか?」
「ああ、あの程度の奴らなら万が一にも直也が負ける気遣いはない」
弥生と環はのんびりとした会話を交わしていた。
「すっこんでろというのがわからねぇのか!」
空いた手で直也を殴りつける清八。しかし直也はそれをかわしざま、その手を取って、手首を捻り上げた。
「あいててててててっ」
堪らず悲鳴を上げる清八。思わずおせいを捕まえた手を放してしまう。自由になったおせいは直也の後ろに隠れた。
「この野郎!」
弟分達が殴りかかってきた。直也は、そいつらに向かって思いっきり突き飛ばす。一人が勢い余って清八の顔を殴ってしまった。
「あ、兄貴、すいやせん…!」
「馬鹿野郎!」
清八にどつかれてひっくり返る弟分。残った四人は一斉に直也に襲いかかった。
前蹴りで牽制する直也。足を止めた一人目の横っ面を平手ではたく。そいつは隣にいた男とぶつかり、二人ともよろめいた。
三人目の拳骨を身を低くしてかわし、伸び上がりざま、顎を掌底で突き上げる。四人目が横から殴りかかってきたところを、身体を半身にしてかわすと、脇の下に肘鉄を喰らわした。
この一連のやりとりで、三人目と四人目は完全に伸びてしまった。
それを見た清八は脇差しを抜いた。弟分達も脇差しを抜く。見物していた娘達から悲鳴が上がった。
直也も道中差しを抜こうとして…茶店の縁台に置いてあることに気が付いた。
清八と残った弟分達四人。丸腰の直也は不利である。弥生と環は清八達の後ろなので、刀を渡してもらうわけにもいかない。その上、後ろにはおせいがいる。直也は思わず懐を探った。と、短刀に手が触れる。翠から譲り受けた「翠龍」だった。
直也は翠龍を抜き、構える。
「はは、そんな短刀でやり合う気か」
弟分達が斬りかかってきた。直也は翠龍でそれを受ける。軽い手応えがあった。
「わっ」
弟分の叫び声。
叫んだ男の手元を見ると、手にした刀は翠龍によって斬り折られていた。折れた刃先は音を立てて地面に落ちる。
「な、何だと?」
一瞬ひるんだ男達だが、そこは無鉄砲なやくざ者、あらためて振りかぶり、斬りつけてきた。
それを軽く受ける直也。それだけで相手の刀は折れ飛ぶ。流石に龍の銘を持つ神刀だけのことはある。
弟分達が皆、刀を折られたのを見た清八は、刀を納めると、
「憶えてやがれ」
と捨て台詞を残して逃げていった。残された弟分達は、気絶した二人を担いでその後を追った。
直也は翠龍をしげしげと眺める。激しく打ち合ったにもかかわらず、その青白く光る刀身には刃こぼれ一つ、かすり傷一つ付いていない。
あまりと言えばあまりの切れ味に、滅多なことでは抜いてはならない、と心に誓う直也であった。
「あ…ありがとうございました」
その声に我に返った直也が振り向くと、おせいが頬を染めて立っていた。
「怪我はなかったかい?」
直也が尋ねる。さっき清八に叩かれた頬が少し赤くなっていたが、怪我はないとおせいは答えた。
「あいつらは風神一家の荒くれです。早くここを立ち去った方がいいですよ」
「それより、…おせいさんだっけか、またあいつらが来たらどうするんだい?」
「……」
絶句するおせい。十両といえば大金である。おせいにはどう足掻いても用意することなんて出来ない。
「そもそも、おせいさんのお父さんが作った借金なんだろう? それをなんでおせいさんが払わなければならないんだよ」
「仕方あるまい、そう証文に記されているんじゃからな」
「弥生…」
弥生にしてみれば、直也がやっかい事に首を突っ込み怪我をされるのが一番心配なのでそっけない口調になる。
「何とかしてあげたいですね…」
これは環。
「とにかく、あいつらは今日はもう来ないでしょう。私達で何が出来るか、考えてみましょう」
御先稲荷だけあって、やっぱり気になっているようだ。
そこへ声を掛けてきた者があった。
「もし、…素晴らしい刀をお持ちですなあ」
見ると、大店の主人と言った貫禄の初老の男である。
「わたくしはこの先、池ノ端に店を持つ源兵衛と言いまして、少々お時間をいただきたいのですが…」
直也が弥生の方を見ると、黙って頷いているので、
「いいですよ」
そう答えると、源兵衛は自分の店へ来てくれと、先に立って歩き出した。直也と弥生が後に続く。環はおせいに明日も来るから心配しないようにと声を掛け、後を追った。
源兵衛の店は不忍池から湯島天神へわずかに入った所にある大きな料亭であった。そこの離れに一同は通された。
「お話というのは…」
早速に源兵衛が切り出す。
「実は、ここに化け物が出るのです。客商売なので、何とかして退治したいのですが、評判が落ちると困るので表立って祈祷とかを頼むわけにも行きません。それで、先程拝見しました短刀、その威光を持ちまして、化け物を退けて頂きたいのです」
「化け物…ですか」
「お嫌でしたら、その短刀を是非ともお譲り下さい。お金は幾らでも出します。…百両ではどうでしょうか」
「いや、この刀は神刀で、譲るわけにはいきません」
「それでしたら、お泊まり頂いて、化け物を退治して下さいませ。…お礼は致します。二十両。…前金に十両、いかがでしょう」
「お引き受け致しましょう」
答えたのは環であった。
「おお、さっそくお引き受け下さりましてありがとうございます。それでは、退治するまでこのお部屋を使って下さい。食事、風呂、一切こちらで用意致しますので」
「それで、その化け物というのは?」
「…よくわからないのです」
源兵衛の説明によると、寝ている客の上に落ちてきて、布団を剥がしたり、夜中、厠へ行くと、暗闇から尻を撫でられたり、時々庭に人魂が飛んだり、といろいろな怪異があるのだという。
怪異に遭われたお客様には十分なお詫びをして、余所で言わないでくれと頼んでいるのだが、金はかさむは、いつ余所でばらされるかわからないは、心配の種は尽きないのだそうだ。
「任せておいて下さい」
勢い込んで引き受ける環であった。
源兵衛が引き上げると、女中がお茶とお茶菓子を持ってやって来た。その女中に化け物の事を聞いてみる。すると、
「さあ、あたしは最近来たばかりなので何とも…」
と、歯切れの悪い返事が返ってきた。
女中がいなくなると、お茶菓子をつまみながら、弥生が口を開いた。
「化け物の気配は感じないがのう…環、安請け合いをして、どういうつもりじゃ?」
「だって、御先稲荷としてほっとけないじゃないですか」
さすが下っ端でもお稲荷様に使える者である。
「いざとなったら弥生様もいるし直也さんの神刀もありますから」
…やっぱり後先考え無しのようだ。
湯に浸かり、運ばれてきた夕食を食べる。一流の料亭だけあって、山海の珍味が山盛りである。弥生はせっせと口に運んでいる。環はなにか考え事をしているようだ。
「環、どうした? 食がすすまんではないか」
「ええ、化け物に対して、何か準備しておくことはないかと思いまして…」
「何じゃ、化け物退治は初めてか?」
「…じつは…」
「そんなでよくも簡単に引き受けたもんじゃのう」
「……」
「まあよい。本当に、いざとなったら力を貸すによって、安心するが良い」
「ありがとうございます」
安心したのか、環も膳をきれいに平らげた。
食事後、
「さて、あとは化け物とやらが出るのを待つだけじゃ。行灯の明かりは暗めにして待つとしようか」
そういうことで、三人は静かに時が過ぎるのを待つ。
やがて、上野の山から鐘の音が。
「四つを過ぎたか…」(午後十時過ぎ)
「そろそろ出るかな?」
そう言って庭の方を見るとも無しに見ていると、庭の石灯籠にぽっと灯りが灯った。
「お?」
「いよいよじゃな…」
石灯籠に火が灯った後、しばらくは何事もなかったが、突如庭の隅から火の玉が飛んできた。
弥生はそれを睨みつけているが、環は腰を浮かした。
「待て、環。もう少し様子を見るのじゃ」
弥生にそう言われて、浮かしかけた腰を下ろす環。
庭には火の玉が二つ、乱舞している。それだけかと思っていたら、奥の襖がするするとひとりでに開いた。
「ほほう」
どこからか、仏壇のお鈴の音が、ちーんと響く。
「なかなか面白い趣向じゃな」
弥生は泰然自若と構えている。直也は初めて見る現象に興味津々である。
庭に、異形の者が現れた。身の丈九尺近い大入道である。その割に横幅が細い、ひょろっとした化け物だ。それが、
「ひひひひひひひひ…」
と不気味に笑った。
環は我慢が出来なくなったと見え、狐の耳と尻尾を現す。髪は解け、垂らし髪となった。環は縁側に立ちはだかると、
それでも大入道の方が大きいので、見上げるようにして、
「化け物め!…内藤新宿四谷追分稲荷社御先稲荷、環!…民に害なす不逞の妖、許すわけにはいかぬ。覚悟するが良い」
そう言って、赤い狐火を手のひらに灯した。
そこへ弥生の声。
「環! 乱暴にするでない!」
刻遅く、狐火は環の手を離れ、化け物に向けて放たれた。化け物は慌てた。
「うわわわわっ、まさか、お稲荷さんがいるなんて」
「あちちちっ、こりゃたまらん」
そんな悲鳴を上げると、化け物が二つになった。いや、正確には足と胴体が別々に別れた。
胴体の方は服に火がついたため、慌てて庭の泉水に飛び込む。
一方、足の方は命からがら逃げ出した。それを追う環。狐特有の跳躍で馬乗りになる。
「わあ、勘弁してくれぇ」
化け物の悲鳴。
「環、もうたいがいにせよ。そやつらは化け物ではない。人間じゃ」
「え?」
環と直也が揃って呆れた声を上げる。
「直也、池に落ちた奴を連れて参れ」
弥生はそう言うと、いきなり部屋の片隅へ向けて青白い狐火を投げ付けた。そこには黒装束の男がいていましも三人の荷物を探っていたところであった。
あわてて逃げようとする男に、弥生は、
「動くでない。…禁!」
定身の法をかけ、動けなくしてしまった。
三人を着ていた帯で縛り上げ、行灯の火を明るくする。間違いなく三人とも人間であった。
「さて、こやつらをどうするか…」
「どうするって、こいつらが化け物の真似をして、お客を脅かしていたんだろ?主人に引き渡せばいいじゃないか」
「直也、お主はそう思うのか?」
「他にどうしようって…」
「ふふ、今日は珍しく鈍いのう、こやつらはこの店の人間じゃよ」
「えっ!?」
環と直也は驚きの声を上げる。
「どうじゃ、白状せぬか? この環は御先稲荷じゃ。白状せぬと罰が当たるぞ?」
「は、話します、話します。…お察しの通り、旦那様に頼まれて…」
主人に頼まれ、直也一行を脅かそうとしたらしい。火の玉は焼酎火(芝居で人魂に使う)、襖を開け、お鈴を鳴らしたのは黒装束。
二人が肩車して大入道に化け、脅かして追い払おうとしたというのだ。
「なんでまた…」
「翠龍じゃよ。…そうじゃな?…直也の持つ短刀を狙ったのじゃな?」
「は、はい、騒ぎに乗じて盗み出せと…」
黒装束が白状した。
「やはりな…あの主人、源兵衛の翠龍を見る目が異様じゃったのでまさかとは思っておったのじゃ。加えて、化け物の気配なぞ微塵もせんかったしのう」
「それじゃ弥生様、初めから?」
「うむ、こういう展開に成りそうな気がしておった。…そもそも、騙し合いで狐に勝とうとするのが無謀なのじゃ」
「あたしは気が付けませんでした…まだまだ修行が足りないんですねえ…」
…むしろ弥生が狐として見ても特にこういうことに長けているような気がする直也ではあった。しかし口には出さない。
弥生はそんな直也の心中を知ってか知らずか、
「さて、こ奴らの処分はどうするか…」
弥生が睨みつけると三人は、
「旦那様のお言いつけで…」
「私達はこんなことしたくなかったんですよぅ…」
「お許しくださあい、お稲荷様あ…」
情けない声を上げている。
「主人にも釘を刺しておくか」
弥生がそう言うと、環も同意する。
「そうですね」
そこで環は奥へ向かって右手を招くような動作をした。
何度か繰り返していると、店の主人、源兵衛がふらふらとやってきた。縛り上げた三人の横に座らせる。環が手を三つたたく。すると源兵衛は正気に返った。
「…あ?」
その前に環は立ちはだかって、
「源兵衛、そなた、偽りを申して我等を欺き、神刀を盗み出そうとは不埒な奴。今後は一切そのような真似あいならんぞ」
環の訓告。それなりに威厳がある。さすが下っ端とはいえ御先稲荷。
「は、ははーっ…」
ひれ伏す源兵衛。もう一度脅かして、源兵衛と三人を開放してやった。
「約束通り、化け物は退治したのじゃから、前金の十両は有難くもらっておくが、かまわんな?」
こそこそと引き上げる源兵衛の背中に弥生が声をかける。
「は、はい、それはもう…」
首をすくめる源兵衛。弥生は、
「…環、江戸の案内料としてそなたにやる。好きにするが良い」
「えっ?…よろしいのですか、弥生様」
「うむ。儂も直也もそんな大金はいらぬ。のう、直也」
「うん。…環さん、その十両は環さんの好きに使って良いよ」
「あ、ありがとうございます…それでは早速。失礼します」
そう言うと環は身を躍らせ、闇の中に消えた。
「行ったな…」
「うむ、これでおせいは助かるじゃろう」
それから半刻後、環が戻ってきた。元の島田髪に戻っている。
「おせいにやってきたか」
「はい、おせいの夢の中に現れてお告げをし、枕元にお金を置いてきました」
「ようやった。功徳を積んだのう」
「はい、これも弥生様と直也さんのおかげです。ありがとうございました」
「さて、もう子の刻(午前0時)を過ぎたようじゃ。寝るとしようか」
* * *
翌朝。豪勢なお膳が並んだ、が、献立は油揚げとひじきの煮物、油揚げと菜っ葉の胡麻和え、油揚げと豆腐の味噌汁、鶏肉の油揚げ巻…油揚げづくしであった。
流石に弥生と環はおかわりまでしたが、直也は油っこくて半分以上残した。弥生はもったいないとそれも全部平らげるのであった。
「うむ、久しぶりに満足した」
油揚げ料理を腹一杯食べ、弥生も環も満足したようである。
一服した後、出発することにした。
源兵衛が店先まで見送りに出る。直也の袂に、紙包みを押し込んだ。金子らしい。ぺこぺこ頭を下げる様子を見て、弥生は何を思ったのか、足を止めると筆と墨を所望した。
筆を受け取ると墨をたっぷりと筆に含ませ、門柱に何やら書き付ける。
それはおたまじゃくしのような形の文字で、直也にも、環にさえ読めなかった。筆と墨を返すと弥生は、
「これは商売繁盛のまじないじゃ。消すでないぞ」
そう言うと、先に立って歩き出した。
「そう言えば直也、源兵衛は何を寄越した?」
そう言われて袂を探る直也。取り出したのは切り餅、正確には包金が一つ。つまり二十五両だ。
「こんなにくれたぞ…」
「うむ、そうではないかと思って、人寄せの呪を書いてきてやったのは正解じゃったのう。また使うこともあろう。お主が持っているが良い」
「さて、今日はどこへ案内してくれるのかのう」
「浅草へ参りましょう」
「おお、聞いたことがある。たしか一寸八分の観音様がご本尊じゃったな」
「よくご存じですね。ご本尊様は絶対秘仏なので拝観できませんけれどぉ…」
「賑やかなのかな?」
これは直也。
「ええ、直也さん。北の千束には新吉原が…」
「吉原?」
「遊郭です。男の人なら一度は行ってみたらいいですよぉ。「傾城」と言われるほどの美人がたくさんいますよぉ」
「これこれ、あまり直也を焚き付けるでない。直也にはちゃんとした嫁御を見つけてやらねばならんのじゃ。化粧した白ッ首に捕まったらなんとする」
「世の中を知るにはいい所なんですがねぇ…」
そんな話を交わしながら、一行は人波の中を浅草に向かって歩いて行くのであった。
やっぱり三人目がいると話が膨らみますね。弥生が書いたおたまじゃくしのような文字というのは蝌蚪文字と呼ばれる文字で、中国の古体篆字です。
お金の切り餅というのは切り餅とは一分銀100枚(25両)を紙に方形に包み封印したもので、だからこそ四角く、「餅」なんだそうです。小判の場合は包み金というのが正式らしいです。




