巻の十三 畑仕事とおかみさん
巻の十三 畑仕事とおかみさん
野分が吹き、夏はその勢いを無くしてきた。直也と弥生は山沿いの道を辿り、南へと向かっている。途中、小さな村に立ち寄りながら。
龍の子である翠を連れているため、あまり人のいない道を進んでいるのだ。
直也が翠と名付けた龍の子供…金色の蛇は、日増しに大きくなり、六日が経った今では、一尺ほどにまで育っていた。
「…しかし成長が早いのう」
「そうだな。こんなに大きくなっちまったら宿に泊まるわけにはいかないよな…」
小さいうちは行李に入れて運んでいたが、今では直也の懐に入り、合わせから首を出して周りを見回している。人が来ると首を引っ込めるあたり、やはり並の蛇ではない。
「今夜はあそこに泊まるとしようか」
直也が指さしたのは、使われなくなった杣小屋。屋根が傾いでいるが、泊まることは出来そうである。
「そうじゃな、今のうちに支度しておけば大丈夫じゃろ」
弥生も賛成する。まだ日は傾き始めたばかりだが、寝床を作るために、茅や薄を集めにかからなくてはならない。
屋根の隙間にも枝を被せ、つっかい棒を入れ、小雨くらいなら大丈夫なまでにした。そして煮炊きのための柴を集めてくると、もう日没であった。
「ちょうど間に合ったな…」
弥生が土から作った土鍋に湯を沸かしながら直也が言う。
「そうじゃな」
土鍋に干飯を入れながら弥生が答える。
湯で干飯を戻し、採ってきた水菜やはこべを入れ、粥を作る。その間、翠は邪魔することもなく、じっとしている。人間の子供よりよほど行儀がいい。
二人と一匹で粥を食べ、眠りについた。
* * *
朝。
何となく息苦しく、弥生は日の出前に目覚めた。目覚めた弥生が見たものは、…
自分の胸の上に乗っかっている赤ん坊であった。
「な…!」
慌てて飛び起きる。赤ん坊も目を覚まし、けたたましく泣き始めた。
「ふぎゃー、ふぎゃー」
「…な、何だぁ?」
直也も目を覚ます。
「…何だ? この赤ん坊は? 弥生?」
「儂もわからん! 目が覚めたら儂の懐にいたのじゃ!」
そう言いながら、赤ん坊をあやす。少しぐずったが、なんとか泣きやんだ。
「そう言えば、翠は?」
そう直也が言うと、
「だー」
答える様に赤ん坊が声を上げた。
「いや、お前じゃなくてさ…」
そう言って赤ん坊を見た直也の目が見開かれた。
「み、翠…?」
「...なんじゃと?」
弥生も赤ん坊の顔を覗き込む。赤ん坊は、きれいな緑色の瞳をしていた。
「いろいろ考え合わせると…この赤ん坊が翠であることはほぼ間違いないのう」
弥生が切り出す。
「龍ってそんなに成長が早いのかな? というか人間になれるのか?」
「…儂にもわからん。龍になぞ、そうそうお目にかかれるものではないからのう。しかし、見てみい。この子、脇の下に金色の鱗があろうが。これは龍の徴じゃと言うことを聞いたことはある」
「そうすると、やっぱりこの子が翠か…」
「そう言う事じゃ。…男の子だったんじゃな」
確かに、股間にかわいいものが付いている。何故か直也は慌てて、
「弥生、この子の着る物どうしよう?」
「とりあえず晒しでくるみ、着物の替えで包んでやるしかないのう」
そんなことをやっていると、また翠が泣き始めた。
「おお、よしよし」
直也が抱き上げたが、いっこうに泣きやまない。弥生が見かねて、
「…そんな抱き方をしていては駄目じゃ。貸してみい」
そう言って、翠を受け取ると、
「よしよし、泣くな泣くな」
そう言って背中をごく軽く叩いてやっていると、翠は泣くのを止めた。
「ふふ、人間の子と同じじゃのう」
「弥生、うまいな…」
「当たり前じゃ。覚えておらんじゃろうが、直也も小さい頃は儂がこうしてあやしてやったんじゃぞ…ん? お、これ、翠!」
弥生が慌てた声を出したので何事かと見れば、翠がその小さい手を動かして、弥生の懐…正確には弥生の胸をまさぐっていた。
「駄目じゃ、そんなことをしても儂は乳は出ぬぞ」
「お腹空いてるんだな、蛇だったときは何でも食べたのに、今は無理か…」
「無理そうじゃのう、歯が一本も生えておらん…これ、吸っても乳は出んというのに…くすぐったいぞ」
直也は慌てて弥生と翠から目を逸らした。
「…こりゃ、どこかでもらい乳をするしかないのう…」
「じゃあ、急いで出発するか」
というわけで、干飯をそのまま囓り、水を飲むと、二人は大急ぎで杣小屋を後にした。翠は弥生にしがみついたままだ。
「そういえば!」
いきなり直也が大声を出した。
「何じゃ?びっくりするではないか」
「翠だよ、…朝から弥生にくっついてるじゃないか。蛇だった時は弥生は触れもしなかったのに」
「…そういえばそうじゃな。おそらく、成長と何か関係があるんじゃろうな。…それより乳じゃ。どこぞに赤子のいる母親はいないものか」
山道を半刻ほど急ぎ足で歩くと、少し開けて、斜面一面に畑が広がっていた。何人かが畑を耕している。その中に、背負い篭に赤子を背負って立ち働く女の人がいた。
「頼んでみるか…もし、おかみさん」
「何だね?」
「旅の者ですが、赤ん坊がお腹を空かしているんです。申し訳ありませんが、乳を少し分けてもらえませんか」
女は小太りで、日焼けした顔が山暮らしの長さを物語っていた。 彼女は直也と弥生の顔を交互に見比べていたが、
「ああ、大変だねえ、子供には罪はないものね、ちょっとお貸し」
そう言って弥生から翠を受け取ると、大きな胸を露わにして、
「さ、たーんとお飲み」
翠に乳を飲ませてくれた。
「おうおう、飲むこと飲むこと。よっぽどお腹が空いてたんじゃねえ」
そして弥生に向かって、
「あんた、器量ばっか良くっても、子供に乳も飲ませらんないようじゃ母親失格だよ…そんな細っこい身体じゃこの先心配だねぇ」
「な、な、な」
「それにそっちのあんた、まだ若いようだねぇ、駆け落ちモンかい?その若さで子供作っちまって、しっかりしなよ、かみさんと子供食わして行かなきゃ駄目だよぅ」
「う、あ、あ」
絶句する弥生と直也。どうも翠は弥生と直也の子供だと思っている様だ。この状況では無理もないが。
「ああ、よく飲んだ。いい子だ、いい子だ。ほれほれ」
背中を叩き、げっぷをしたことを確認すると、弥生に手渡した。
「また困ったらおいで。あたしの子はもう乳離れさせる時期だから、乳の出る間はその子に飲ませてあげるよ」
丁寧に礼を言って、直也と弥生はその場を立ち去った。
「まいったな…そういう風に見えるのか、俺たち」
「まあ仕方なかろう。それよりこの先どうするかじゃな…今日だけでもあと二回は乳を飲ませてやらねばのう」
「さっきのおかみさんにまた頼むか」
「それしか無さそうじゃの…」
というわけで、近くに雨露を凌げそうな所はないかと探すことにした。程なく、壊れかけた社が見つかる。
「大丈夫か、ここ…」
いつかの神楽面の付喪神や猿の化け物のことを思い出したらしい。
「大丈夫じゃ。何の気配もない。ただえらく傷んでいるのう…」
そこで翠を弥生に任せ、直也が掃除をし、居場所を整えた。旅を重ね、こういうことも板に付いてきた。
「ご苦労じゃったな、直也。…今度は儂の番じゃ」
直也の手に翠を預けると、弥生は社の周りを巡り。地面に何やら小石を並べていた。
「これでよかろう」
「何してきたんだ?」
弥生は結界を施してきた、と答えた。曰く、木気の長である龍の気は、一つ所に留まっているといろいろと不都合を招くものらしい。
「え? 龍って水気じゃないのか?」
「…お主は何を学んできたのじゃ。およそ全ての鱗虫は木気じゃ。水気なのは介虫。四神を見てみい。東、木気は蒼龍、北の水気が玄武じゃろうが」
「あー…なるほど。なんとなく龍は雨を呼ぶから水気だと思っていたよ」
「ふふ、五行は奥深いじゃろう」
「で、なんでじっとしていてはいけないんだ?」
「木気と火気は『陽』じゃから、動く性質があるからのう…金気、土気、水気はそんな事はないのじゃがな。本来動き、移ろう性質のものが一つ所に留まると、およそ周りのものに影響を与えすぎるのじゃよ…」
「…まだよくわからない」
「つまりじゃ、『翠』を狙って化け物がやってくるかも知れぬと言う事じゃ」
今度はよくわかった。
「じゃから、少しでもその危険を減らすために、結界を施してきたのじゃ」
そう言うと弥生は翠を抱き上げ、
「そろそろ乳をもらいに行くとするか」
二人揃ってもらい乳に行く。おかみさんは快く乳を分けてくれた。背中にいた子供はいない。家に置いてきたとのことだった。
おかみさんの乳を翠はよく飲んだ。
「ありがとうございます。旅先なのであまり持ち合わせがないのですが…」
と言って直也がお礼を渡そうとすると、
「そんなもんいらんよ。それより少し畑を手伝ってくれんかね」
「俺で良ければ」
「よし、嫁さんはそこらで火を焚いて湯を沸かしといてくれ。鉄瓶もそこにあるでな」
そう弥生に言うと、直也の手を取り、
「旦那はおらと来う。みっちり畑仕事を仕込んでやる」
「……」
弥生が何か言う前に、おかみさんは直也の手を引っ張って畑の中へ消えた。一人残された弥生は、仕方なく言われた通り火を起こし、鉄瓶を掛けた。
一方の直也はと言うと、
「あーそうじゃねぇ…もっと腰を入れるんだ…そうそう」
畑を耕していた。
「夏蕎麦の取り入れが終わって、秋蕎麦を蒔かなきゃならんのでな、あんたみたいな半人前でもいてくれりゃ助かるってもんさね」
「は、はあ…」
「そこが終わったら今度はこっちだ。もたもたすんでねぇ。…まったく、どこのおぼっちゃんだい、畑仕事なんぞやったこともなかったんだろが、嫁さんと子供を喰わせていくためにゃがんばらんとあかんよ」
「……」
「むこうまで耕し終わったら休憩だ。おめえの嫁さんが湯を沸かして待ってるぞい」
こんな調子で、それは日が傾くまで続けられた。
「ご苦労さんじゃったな、直也」
湧かした湯を縁の欠けた茶碗で差し出しながら弥生がねぎらいの言葉を掛ける。
「あー…疲れた」
「なんだねぇ、こんくらいで疲れたなんて言って。嫁さんに笑われるぞな。…さあて、赤ん坊にお乳をあげるとすっかね」
そう言って翠に乳を飲ませてくれる。そんなおかみさんに、直也が尋ねる。
「あの、…おかみさん、ご亭主は?」
「あ?…あたしの亭主は猟師さね。一度山にへえったら一週間くらい帰らんからね。明後日あたりにゃ帰るんじゃねえかな」
「そうするとこの畑、おかみさんが一人で?」
「そうだ、他に誰も手伝っちゃくんねぇからな。今日は助かったでよ。また明日も来てくれっか?」
そういうことなら、と明日も来る約束をし、直也と弥生は仮の宿に帰った。
「ほんとに疲れたよ、…畑仕事って大変なんだな」
夕食の餅を食べ終わった直也がぼやく。
「ふふ、良い経験になったようじゃな。…どれ、ちょっと横になってみい」
うつ伏せになった直也の背中から腰にかけて、弥生が按摩を始めた。
「や、弥生!?」
「…じっとしておれ。曲がりなりにも儂らのために働いてくれたのじゃからな、労るのは当然であろう?」
「…すまん」
弥生の指先に疲れが解されていく。いつしか直也は眠りに落ちていた。
翌日、約束通り直也と弥生は翠を連れ、おかみさんの畑へ出かけた。
今日の直也の仕事は、陸稲の草取りである。山なので水田が作れず、陸稲を栽培しているわけだ。
「いいか、稲を踏むでねえぞ。…こういう稲以外の草を引っこ抜くだ。出来るだけ根からな。根を残すとまたじきに生えてくるでな」
耕すのに比べれば楽かと思いきや、そうでも無かった。ずっとしゃがんだままで行うので、足腰への負担が段違いである。直也はすぐに音を上げた。
「うああ…腰が痛い」
度々立ち上がって腰を伸ばさなければ続かない。一方のおかみさんは、直也の倍の早さで疲れも見せずに草を抜いていた。
「ほれほれ、さぼっとらんで働かんかい。午前中に草取りを終わらせるかんな」
「はいはい」
直也は腰の痛みと闘いつつ、草取りを続けた。
昼は、弥生が用意していた雑炊を食べる。
「午後は下の川から水を汲み上げて、陸稲に撒くからな」
「え?」
「桶で汲んできて、稲にやるだよ。陸稲は水切れに弱いだ」
それを聞いた弥生が尋ねる。
「この辺は水が湧かないのか?」
「…んだ。ろくろく湧きゃしねえ。煮炊きに使う水を溜めるのがやっとなんだ。だからてえへんだけんど、下の川まで水を汲みに行くんだよ」
「そんな筈は無かろう…ついこの先にも水脈が眠っておるぞ…」
「あ?…あんたなんでそったらことがわかるんだ?」
「あ…弥生はこういう事に詳しいんです」
まさか、狐だから、と言うわけにも行かず、口ごもる直也。
「はあ、お嬢様かと思ったら、学者さんの娘か何かだったのかね。物は試しだ、その水脈のあるところと言うのを教えてくれんかね」
というわけで、昼食後、四人…弥生と、翠と、翠を背負った直也、そしておかみさんは弥生の案内で、水脈の節…湧き出しやすい場所へ向かった。
「この辺じゃな」
小さな崖の下にあるこれもまた小さな斜面である。
「ほう、確かに少し湿っぽいがの、ここからほんとに水が湧くかね?」
「確かじゃ。大した手間はかからんはずじゃ」
それでは、ということで、用意してきた鋤鍬でその辺を掘り返す。初めは木の葉が積もった土だったが、少し掘り返すと砂利交じりとなり、そこを掘り進めると水が滲んできた。
「おう、水が滲み出してきた」
そこで更に掘り返す。やがてちょろちょろと水が流れ出し、それははっきりとした水流となった。
「おー、水だ水だ!…あんた、弥生サ、すごいよ! あんたの言う通りだった! これで陸稲が枯れずに済むよ!…ありがと、ありがとな」
「何の、役に立てて良かった」
弥生は狐。狐は金気。金生水、水脈を探し当てるのはお手の物である。
その日はそこから畑へと通じる水路を掘ることで暮れた。
「ありがとな、助かった。…これは今日のお礼だ。食べてくんろ」
そう言って、冷えた握り飯をくれた。
直也と弥生は礼を言って、仮の宿に帰った。翠はたっぷりと乳を飲ませてもらって、直也の背中で気持ちよさそうにうつらうつらしている。
「…しかし、お百姓ってのは大変なんだな…」
翠を寝かしつけた後、痛む腰をさすりさすり直也が呟く。
「そうじゃな、八十八の手間をかけるから『米』というのじゃとか、色々言われておるからのう。…それより直也、お主にとっては良い経験じゃ。里では喰うに困った事などなかったからの…、どれ、また按摩をしてやるから横になれ」
「うん…」
弥生の指が直也の疲れを解す。直也は心地よい疲れに身を任せ、眠りへと落ちていく。それを見届けた弥生は、
「来たか…」
そう呟き、外へと出て行った。
弥生は外に出ると、青い狐火を四つ灯し、空中に投げ上げる。あたりがぼんやりと照らし出される。そこにいたはずの化け物は姿を隠したと見え、どこにも見あたらない。
「…木気の小物か」
弥生は更に白い狐火を四つ灯し、仮の宿である祠の東西南北に配置すると、中へ戻る。弱い木気の化け物はこの強い金気には近付けないことを知っているからだ。
(…明日はもっと強い奴らが寄ってきそうじゃの…)
翌日、残りの握り飯を食べた直也と弥生は翠を連れ、三たび、おかみさんの畑へ出向いた。
「おお、遅れずに来たな、感心感心。今日はまず蕎麦の種を蒔く事から始めっからな、直也サは畑を軽く耕してくれ。あたしが種を蒔いていくから。弥生サは赤ん坊見ながらここで雑炊作っててくれろ」
分担が決まり、さっそく作業に入る。直也が耕し、おかみさんが種を蒔く。その最中、おかみさんが声を上げた。
「おわ?」
見ると、足元に山楝蛇がはい出てきたのだった。山楝蛇は奥歯と首筋に毒があるため、迂闊に手を出すのは危険である。
おかみさんはちょっと離れ、直也が鍬の先で山楝蛇を追い払った。
「この辺に山楝蛇が出てくるなんて珍しいのぃ」
山楝蛇は蛙を多く食べるように、水辺に多い蛇なのである。それがこんな山の中にいるのは珍しい。
「そうか、昨日水路を引いたから出て来たのかもしれんのぅ」
そう一人納得すると、おかみさんは再び種蒔きに戻る。それからはそれほどの時間はかからず、全部の種を蒔き終わった。
まだ昼には間があるので、種を蒔いた畑へ、昨日出来たばかりの水路から水を汲み、柄杓で水を撒く。翠は眠っていたので、弥生も手伝うと言い、三人がかりで水を撒いた。
ほどなく蒔き終わって戻ってくると、翠の周りに三匹の山楝蛇がとぐろを巻いていた。
「翠!」
あわてて駆け寄ろうとする直也。それを押しとどめて、
「慌てるな。翠が噛まれたら何とする。脅かさぬよう、そっと追い払うのじゃ」
落ち着きを取り戻した直也は今度も鍬を使って、そっと追い払う。ほどなく三匹は草むらに消えた。
「…しかしおかしいのう。縞蛇ならともかく、この辺にこんなに山楝蛇が集まるなんて…」
おかみさんは首をかしげている。弥生は何か気にかかる事があるような光を目に宿らせ、翠を抱き上げた。
「いずれにせよ儂が目を離さぬようにしよう」
それで直也とおかみさんは、次の仕事にかかる事にした。
「弥生サのおかげで水の心配が無くなったでな、畑をもう少し増やしたいだよ。この先の草原を開墾しようと思うだ」
そこで鍬と鎌を用意し、開墾に取りかかる。鎌で草を刈っていき、鍬で根を掘り返す、これの繰り返し。草だけでなく、灌木もあるし、土には石が混じっているので、遅々として進まないが、昼までかかって、ようやく十歩(じゅうぶ、=十坪、約33平方メートル)ほどの土地を切り開く事が出来た。
弥生が作っていた雑炊で昼にする。力仕事をして腹の減った直也はおかわりをした。弥生は珍しく一杯だけしか食べない。それが気になった直也は、
「弥生、どこか具合でも悪いのか?」
と思わず尋ねた。
「どこも悪くはない、じゃが働いたお主らにまず食べてもらうのが筋というもんじゃろう」
「弥生サは躾けも育ちもいいんだねえ。…直也サ、大事にしてやんなよ、こんないい嫁っこ、ちょっといないよ。器量は良いし、頭もいい。ちょっと華奢で力仕事は出来そうもないけんど、それは旦那が頑張らなきゃね」
「…は、はい…」
「……」
善意の誤解に仕方なく頷く直也と、苦笑する弥生であった。
その日の午後はずっと開墾に費やし、結果、一畝(=30 歩 、約1アール)の草原が畑に変わった。
「ああ、助かったよ、直也サ、あんたも大分百姓仕事が出来るようになっただね、いいこんだ。これは今日の分のお礼だよ」
そう言っておかみさんは粟を分けてくれた。
その晩はもらった粟を粥にして食べた。
直也がしきりに手のひらを気にしているのを見た弥生が、
「直也、手をどうした?見せてみよ」
そう言って半ば無理矢理に手を見ると、連日の野良仕事で鍬を振るった直也の手のひらはものの見事に豆だらけ、ところどころ皮が剥けて血が滲んでいた。
「莫迦目、なぜ黙っていた…」
弥生は水で直也の傷を洗い、晒しを巻いた。そして
「明日、畑で半夏(はんげ、カラスビシャク)を見つけたら集めておけ」
と指示を出した。傷薬にするためである。それが済むと、ここのところ、毎晩の習慣となった按摩をするのであった。
「…いつも悪いな」
「何が悪い?…女房が亭主を労るのは当然であろう?」
「な、何だって!?」
飛び起きる直也。
「…冗談じゃ。何をそんなにうろたえておる? お主には天下一の花嫁を見つけてやるからの、楽しみにしているがよい」
「……」
膨れ面で再び横になる直也であった。
その夜。
真夜中、弥生は目を覚ますと、直也と翠を起こさぬように、そっと外へ出た。案の定、仮の宿にしている祠の周りには無数の蛇が集まってきていた。
「やはりな。翠に惹かれたか。今の翠は人の体、土気が強いからのう。木剋土、木気のお前らがたかるのも無理はない。…じゃがしかし、儂はあまり無益な殺生はしたくないのじゃ」
そう言うと、蛇たちの反応を待った。
蛇たちはその言葉を理解したのか、わずかに這い寄る速度が落ちた。が、相変わらず祠に向かって押し寄せて来ている。
「もう一度警告する。帰れ。お主達を殺したくはない」
そう言うと、金気の狐火、すなわち白い狐火を灯し、それを蛇たちの上空に漂わせた。
それだけで、数匹の弱い蛇が回れ右をして逃げ出す。しかし大半の蛇は動きを止めたものの、鎌首をもたげて弥生を窺っていた。
「これが最後の警告じゃ。帰れ」
しかし蛇たちは動こうとしない。やむなく弥生は、結界を発動させた。
「おん しゅきゃら しゅり そわか」
結界の内側が金気で満たされる。木気である蛇たちはくねりのたうち、我先にと結界の外を目指した。
それを見た弥生は結界を一時解除する。これ幸いと蛇たちは一匹残らず逃げ失せた。
しかし弥生はまだ闇をにらんでいた。
「出てこい。そこにいるのじゃろう?…下っ端をいくら寄越しても何にもならぬぞ」
その声に答えるように、巨大な蛇…蟒蛇が姿を現した。
目は熟れたほおずきのように真っ赤で、吐く息はふいごのよう、竈のような口からは先が二つに割れた舌を出し入れし、身体は松の木のように太く長い。
再び結界を発動させた弥生は、祠から距離を取る。そして、蟒蛇に向かって白い狐火を投げつけた。
だが蟒蛇はその竈のような口を更に大きく開くと、なんとその狐火を呑み込んでしまったではないか。
「何…!」
金気の狐火を呑み込むとは、並の化け蛇ではない。五行をある程度支配している証だ。弥生も慎重にならざるを得ない。大規模な術は直也や翠への影響が否めないからだ。その点では守る弥生の方が不利だと言える。
しかし弥生はそんなことに頓着しない。持ち出した直也の道中差しを手に、いきなり蟒蛇の上に跳躍し、首のあたり…どの辺が首なのか定かではないが…に馬乗りになった。そのまま蟒蛇の頭に刀を突き立てる。
だが、鱗に覆われた蟒蛇の頭に刀は突き立たなかった。
「くっ…!何と硬い鱗じゃ…!」
そんな弥生の首に、蟒蛇の尾が巻き付いた。
「ぐぅっ…」
そのまま、弥生の身体を何巻もすると、一気に締め付ける。
「はぐっ…」
弥生の肺から空気が絞り出される。その弥生は空気を求めて喘ぐが、締め付けられているため、呼吸できない。両手両足は蟒蛇に巻き付かれて動かす事が出来ず、呪を唱えようにも息が出来ない。
今や完全に弥生の攻撃を封じた事を確信し、弥生を捕らえたまま、蟒蛇は再度祠に向かって進み始めた。祠まであと二間程に近付いた時。
「金剋木、戻原身、其白刃」
弥生の声が響いた。
それと同時に、蟒蛇が締め付けていた弥生は一本の刀に変わる。蟒蛇は自分の力で我と我が身に刀を突き立てる事になった。弥生の力では斬れなかったが、蟒蛇自らの力で突き立てたからたまらない。
しゅうしゅうと口から邪気を吐きのたうつ蟒蛇。その前に弥生が現れた。
「狐め…何時の間に…」
初めて蟒蛇が口をきいた。
「…直也の道中差しを儂の姿に変えて操っていたのに気が付けなかったのが解せんか?…儂の金気の結界の中におったからじゃ」
「くう…***様、申し訳ありません…」
良く聞き取れない名前を呟き、蟒蛇は息絶えた。すると同時に、その身体が縮んでいき、最後にはさっきまで押し寄せてきていた無数の蛇と変わらない、普通の蛇がそこにあった。
「…こやつも傀儡じゃったか…本体はまだ滅んではおらぬな…」
そう呟いた弥生は、結界を更に二重に施すと、祠に戻った。中では、外での騒動も知らぬげに、直也と翠が安らかな寝息を立てている。弥生は微笑むと、その隣に身を横たえるのだった。
翌朝。
朝食の粟粥を煮ていると、翠が這い寄ってきた。
「驚いたのう、もうはいはいが出来寄るのか…む?」
翠を抱き上げ、その口を覗き込む弥生。
「これは…!…もう歯が生えておる!」
直也も覗き込む。確かに、乳歯がほとんど生え揃っていた。
「粟粥…食べるかな?」
試しに、冷ました粥を食べさせてみる。すると、美味そうに全部食べてしまった。
「…もうもらい乳の必要はないのう…それどころかこの姿を見たら気味悪がられるじゃろう」
「そうだな…」
「きちんと礼を言えぬのは心苦しいがな…」
「それならば、俺だけがおかみさんに会って、礼を言ってくるよ」
「うむ、それでお主の気が済むのならそうするがよい。…ここは早めに立ち退かねばならんからの」
「何でだ?」
弥生は昨夜の騒動を話す。理解した直也は、急いで粟粥を食べ終わると、
「それじゃあ行ってくる。弥生は先に行っててくれ」
言うが早いか、飛び出していった。
山の畑に着くと、ちょうどおかみさんも来たところであった。
「おはよう、直也サ…あれ?弥生サはどしたね? それに、赤ん坊は?」
「それなんですが…」
言い淀む直也。どう説明したものか、考えずに来てしまった。
おかみさんはそんな直也の様子を見て、
「ははあ…もしかして家の者が追いかけてきて弥生サを連れ戻されたね?」
直也と弥生が駆け落ちものだと誤解したままのおかみさんはそんな想像をしたらしい。
「…じつは…」
「可哀想にねぇ。弥生サもあんたのこと好いてるって言うのにねぇ。おまけにあんな可愛い赤んぼもいるってぇのにねぇ。…直也サ、あんたこんなところで何してる?」
「…え?」
「『え』じゃねえ。弥生サの事が好きなんだろ?だったら追いかけるんだ。追いかけて追いかけて、取り戻すんだよ。そしてまた三人で逃げ延びろ」
「…あの、…」
「ぐずぐずしてんじゃねぇ。さっさと行きな」
「…おかみさん、いままでお世話になりました…もう会えないかも知れませんが、お元気で」
「ああ、あたしも助かったよ。特に水を掘り当ててくれてさ。…いいかい、弥生サを放すんじゃないよ。それがあんたの責任だ」
「はい、それでは」
深々と礼をして、直也は足早に立ち去った。その背に、おかみさんの声が響く。
「…くじけるんじゃないよー…翠ちゃんにもよろしくねぇー…」
振り返り手を振ると、勢いよく駆け出す直也。心の中が暖かい。なぜだか涙が零れそうだった。
そのまま街道を走っていくと、弥生の姿が見えた。息を切らして弥生に追いつく。
「会えたか」
「…うん、本当の事は話せなかったけどな」
「…すまんのう」
「何で弥生が謝る?」
「…儂のような妖狐が付いているばっかりに、お主に要らぬ気苦労をさせてばかりだからのぅ…」
「何言ってんだ? 弥生は弥生だろ? 俺は弥生が狐だろうと何も構わないし、むしろおかげでいろいろ助かってる。感謝してるよ、弥生」
「直也…」
見つめ合う二人。
「だー」
弥生に抱かれた翠が、直也に手を差し出した。
「お、翠、どうした?」
「とー…と…」
「しゃべった!?」
驚く二人。
「かー…か…」
「この分だと成人するのもそう遠い事では無さそうじゃのう」
「うん、それまで…しっかりしなきゃな」
「頼りにしておるぞ、旦那様」
「や、弥生…ふざけるなよ…」
「とと…かか…」
夏の終わりの山道、三人の声は段々と遠くなっていった。
ついに書き溜めがなくなってしまいました。鋭意執筆中ですが、次の更新は数日空くかも知れません(とか書いて置いて間に合う可能性もあったり無かったり)。
それでは次回も読んでいただけたら幸いです。




