巻の十六 対決、真相、そして別れ
巻の十六 対決、真相、そして別れ
直也達三人は吾平の案内で笹子峠から下ってきた。
その五平の村は、峠から下ってきた急な斜面が尽きるあたり、わずかに傾斜した土地に広がる二十戸ほどの小さな村であった。
「あまり活気があるとは言えんのう」
弥生が一人ごちる。確かに、もう夕暮れとはいえ、人っ子一人見かけないのは奇妙でもあった。家も傾きかけているものや朽ちかけているものもあって、廃村のようにさえ見えた。
その中にあって,五平宅は名主だけあって、そこそこ大きな構えの百姓家であった。
中へ招き入れられる。女中が一人出て来て、すすぎを出してくれた。
「お風呂が沸いております。どうぞお入り下さい」
有難く風呂をごちそうになって峠越えでかいた汗を流し、直也達はあてがわれた部屋でくつろいでいた。
「のう直也、おかしいとは思わぬか?」
「うん、名主の家なら、もっと使用人とかいてもいい筈だし、第一にここの村、人の気配がしない」
「父さん、母さん、本当に人はいないと思うよ」
「何?」
翠の言葉に弥生が驚く。龍神としての翠は、日に日に力が強くなっているようだ。
「この家だって、五平さんとさっきの女中さんの二人しかいないし」
「何だって?…それじゃいったい何のために俺達を招いたんだろう?」
「…ぼくを狙ってるのかな」
突然翠が呟いた。
「翠!?…何を言って…」
「わかってるんだ、僕が父さんと母さんの本当の子供じゃないこと。僕が龍神だって言うこと」
「翠、いつから…」
「さっき、あの雨の中で、声が聞こえたんだ」
「声?」
「うん、声。…いろいろな事を伝えた後、もうすぐお迎えに上がります、って」
「迎えに?…それじゃあここに招いたのは…」
「ううん、違う。五平さんは多分、何者かに脅されてるんだ。心に脅えがあるから」
龍神の力に目覚めつつある翠は、弥生も驚くほどの冴えを見せている。
「そうか、ならば、直接聞いてみるのが一番じゃな」
「母さん、どうするの?」
「脅されている者を喋らせるには二つ、手がある。一つは、脅している相手を上回る脅しをかけること」
「もう一つは?」
「脅している相手から守ってやることじゃ」
「もちろん…守ってあげるんだよね?」
「そうじゃ。困っている人間を見たら、助けてやるがいい」
優しい目で弥生はそう翠に言って聞かせた。
「はい」
ちょうど、五平がやって来たので、部屋に招き入れる。入口に座らせ、弥生は、
「五平さん、何か我々に隠している事は無いかな?」
「…い、いえ、何も…」
そう言われてきょろきょろし始めている。明らかに平静を失っている。
「我々は人にあらず」
弥生が狐の耳と尻尾を生じさせる。
「わっ」
五平が後ろにひっくり返った。よほど驚いたらしい。
「そしてこの子は小さいが龍神じゃ。どうじゃな、話す気になったかな?」
「は、はい、実は…」
すっかり肝を潰した五平はぽつぽつと話し始めた。
それによると、五平は元々この村の者では無く、もっとずっと東の村の者で、そもそも名主などではないという。
所用でこちらに来た時、侍に呼び止められ、十両貰って頼まれたそうだ。女中も似たようなものらしい。
そしてこの廃村に連れ込み、泊まらせる。それが指示であった。理由の説明はない。
「ふむ、だとすればもう頼まれたことは済んでいる訳じゃ。…五平、そなたと女中は死にたくなければすぐにここを離れた方がよい」
「え?…へ、へえ…」
「その侍は人じゃないよ。多分僕が先日退治した悪龍の手先だ」
「ひ、ひえっ、…貴方様方がそんな方達だったとは…失礼しました…お許しを…」
「ああ、じゃからすぐにここを離れよと言うに。…飯の支度だけしていってくれれば良い」
最後の一言はすごく弥生らしいものであった。
女中が用意していった夕食を腹一杯食べ、余った御飯は握り飯にする。あとはもうする事とて無く、屋敷の居間に座って茶をすすっていた。
「さて、準備をするか。直也、手伝ってくれんか」
弥生が腰を浮かす。直也も立ち上がった。
「翠、そこで待ってるんじゃぞ」
二人は部屋の外へ出る。弥生があれこれ指示し、直也が手伝い、最後に弥生が描いた紙を鴨居に貼って、二人は居間に戻った。
「これで良し。十分な結界じゃ」
外が暗闇に包まれ始め、夜が訪れようとしていた。 夕暮れから夜へと移行する「逢魔が時」。弥生が耳を動かした。
「来るぞ…」
弥生は狐耳と尻尾を現し、翠を直也に預けると、
「二人はここでじっとしておれ。この部屋には先程結界を張っておいたから、おいそれと気配を悟られたりはしないはずじゃ。 よいか、儂に何があっても障子を開けるでないぞ」
そう言い残すと、単身、弥生は表へと出て行った。
弥生が外に出ると、空には月も星もなく、闇夜であった。
しかし妖狐である弥生には闇は障害ではない。その両眼は、闇の中をゆっくりやってくる姿を捕らえていた。
「初めは木気の塊、次は大蛇、大猪、そして…人間か」
「狐、何故に我の邪魔をする?…そなたには関係のないことであろうに」
侍姿の妖が弥生に尋ねた。
「ふん、お前になんぞ話しても理解できぬじゃろう。それより何故にお前こそ翠をつけねらうのじゃ」
「成龍になる前の伏龍を喰らえば我は再び龍として甦ることが出来る。奴が成龍になるのも近い。今夜が最後の機会なのだ。邪魔するならば前のように手加減はせぬぞ」
「ほう、前は手加減してくれたのか。それは殊勝な心掛けじゃな。なら儂も本気を出して良いという訳じゃな」
睨み合う両者。静寂が流れ…弥生が動いた。
白い狐火、すなわち金気の狐火を両手に灯すと、侍に投げ付ける。侍は刀を抜くと、それらを両断した。火が消える。
「ほほう、人の姿を取ったのは伊達ではないな。じゃが…これはどうじゃ!」
黄色の狐火に木気を溜め、一気に解き放つ。それは紫電となり、侍の持つ刀をめがけて突き進んだ。
刀を振るう侍。だが紫電は刀に吸い寄せられ…弾けた。雷が落ちたような音がして、侍が吹き飛ぶ。
「これくらいで参るはずは無かろう。いい加減に立て」
地面に伸びた侍に声を投げ付ける。侍はゆっくりと身体を起こすと、
「流石だ、狐。では我も本気を出そう」
そう言うと、背中から羽を生やした。一つ羽ばたき、空中へと舞い上がる。足の指は鉤のように曲がり、鋭い爪が生えている。
「なるほど、鷲と人の合いの子…わかったぞ、お前の正体は…鵺か!」
「良くわかったな…本来我に実体はない。取り憑いた者の身体がそのまま我の物になる。その昔、源頼政が我を討ったが、それは肉体を滅ぼしただけ。我の魂は年月を経て再び蛇に取り憑き、龍の力を得て、人の世に災いをもたらしていたのだ。それを…あの龍神めが…!」
空中から弥生を襲う鵺。弥生の着物の袖が裂けた。侍姿でいた時より数段素早い。
「金気の狐に勝つ為には火剋金、火気が一番だからな。この峠に巣くう鷲の王の身体を取り込んだ。更に龍神の身体を取り込めば、我は神になれる」
何度も何度も急上昇と急降下を繰り返し、弥生を襲う鵺。その足の爪が弥生を襲う。弥生はぎりぎりのところでかわしているが、何度か着物を引っかけられ、着ているものはぼろぼろだった。
「なるほど、五行にはいささか通じているようじゃな…じゃがこれは…どうじゃ!」
弥生が風を起こす。それは旋風となり、砂を巻き上げて鵺に襲いかかった。
「馬鹿な。風は木気、木気で火気を剋する事が出来るか!」
鵺は平然とその風を受け流す。と、その時。いつの間にか弥生が鵺の背中に取り付いているではないか。
「何…!狐め、いつの間に我の背に…!」
「風に乗って、な」
そう言うと弥生は鵺の両翼を力一杯もぎ取った。
「うぎゃああああああああっ」
鵺はひとたまりもなく廃屋の上に墜落する。激突する寸前、弥生は鵺の背中から飛び降り、地面に降り立った。
一方、鵺は廃屋の屋根を突き破る。壊れた廃屋が倒れかかり鵺は廃屋に埋もれた。
「これで終わりの訳はあるまい…」
握っていた鵺の翼を地面に捨て、慎重に身構える弥生。
風が起きた。廃屋の残骸を吹き飛ばし、周囲の廃屋をも崩壊させる。その風の中心に鵺がいた。だが、大分弱っている。
「五行を自在にあやつる狐…そうか、貴様の正体は九尾狐か!!」
「まあ、の」
「何故人の味方をする?…第一貴様は退治され、殺生石に封じられていたのではなかったか?」
「良く知っておるのう。お前のその力…覚えがあるぞ。…もしや一度退治されたお前に力を与えたのは『奴』なのか?『奴』は生きて…いや存在しているのじゃな?」
「貴様の言う『奴』が『あのお方』だとすれば、その通りだ」
「…そうか…ならば尚のこと、お前は倒さねばならんな」
弥生の瞳に冷たい光が灯る。
「何故だ…一度は人の世を憎んだ貴様が何故あのお方に逆らうような真似をする?」
「お前に話す義理はない」
そう言うと、「紫の」狐火を灯す。
「消えよ」
それを鵺に向かって投げ付ける。
「な、何故だあぁぁぁぁっ!」
弱って動きの鈍い鵺はたちまちのうちに紫の火に呑み込まれ…消えた。文字通り、何も残さずに消え去ったのである。
「ふう…」
弥生は一つ大きく息をついた。着物は破れ、白い肌の所々に血が滲んでいる。紫の狐火という大きな術を使ったため、消耗もしていた。
が、気がかりなことがあったため、急ぎ直也達の所に戻ることにするが、その足取りは少しふらついていた。
「母さん、大丈夫かな…」
「大丈夫さ、弥生は強いから。俺たちがいない方が、思い切り戦えるってもんだ」
直也は翠を膝の上に載せて座っている。外で、雷が弾けるような音がした。
「でも…相手もきっと強いよ」
「大丈夫。弥生が負けるものか」
更に外の音が激しくなる。廃屋がいくつも弾け飛んでいるようだ。
「いざとなったら僕が助けに行く」
「莫迦、翠、お前を守るために弥生は戦ってるんだぞ。お前が出てどうする。俺が行くさ」
直也は新しい道中差しを握りしめる。急に、外が静かになった。
「終わった…のか?」
「わからない…母さんの作った結界の中だからほとんどの気配が遮断されていて」
その時、家の中に一つの影がよろめき入ってきた。その影は直也と翠が潜む居間の前でくずおれた。
「弥生!?」
障子越しに見たその影には、確かに耳と尻尾が付いていた。
「父さん、慌てないで」
今にも障子を開けて飛び出して行きそうな直也を翠が押しとどめる。
障子の外の影は、もう一度力なく立ち上がりかけ…障子に手を掛けたところで力尽き、再びくずおれた。障子には血の手形が残った。
「弥生!」
直也が障子に駆け寄る。
「駄目だ、父さん!」
翠が止める間もあらばこそ、直也は一気に障子を引き開けた。
そこにいた者は…
姿こそ弥生に似てはいたが、口は耳まで裂け、手には鋭い爪が生え、目は炎のように燃えていた。それが直也に襲いかかる。直也は咄嗟にかわそうとしたが、脇腹を爪で抉られてしまった。
「ぐあ…」
「父さん!」
「愚か者め、せっかくの結界を中から開きおって。おかげで龍神を喰らうことが出来るわ」
「貴様…!…弥生はどうした…」
「ふん、あの狐は我の分身を倒すだけで疲れ果てているわい。我も傷ついたが、うぬの様な人間の一人や二人、物の数ではない。更にそこにいる伏龍を喰らえば我は神に近付ける」
「そんなことをさせるものか…!」
「ほざけ。これで貴様は終わりだ」
鋭い爪が直也の首筋を狙う。
「化け物、止めろ!」
翠が叫ぶが、刻、既に遅し、直也の頸動脈が切り裂かれた。
「父さん!」
翠の絶叫。
しかし、倒れた直也を見つめて、鵺は動かなかった。
「な、何だ、これは…?」
倒れた直也の首筋から流れ出したものは、血ではなく、泥であった。気が付いてみれば、先程抉った脇腹から流れ出したものも泥である。
「そこまでじゃ」
背後から弥生の声がした。
「消えよ」
もう一度、紫の狐火を灯し、鵺に投げ付ける。
「き、貴様あっ!騙したなぁーーーっ!」」
今度こそ鵺は完全に消滅した。
「莫迦目、もぎ取った翼の方が本体とは儂も迂闊じゃったが、化かしあいで儂に勝てると思ったのか。…直也、翠、もう出て来て良いぞ」
「おう」
直也と翠が、居間の奥の襖を開けて顔を出す。それと同時に、居間にいた翠も泥の塊となった。
「二重に結界を張って正解じゃったのう」
「母さん、すごいよ。僕と父さんの人形を作って居間に置き、本物は奥の間から操るなんて」
「そうじゃろ、これは化かす術の中でも最高位に属するものじゃ。本来なら泥人形だとすぐに気づかれるのじゃが、それを隠すために結界を施す。結界の目的が守るためではなく傀儡の隠蔽じゃとは普通は考えんじゃろうからな」
そう言って、床に大の字に寝ころぶ弥生。良く見ると、着物がぼろぼろだ。
「弥生、着物…」
「うむ、少し待て。二度も紫の火を使ったのでな、少々疲れたのじゃ」
弥生は深く息をつく。存在を「消す」というこの世の摂理に干渉する術は、弥生の寿命を削る事にもなる諸刃の剣なのであった。
弥生が紫の狐火を多用しないのにはそういう背景があるのだが、この時の弥生は、何をおいても『奴』と『奴の眷属』を滅ぼさねばならない思いに囚われていたのだった。
翌朝。
一晩ぐっすり眠り、疲れを癒した弥生は、どうやったものか、着物の破れも無く、けろりとしていた。
台所をあさると、かなりの米と味噌が見つかったので、飯を炊き、味噌汁を作る。
弥生は十杯を平らげた。流石に昨夜の攻防は消耗したらしい。
食事が済むと、直也が尋ねる。
「なあ弥生、昨夜の化け物は何だったんだ?お前、説明してくれずに寝ちまったから…」
「あれは『鵺』(ぬえ)じゃった」
「鵺?」
「うむ。鵺とは、本来トラツグミの事じゃ。妖怪の鵺とは、トラツグミ(鵺)の声で鳴く得体の知れないものという意味なのじゃ。妖怪の鵺は、本来決まった姿を持たない、不定型な物なのじゃから、生き物を喰らうことで、その身体を我がものとすることが出来る。じゃから翠を喰らい、龍の身体を手に入れようとしたのじゃな」
「だから、消してしまったんだね?」
「そうじゃ、翠。そうでもせねば、またいつか肉体を得て、悪さを始めるじゃろうからな…現に、一度源頼政に退治された奴が龍の体を得て悪さを始めておった」
「うん。それには…『マーラ』が力を貸していたようだね」
「『マーラ』?」
「うん。…母さんが『奴』と呼んだ存在だよ。その昔大陸を乱し、その大陸からやって来て、この国を乱そうとしている。」
「あ奴目がまた…この国を乱そうとしておるのか」
「今なら何とか出来るかも知れない。昔の力はまだ戻っていないようだから。…戦国の世が終わったのがその証拠」
「翠、お主はもうみんなわかっておるのか?」
「うん、…母さんが九尾狐の化身だって事も、父さんが隠れ里の次期当主になるべき人だって事も」
さらっと言う翠。だがそれは弥生が秘密にしていた内容である。隠れ里とは人里離れた理想郷。普通の人間がそこに至ることはなく、選ばれた者のみが辿り着けるという。
「そんなことまで!…隠れ里のことは一度だって口にしたことはなかったというのに」
「だって、それが父さんと母さんを選んだ理由の一つだったから」
「そうか、やはり…我々の元に来たのは偶然じゃなかったのじゃな」
「…うん…あの時…悪龍と戦っていた時、地上にものすごく強い金気を感じたんだ。それが弥生母さんだった」
「そうか」
「そして、その側に、とってもあったかい土気を感じた。それが…父さんだったんだ」
「俺が?」
「うん。龍は木気だから、土気の父さんに育てて貰い、金気の母さんに守って貰えれば…理想的だったんだよ」
「なるほどな」
「そして蛇だった時は父さんの土気で、そして土気を十分に浴びた後は人の…この姿を取ることで母さんの金気も浴びることが出来て…今の僕はかつてない力を蓄えつつあるんだ」
「みんな計算尽くだったのか?」
「違う。最初は確かに守って貰いたかった。でも今は…父さんと母さんから…離れたくない」
「翠…」
直也は膝の上の翠をそっと抱きしめる。翠も直也にしがみついて、
「人のぬくもりがどれだけあたたかいものか、父さんから教わった。そして人を思う気持ちがどれだけ強い力になるか…母さんから教わった。家族という絆を…父さんと母さんから教わった」
その時、外で雷が弾けるような音がした。
「何だ!?」
「ああ、もう迎えが来てしまった…」
「迎えじゃと?」
「…うん。…ああ、久しぶり、辰、蛟…」
見ると、束帯に身を包んだ、髯もいかめしい二人の偉丈夫が恭しくやって来たところだった。
「お迎えに上がりました、若」
「お着替えを」
「うん」
頷き、二人が携えてきた衣装に着替える翠。
着替え終わったその姿は、きらめくような公達であった。
「辰、あれを」
「はっ」
辰が何やら細長い包みを差し出す。それを受け取った翠は直也に向かって、
「…お父さん、お世話になりました。これをお納め下さい」
受け取ってみると、それは黒鞘の短刀であった。銀の金具が施されている。
「銘を翠龍と言います。これを僕だと思って持っていて下さい。きっとお役に立つことでしょう」
「ありがとうな、翠」
「闇の力を断つことが出来ます。『鬼』を救うにはまだ十分ではないですが…」
「翠、その事を知っているのか?」
「はい。お父さんが苦しんでいることも。…救うためには他にも必要なものがあると思いますが、それは僕にもわかりません」
「それでも、ありがとう、翠」
次に翠は弥生に向かい、
「お母さん、短い間でしたけれど、ありがとうございました。お母さんにあげられるものは無いけれど…」
「無理をするな、翠…いや、龍神殿」
「翠でいいですよ」
「翠、木気のお主が金気の儂にくれるものが無いのはわかっておる。…でもな、儂はもうお主から十分なものを貰っておる」
「え?」
「それは…『安らぎ』じゃ」
「安らぎ…」
「そうじゃ。初め儂はお主を連れて行くと直也が言った時は反対したのじゃ。それが…赤子の姿になった頃からか、愛おしく思えてきてな…今ではお主を手放したくないとさえ思うておる。儂の乳を飲ませてやれんかったのは心残りじゃが」
「ありがとう、お母さん。…『マーラ』は手強いと思いますが、負けないで下さい」
「若、そろそろ…」
「わかった。…それじゃあ、お父さん、お母さん、お元気で」
「翠、お主も元気でな、悪龍になんて負けるでないぞ」
「はい」
そう言うと翠はもう振り返ることなく、家の外へと歩み出た。両脇には辰と蛟が控えている。
翠が天を仰いだ、と思った瞬間。轟音と共に火柱が立ち、次の瞬間には三人の姿はどこにもなかった。直也と弥生は外に出て、空を見上げる。一点の雲もなく晴れ渡った空は、もう秋の色であった。
どこか遠くで小さく雷鳴が聞こえた。それは翠が告げる別れの挨拶にも聞こえた。
ここでまた一区切りです。
ついに直也の正体というか、出自が明らかに。その詳しい背景などは、弥生の過去と共に次第に明らかにしていきますのでお楽しみに。
この後、ちょっと時間をいただいて、次回は土曜頃投稿予定です。
それでは、次回も読んでいただけたら幸いです。
20150131 修正
辰と蛟が着ていた「衣冠束帯」、「衣冠」と「束帯」は別物ですので、正式な服装である「束帯」に。




