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巻の十一    野沢温泉

巻の十一   野沢温泉

 

 今、直也と弥生は、越後新発田、三条、長岡とたどっていた。夏ではあるが涼しい日が続いている。

 鬼と化したしずを救えなかったあの時から直也は口数が減って、黙々と歩くことが多くなり、弥生は心を痛めていた。

 そこで弥生は道を選び、小千谷から十日町、そして谷街道へと入り野沢までやって来たのである。

 ここは寛永年間(1624ー43)に飯山藩主松平氏が湯屋を設けて温泉場とし、本格的な整備を行った。そしてその後、一般にも湯治を許可したため、湯治場として多くの人達が利用する事になったという歴史を持つ。

「行基菩薩(奈良時代の僧侶)が発見したと伝えられているそうじゃ」

 そう直也に説明する弥生。

「そうなのか、そうすると古い温泉なんだな」

 あれから直也は貪欲とも言えるほどに知識を求め、事ある毎に弥生に質問し、行く先々で土地の人に尋ね、機会があれば必ず書物に目を通し、と、人が変わったよう。

 急な変化は歪みを生む。弥生はそれを心配し、ここらで寛がせようと温泉に泊まることにしたわけである。

 

 一の湯元である麻釜おがまからは熱湯が湧出しており、麻をゆでて皮をはぎ繊維を取っていたところからこの名がある。

「あー、いい湯だなあ」

 湯に浸かり、寛ぐ直也。熱い湯の中で手足を伸ばし、ゆっくりしていると、最近余裕がなかったことが実感できる。

「弥生に心配掛けてるかも知れないな」

 そんな思考が出来るあたり、直也も少し成長したようである。

 弥生を守れるように強くなりたいと願い、そして今は鬼と化したしずを人に戻してやりたいと願う。そんな願いは叶う日が来るのか、それは誰にもわからない。

「あー」

 直也が湯の中で身じろぎするとばしゃっ、と飛沫が飛んだ。

「うっ」

 それがたまたま同じ湯船にいた坊主頭の中年の男にかかった。

「あ、済みません、ついうっかり」

 あやまる直也にその男は、

「何、気にすることはない。何やら鬱積うっせきしているものがあるようだな。湯に浸かって体の凝りは解せても心の凝りはなかなか解せぬものよ」

「はあ」

「ふん、旅の者か。わしはこの先にある瑞天寺ずいてんじの坊主だ。良かったら後で来てみるがいい、坐禅でも教えてやろう」

 そう言うと先に風呂から上がっていった。

 それから少しして直也も上がり、宿の部屋で弥生にその話をすると、

「ふむ、禅か、そうじゃな、行ってみるか?」

「うん、少し興味あるしな」

 それで、夕食にもまだ時間があるので直也と弥生は二人連れ立ってその瑞天寺ずいてんじへと向かった。


 土地の者に聞きながら、山へと向かう。野沢温泉の西外れ、山腹に瑞天寺ずいてんじはあった。

 どことなく寂れた山門をくぐると、草が伸び放題の境内に、先ほどの坊さんが立っており、直也が来たのを見つけると、

「おう、さっきの若造だな、上がれ上がれ。そっちは若造の連れか、なかなか美形だのう、美人はいつでも歓迎だ」

 そう言って本堂へと招き入れる先ほどの坊主。

「庭の手入れをしないのは何事も天地の間にあるがまま、というのがわしの主義でのう。おう、そうじゃ、わしはこの寺の住職でな、名を無上むじょうと言う」

「あ、申し遅れました、俺は直也」

「弥生と申します」

「ふむ、直也と弥生殿だな、用件は直也の相談で良いのかな?」

「はい」

 すると無上和尚は腕を組み、何か考えていたが、脇机の上から筆と短冊を手にし、さらさらと何か書き付けた。直也に手渡したその短冊には、

回光返照えこうへんしょう』と書かれていた。

「かいこうへんしょう?」

「えこうへんしょうと読むのだ。外ばかりに目を向けていないで、自分の心にも向き合うべし。他人の考えばかり気にしていると本来の自分を見失ってしまうぞ」

「……」

「ふん、せっかく来たのだ、坐禅をしていくが良い。そこに体を楽にして座れ。目を閉じて、心を無心にするのだ。と言ってもいきなり無心になぞなれるものではないから、己の心を見つめようとして見ることだな」

 それで直也と弥生はその場で坐禅をすることとなった。正式のものでなく、あくまでも略式であるが。

 弥生は堂に入ったもので、目を閉じて正座するその体からは完全に力みが消え、自然体になっている。一方直也は胡座あぐらしたその体が時々揺れ動いている。

「そろそろ良いか、あまり動くとこの警策で打ち据えるからな」

 そう言って無上は二人の背後に立った。

「……」

「坐禅をしながら聞きなさい。この世の中は苦しみに満ちておる。生老病死、愛別離苦あいべつりく怨憎会苦おんぞうえく求不得苦ぐふとくく、そして五蘊盛苦ごうんじょうく。これらをまとめて八苦という」

「苦しみを知ったならその原因を知り、原因を無くす努力をしなさい。原因あっての結果、良い結果が欲しくは良い行いをしなさい」

「正しき心、正しき言葉、正しき行い、それこそが善因善果をもたらすもの」

 無上の講話はしばらく続いた。

 

*   *   *


「それでは、お世話になり申した。これは些少ながら、お布施でございます」

「これはすまんのう」

 夕刻、寺を出る際に弥生から無上へと心付けが渡される。無上は恐縮しながらもそれを受け取った。

 帰り道、直也の様子を窺いながら歩く弥生。その弥生の目には、どこかしら吹っ切れたように見える直也。

「直也、どうじゃった? 初めての坐禅は」

 そう聞いてみる。

「うん、なんというか、いろいろといい話が聞けたかな、ってところかな」

「そうじゃな、いくら何でもあんな短期間で悟りが得られるわけも無し」

「うん、でも何て言うか、心の中にあった焦りみたいなものが少なくなったような気がするよ」

「そうか、それは良かった」

「心配掛けてたみたいだな、ごめんよ、弥生」

「何、気にするな」

 何でも無さそうに答えながらも弥生は嬉しかった。直也が少し成長してくれたのがわかったから。

 

 夜、宿で食事を片付けに来た女中に、

「のう、この先にある瑞天寺ずいてんじな、あそこの無上という和尚はなかなかの人物じゃな」

 そう話しかけたのはまったくの気まぐれであった。

「え?」

 だが女中は怪訝そうな顔をするばかり。

「じゃから、瑞天寺ずいてんじの無上和尚…」

 だが女中は首を振って、

「あの瑞天寺ずいてんじは住職がいなくなってもう五年も経つんずらよ。何かの間違いじゃないずらか」

「え……」

「……」


 女中が膳を片付けてからもしばらくは直也と弥生は無言で顔を見合わせていたが、やがて弥生が口を開く。

「…やられたのう」

「…じゃああの無上っていう坊さんは…」

「偽坊主じゃったか」

 そう言って苦笑する弥生。

「どこか変じゃと思ったがまさか偽坊主とはな」

「おい、いくら包んだんだ?」

「一両がところ、な」

「ほとんど全財産じゃないか…今夜の宿代払ったら一文無しだぞ」

「そうじゃな」

 そうしてまた顔を見合わせる二人。

 そのうちにどちらからともなく、

「…」

「……」

「…ぷっ」

「…ははは…」

「あはははははははははは…」

 笑い出したのである。ひとしきり笑い、少し落ち着くと、

「いやいや、今度という今度は、儂もまんまと騙されたわい」

「弥生を騙すなんて、大した奴だな」

「まったくじゃ」

 そしてまた笑い合う二人。それはしずを失って以来、初めて発する笑い声であった。

 

 翌日、野沢温泉を発ち、小布施を目指す二人。

「また当分野宿じゃぞ」

「仕方ないな」

「仕方ないわい」

 だが二人の顔には笑みが浮かんでいる。あの無上と称した偽和尚だが、それでも御利益があったようである。

 晩夏の信州を吹く風に押され、二人の影は街道の彼方にゆっくりと消えていった。

 前回で第一章終了といったところなので、今回は第二章開始となります。まずは箸休め的な短編です。

 心の余裕が無くなると笑いを忘れ、我と我が身を苛むようになります。なので笑いを忘れてはいけない、という話。

 それでは次回も読んでいただけたら幸いです。

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