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巻の百     婚礼、そして大団円

 読んで下さった全ての方に感謝を込めて

巻の百     婚礼、そして大団円


 十五日、婚礼の当日となった。

 当主の館は朝から慌ただしかった。直也は髪を梳き、まげを整えてもらった後、婚礼用の衣装を着せられる。

 現世で言う衣冠束帯に似て、窮屈この上ない。直也は閉口していた。

「直也、そうしていると父君を彷彿とさせますね、よくここまで育ってくれました…」

 仕度を手伝った母八重は感無量と言った表情で、目頭を熱くさせていた。

「母さん、ありがとう、弥生との事を認めてくれて」

 八重はかぶりを振って、

「言ったでしょう、あなたたち同志が良ければそれが一番いいの。姉さん、いえ、弥生さんを大切にね」

「うん」

 

 一方弥生は肩の辺りで髪を絵元結えもっといで結んでその先を等間隔に水引で束ねていく、元結掛もとゆいがけ垂髪と呼ばれる髪型に。

 そして既婚の色である緋袴を穿き、うちぎを身につけていく。十二単に似たその装束を自然に着こなす弥生であった。

 最後に、龍神の翠からもらった紅を唇に差し、アイヌから譲られたタマサイ(首飾り)を掛けて仕度は終わる。

「まあ、弥生様、おきれいですわ」

 仕度を手伝った千草も見惚れている。

「そちらは仕度済みまして?」

 襖が開いて八重が覗きに来た。その八重も、

「…まあ、姉さん、きれいだわ」

 そう言われた弥生は苦笑して、

「八重、もう儂はそなたの姉代わりではない。…おっと、これから姑になられるお方にこんな口利きではいかんな」

「嫌ですよ、姉さん、他人行儀な物言いは。今まで通りにして下さいな」

「そう…か?…それでも少しはけじめを付けんとな…」

「ふふ、そんな事より、直也が姉さんの花嫁姿を見たがってますよ。…直也、いらっしゃい」

「なっ!…や、八重、直也、ちょっと待…」

 そう言う間も無く直也が入ってきた。入ってくるなり、

「弥生…綺麗だ」

 そう一言言って、穴の開くほど弥生を見つめる直也。

「な、直也…」

 珍しく赤面した弥生を、八重も千草も微笑んで見つめるのであった。

 

 式は正午に挙げられた。

 館の最奥にある祭神の間にて、当人である直也と弥生、それに前当主であり直也の祖父母重蔵と綾乃、直也の母八重の五人が二人の結婚を神前に報告するのである。

 斎主を務める祖父の重蔵が神職の装束に身を包み、まきの葉、くすの葉、さかきの葉、ひのきの葉、すぎの葉でそれぞれ祓いを行い、里の祭神に報告の祝詞を詠み上げる。その後に直也と弥生は固めの杯を交わした。

 綾乃が直也の持つ杯に御神酒を注ぐと直也はそれを半分残して飲み、弥生へと手渡す。

受け取った弥生は残った御神酒を飲み干し、空になった杯には綾乃が再び神酒を満たす。今度は弥生が半分を飲み、直也に手渡すと、直也は残りを飲み干した。

 その杯を直也は母八重に手渡し、綾乃が注いだ神酒を八重と重蔵、綾乃が分けあって飲み、ここに杯の儀は終了した。

 続いて直也と弥生が二人して結びの誓いを書いた文を神前にお供えする。そして重蔵が最後に締めの祝詞を奏上し、ここに二人の結婚式は滞りなく終了した。


*   *   *


 館の庭に面した大広間には、里の主だった者達やこの日のために招待された者達が居並んでいる。

 庭にも、広間に入りきれなかった者達がひしめいていた。

 直也の母八重が奥から出てきて二人の結婚式が無事執り行われた旨を報告すると、襖が開いて直也と弥生が前当主夫妻の重蔵と綾乃にそれぞれ先導されて着席した。

 参列者に向かい一礼した前当主重蔵は、

「皆様、本日はようこそお集まり下された。本日この時より、直也と弥生は妹背となり、直也は里の当主として、弥生はそのしつとして、末永く治めていく事でありましょう」

 直也と弥生が深々と一礼すると、割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。

 これからは披露宴である。

 まず、列席者の代表が祝辞を述べる。

「直也殿、弥生殿、お二人の婚儀を賀すると共に、この里を末永く見守って下さるよう、お願い奉る」

 そう述べたのは滅多に顔を見せない、隠れ里の天狗の長、北辰坊ほくしんぼうである。

「直也様、弥生様、お二人のご多幸とご健康をお祈り申し上げます」

 これは九仙狐の長女、翠蓮すいれん

「直也様、弥生様、目出度きこの席にお招き戴き、かたじけのうございます。我ら杜人一族、謹んで御婚礼のお祝いを申し上げます」

 杜人一族の長、真砂子まさご。続いて、

「直也様、弥生様、わたくしども一族からもお祝い申し上げます」

 かわうその長が。他にも、昔から里に住む妖、獣、精霊達の代表が祝辞を述べていった。

 この日集まった者達は皆、弥生が狐である事を承知している。その上で、この婚礼を心から祝福しているのだ。

 里の者達からの祝辞が一通り済むと、座に酒が配られ、北辰坊の音頭で乾杯が行われた。

 その後はくだけた雰囲気となり、招待客の祝辞へと続く。

「直也様、弥生様、本日はまことにおめでとうございます。お二人の幸せが末永く続きますようお祈り致しますわ」

 マヨヒガの長の名代として千草が。

「直也、弥生さん、おめでとう。仲良く、というのは今更だから、早く二人の子を見せて欲しいな」

 そう言ってのけたのは水無月博信だ。苦笑した直也は、

「博信、お前達二人の式には必ず呼べよ」

 そう言い返すのであった。

 爽やかな風が吹いた感じがして直也が目を上げると、神使の装束が目の前にあった。それはなんと伏見の巫女、華穂かほである。ということは…

「…て」

 天狐様、といいかけた弥生を華穂は押しとどめて、

「わたくしは華穂です」

 そう言った華穂の姿を借りた天狐は、

「伏見を代表してお祝い申し上げます。直也様、どうか我らの代表としても弥生を可愛がってあげて下さりませ」

 そして、袱紗に包んだものを差し出した。

「雨降も罪を悔い改めたようで、一尾から出直しておりますよ」

 そう言って下がっていった。弥生はそれを聞いて嬉しそうな表情を見せた。

「ありがとうございます」

 その後ろ姿にお辞儀をする直也と弥生、袱紗包みをそっと開いてみると小さな鏡。ミナモであった。

 直也はありがたく受け取った。これからは隠れ里の宝物となろう。続いて出てきたのは見知った顔。

「江戸市中の稲荷社を代表してまいりましたたまきです。直也様、弥生様、このたびはまことに大慶に存じます、どうかこの縁、末永く続いて行きますように」

「環さん、ありがとう」

 次に直也達の前に進み出たのも狐らしかった。弥生が懐かしそうに会釈すると、

「我が娘もかの地でつつがなくやっております。その節はお世話になり申した。弥生殿、直也殿のご多幸をお祈り申し上げる」

 それは飛鳥山一帯の狐達の長であった。後に付いているのは夜星やぼし蓑火みのびであろう。

 ずい、と出てきた一際大柄な天狗は飯綱三郎いいづなさぶろう。信州戸隠、飯綱山の主、日の本第三位の天狗である。

「直也殿、弥生殿、お二人の門出を心より祝福申し上げる」

 そう言って、竹の皮に包んだものを差し出した。

「天狗の麦飯じゃ。これさえあれば飢える事は無かろう」

「かたじけない、飯綱三郎殿、ありがたく頂戴致す」

 弥生がそれを押し頂いた。

「直也殿、弥生殿、一別以来じゃな、この度はおめでとうござる。我ら一同、遙かな地よりお二人のご多幸をお祈り致す」

 箱根の烏天狗、地鎮坊じちんぼうである。直也は秘薬の礼を言い、ありがたく役立たせたもらっている事を伝えた。

「直也殿、弥生殿、おかげをもって北の地には平穏な刻が流れております。同様にお二人の前途も平穏であるようお祈り致しております」

 こう言ったのは下北の天狗、金光坊であった。

 かつて旅で出会った者達との再会と祝いの言葉、直也は柄にもなく目が湿ってくるのを感じていた。

 

 さて、座には酒の他に、膳が運ばれてきて、新郎新婦もようやく一口二口、料理に箸を付ける事が出来た。

 酒を一口飲んだ弥生はため息を吐いて、

「ああ、美味いのう、こんな美味い酒は生まれて初めてじゃ」

 そう言って直也にも勧める。直也は弥生の注いだ酒を一気に飲み干し、

「うーん、美味いな、こうして大勢に祝って貰えて、俺たちは幸せ者だよ」

「そうじゃな、それもこれもお主の人徳じゃ」

「そんな事無いさ、弥生がいてくれたればこそ、さ」

 そんな二人の前に瓶子へいしを持った紅緒がやってきた、今日は着飾っている。振り袖姿だ。

「直也様、弥生姉様、とうとうこの日が来たのですね、おめでとうございます」

 そう言って二人に酒を注いでいく。

「有難う紅緒、これからもよろしく頼むよ」

「えっ?…あたい、お邪魔じゃないですか?」

 直也は笑って、

「何言ってんだ、前にも言ったろう、紅緒は俺たちの家族なんだから、遠慮なくこの館に住んでいいんだぞ」

「ありがとうございます…嬉しいです…」

 何度もお辞儀をしながら紅緒は下がっていった。次に酒を注ぎに来たのは汐見である。やはり振り袖姿だ。

「直也様、弥生様、おめでとうございます」

「有難う、汐見。これからもよろしく頼む」

「はい!」


 気が付くと外は夕闇の色が濃くなり始めた。宴はまだまだ続く、重蔵に命じられた式神達が庭に篝火を灯した。

 列席の狐達は協力し合って部屋の中に狐火を灯す。

 篝火の赤と狐火の青に照らされ、あたりはこの世のものとは思われないような幻想的な眺めとなった。

 篝火がはぜる音が時折響く中、皆、酔いも回ってきて、更に賑やかな宴となっていく。

「思い出すのう、お主の母者八重と、父君直衛殿との祝言の晩を…」

 端に座る八重の方をちらと見ると、八重も同じ想いであるらしく、昔を懐かしむように目を細めていた。

「父さま、母さま、おめでとうございます」

 紅緒にでも言われたらしく、肩揚げをした振り袖姿の未那がやって来てお辞儀をする。

 座る時に振り袖の袖を膝に敷いてしまっているのはご愛敬だ。

「ありがとうな、未那。どうだ、楽しんでるか?」

 直也がそう尋ねると未那は、

「うん、ごちそういっぱいでおなかいっぱい」

 そう答えた。直也も弥生も笑った。

「直也様、弥生様、このたびはおめでとう存じます」

 そう言う声に顔を上げると、まだ幼さは残っているが、凛々しい顔つきの少年が挨拶に来ていた。

「ありがとう。…え…っと、君は?」

 雰囲気は、過去に出会ったような気がするが、顔立ちに覚えがない。その少年は笑って、

「白銀丸ですよ。本日は長に無理を言って、僕が代表して来ました。なにせ直也様は僕の名付け親ですから」

「そうか、白銀丸か! 立派になったなあ。人の姿だったんでわからなかったよ」

 直也がそう言うと、白銀丸は天を指さして、

「この里の空気、そして今宵は満月。僕でもなんとか人の形を保つ事が出来ます」

「ああ、こうして話す事が出来て嬉しいよ」

 そんな直也の袖を引っ張る者がある。未那であった。

「どうした、未那?」

 未那は直也の大きな袖に隠れるようにして白銀丸を見、

「…だれ?」

 と聞いてくる。直也は未那の頭を撫で、

「遠野の狼達を率いる長の孫で白銀丸というんだ、さあ、ご挨拶しなさい」

 直也にそう言われた未那はこわごわといった様子で、

「…はじめまして。未那です」

 そうお辞儀しながら挨拶した。白銀丸はそんな未那を見て、

「未那さん、ですか。…よかったらお相手下さいませんか?」

 そう言って未那の手を取る。白銀丸は未那が気に入ったようだ。

「未那、白銀丸殿はこの里が不慣れじゃ、今宵はお前が傍についていろいろとお世話してあげなさい」

 弥生にそう言われた未那は一つ頷き、

「…行こ」

 そう言って白銀丸の手を取った。

「白銀丸、未那はまだ子供だからな、そのつもりでよろしく頼む」

 座を下がる二人の背中に直也が声をかけた。

「弥生、ちょっとしたことで出来た縁がこんなに嬉しいものだとはなあ」

「ふふ、よい旅であったなあ」


「直也様、弥生様」

 今度進み出て来たのは親子の狐である。姿形は人間ながら、狐耳が立っている。

「おお、茜と椿か。茜には世話をかけたのう」

「はい、長である葵の名代として、葵の妹であるわたくしと、同じく葵の姪である茜がお祝いにはせ参じました」

「ありがとう、ありがとう」

 その時、雷鳴がした。驚いた一同が空を見上げると、満月が懸かり、空には一片の雲もない。しかし確かに雷鳴だった。不思議がる一同だったが、直也と弥生だけは、

「…もしかしたら…翠かもな」

「うむ、成竜になっても儂らの事を忘れんでいてくれたようじゃのう…」

 僅かの間とは言え、二人の子供のように育った翠。龍神となった今、遠くから二人の幸せを祈ってくれたのかもしれない。

 いまだ不思議がる一同に、直也がその話をすると、列席者達は感心する事しきりである。

 

 宴もたけなわとなり、庭の中央で金光坊が舞を舞っているかと思えば、座敷ではいつのまにやってきたのか、蓮香達九姉妹が揃っておしゃべりに興じている。しずと新太ははしゃぎ疲れて眠り、白銀丸は未那の気を引こうと遠野の話を聞かせているが、あまり興味を持たないらしい未那は眠そうな顔をしている。

 環は華穂と談笑しているところを見ると、華穂の正体には気が付いていないらしい。

 そんな中、そっと浅茅も祝いを述べ、静かに池へと戻っていった。

 そんなこんなで夜も更けていき、円かな月が中天に差し掛かった頃、庭の東南が薄明るくなった。

「何じゃ?」

 そちらに目をやると、大山桜が微光を放っている。そしてみるみるうちに蕾が膨らみ、一斉に花開いたのである。

「これは…」

 その場にいた者達が見とれていると、微光はゆっくりと小さくなり、人の形をとったかと思うと、

 そこには十二単じゅうにひとえ姿の大山桜の精、弥生姫が立っていた。姫は音も立てずに庭を横切り、真っ直ぐに直也と弥生の前にやってくると、両の手を突いて深々と頭を下げ、

「このたびはおめでとう存じます。そして私めなどをお救いいただいたばかりか、里へお招き下さりましたこと、お礼の申し上げようもございません」

 そしてまた頭を下げる。直也は恐縮して、

「弥生姫、袖すり合うも多生の縁、あの夜の出会い、それだけで十分です。むしろ勝手に里へお連れしたご無礼を詫びなければならないのはこっちですよ」

「とんでもないことでございます」

 そんな弥生姫に直也は、

「そうだ、姫、あれから白沢峠を越えた時に雲居さんにお会いしましたよ。姫の母君だったのですね」

 そして大百足との一件を語って聞かせると、

「ああ、…母上はわたくしのことをお気にかけて下さっていたのですね。…そして母を救っていただき、重ね重ねお礼を申し上げます」

 弥生姫はつと立ち上がると、持っていた金の扇を開き、

「つたない芸ではございますが、一差し舞わせて下さりませ」

「体の方は大丈夫ですか?」

 心配そうにそう尋ねる直也に、

「はい、奥方様のおかげをもちまして、すっかり癒えております」

 そう言って弥生にほほえみかける。それまで無言でいた弥生だったが、

「姫、同じ弥生の名を持つ者同士、末永くよろしく頼む」

 そう言って、式神に命じ、琴を持ってこさせた。それを見ていた博信、懐から葉双はふたつを取り出す。

「では」

 弥生姫がゆっくりと舞い始めた。その様子を見た博信は、「五常楽ごしょうらく」を奏で始める。僅かに遅れて弥生が琴を爪弾きだした。

 曲に乗って優雅に舞う弥生姫に、居並ぶ者達は声を無くして見惚れていた。弥生姫の指先一つ取っても、優美さがにじんでおり、流れる黒髪のその一本一本までが意志を持って舞に合わせているようである。

 翻る袖は舞う花びらのよう、扇のきらめきは踊る光のようである。自身が舞い散る花びらのように弥生姫は軽々と舞い、見る者を魅了していた。

 そして博信の吹く逸物葉双の音色は天地の間に響き渡り、風さえも吹く事を忘れたかのよう。弥生の爪弾く琴の音は静かに流れ、楽手と舞手とが一つのものであるが如くに、弥生姫の舞は自然に見えた。

 曲が終わり、礼をする弥生姫に、満場の拍手が贈られた。

 姫が深々と一礼すると、その姿は徐々に薄れ、木の幹に吸い込まれるように消えたのだった。


 子の刻を過ぎ、宴も大分静かになってきた頃、直也は弥生を伴いそっと奥の間にやってきていた。

 有明行灯一つが点いただけの暗さであったが、二人にはそれで十分である。

「ああ、やっと窮屈な格好から抜け出せた」

 堅苦しい装束を脱いだ直也はほっとした溜息を吐く。弥生は直也が脱いだ装束を手早く畳み、自らも袴と袿を脱いだ。そして、

「主様、不束者じゃが、末永ごうよろしゅう頼む」

 三つ指を突いてそう言ったものだから、直也はどぎまぎした。

「こ、こちらこそ」

 そして直也は一旦目を閉じ、すぐに開いた後は真顔になって、

「…弥生、俺は、多分弥生より先にいなくなってしまう。それでも俺は弥生と一緒になりたかった。でも、弥生のことを本当に考えたなら、それは間違っていたのかもしれない。弥生、これで最後だ、本当に、俺のものになってくれるんだな? それでいいんだな?」

 弥生はまだ何か言いかけた直也の唇に人差し指を当ててそれを止めると、

「何を今更言い出すかと思えば。...これから始まる主様との新しい生活、そして儂は主様の子を産む。その子らは成長し、また子をもうけていくであろう。儂は一人ではない。それに気づかせてくれたのは主様ではないか」

 そう言って直也の手を取った。その手は温かかった。

「そうか。…そうだったな」

 弥生の手を握り返した直也は、静かに顔を近づけていく。そこには直也を見つめる潤んだ弥生の目があった。

「弥生…」

 直也の腕に抱かれ弥生は目を閉じた。肩に触れた直也の手に微かな震えが伝わってくる。

 壊れ物を扱うように、直也は弥生をしとねに横たえた。

「寒くないか?」

 直也は弥生に添い寝しながら尋ねる。弥生は無言で首を振った。

「そうか」

 直也は横たわった弥生の体を幾分乱暴に抱きしめる。弥生も直也の背に回した腕に力を込めた。

 その時、有明行灯の油が切れたか、灯りが消えた。だが、直也にも弥生にも灯りは必要でなかった。

 どこからか差し込む月明かりが照らし出す弥生の肢体は、直也の知っている弥生ではないようでもあり、また直也のよく知っているものでもあった。その弥生に向かい、直也は思いの全てを捧げていった。

「あたたかい…」

 一言だけ弥生が発したその言葉に、万感の思いが込められていたことに直也は気づいたであろうか。


*   *   *


 いくつかの季節が巡り、また大山桜は花を咲かせた。縁側に座ってそれを眺めているのは直也。

「主様、お茶じゃ」

「ありがとう、弥生、あまり無理するなよ」

「くふ、大丈夫じゃ。まだ心配する様な時期ではない」

 そう言って、幾分膨らんできたお腹をさすった弥生は直也の隣に座る。

「良い日和じゃな」

「ああ、春になったんだな」

 そう言って弥生は直也の肩に頭をもたせかけた。

「直也さまー、鮒が一杯捕れましたー」

 紅緒の声。未那と一緒に川で魚捕りをしていたのだろう、魚で一杯の魚籠びくを下げて走ってくるのが見える。

「慌てると転ぶぞ」

 そう直也が声をかけた矢先、魚籠から逃げだそうとした鮒に気を取られた紅緒は足下がおろそかになり、絵に描いたような転び方をした。

「ふぎゃっ」

「大丈夫か? 紅緒」

 起き上がり、跳ね出した鮒は未那が魚籠に戻している。

「大丈夫です…てへっ」

 紅緒はそう言って笑う。つられて直也と弥生も笑う。未那も笑う。

 暖かな日差し溢れる隠れ里の空には白い雲がぽっかりと浮かび、笑い声はそんな空に吸い込まれ消えていった。



 旅空妖狐絵巻 完

 旅空妖狐絵巻、完結です。

 まさかこんなに長い物語になるとは思っていませんでした。

 当初は、ラノベ的に、単純に妖狐が活躍する物語を書こうとしていたんですが、だんだんと時代背景とかに凝り出し、ついには時代小説もどきになった感があります。文章も最初と最後では大分変わった気もします。


 最終回はオールスターキャストにしたかったのですが、さすがに普通の人間は里に呼べませんでした。妖たちは、直也と弥生に旅の話を聞いた重蔵や八重が呼んだのです。念のため。勝手に入って来られませんからね。

 隠れ里がどういうものであるかは、最後まで悩みました。で、現世とは系統が違う世界、ということにしました。

 その主神は(多分)大国主命。出雲で国譲りの後、どこへ消えたのかわからない神様です。天孫と違う世界を作って治めているということで。

 直也達がどこから出てきたのかも悩みましたね。関東の北の方、ということで、埼玉県。群馬との県境に近いあたり。八日見山というのは両神山のことです。蛇足ながら。


 筆力や時間があればまだまだ書きたい話や訪れさせたい土地もあったのですが、切りのいい百巻で完結。


 お読みいただきありがとうございました。


                    平成二十四年 立秋       作者 拝



 20150131 修正

 博信が奏でる「春の海」は近代の作ですので、「五常楽」に変えました。これには「女舞」のバージョンもあったそうですので。

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