巻の十 鬼と山賊(後)
後編です
巻の十 鬼と山賊(後)
おけいの家に泊まった翌朝。
ちりん。
鈴の音がした。
「お兄ちゃん、起きて。朝だよー」
目を開けると、しずである。弥生は既に起きているようだ。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよう、しずちゃん。よく寝られたかい?」
「うん!…とってもやわらかいおふとんだったから」
そうか、と言って直也も起き、手水場で顔を洗う。しずが手拭いを差し出してくれた。
「ありがとう」
「もう朝ご飯出来てるよ。弥生お姉ちゃんはもう座ってる。あたしたちもごちそうになりに行こう」
そう言って直也の袖を取って座敷へと引っ張って行った。
「お早うございます」
おけいと挨拶を交わし、弥生の隣に座る。女中に給仕してもらい、朝食が始まった。相変わらず弥生は朝からよく食べる。しずがびっくりした顔で弥生の健啖ぶりを見つめている。
「…どこにはいるんだろう」
確かに、細身の弥生はいくら食べてもお腹が膨れた様子はない。しずの疑問ももっともである。直也は苦笑するだけであった。
食後。
昨日捕らえた山賊共の正体がわかった、と村長から使いが来たので、主人の喜平と弥生と直也は共に村長宅へ向かう。
行ってみると、既に村人の大半が集まっているようだった。
村長の話によると、賊は「雷の五郎兵衛」を首領とする、役人も一目置く一大勢力であることが判明。一味にはここ数年続く飢饉のために食えなくなった百姓等が加わり、今や五十とも百とも言われる手下を抱える大所帯である。
豊かなこの地方を狙って来たと言うことだった。
「そんな奴らに狙われとるのか…」
「いったいどうすりゃいいべ」
ちょうど夏蕎麦の実の取り入れが終わり、そこを狙って来たらしい。
「大急ぎで役人に知らせて来てもらった方がいいだろう。出来るだけ大人数でな」
村長の指示で、足の速い者が役人に知らせるべく、村を出た。昼過ぎには代官所に着き、早ければ明朝には役人が来るだろう、そう村長は言って、一同を安堵させた。
喜平宅へ戻ると、おけいがしずとお手玉で遊んでいるところであった。
「一鳥 一羽が いちもんめ 二鳥 二羽が にもんめ…」
しずもすっかりおけいに懐いているようである。直也は安心した。喜平もすっかりしずが気に入ったようで、
「直也さん、弥生さん、どうか是非、おしずちゃんを…」
と言ってくる。
おしずも幸せになれるだろう、そう直也は思った。唯一の気がかりは、雷の五郎兵衛一味である。
弥生と二人だけになると、その事を話してみた。
「うむ、狙われとるのはこの村だけではないにせよ、危ないことには変わりはないな」
「何とか出来ないかな?…結界を張るとか」
「…無茶を申すな。相手は人間じゃ。人間相手に効果のある結界なぞ張ったら、この村の人間も出入り出来なくなってしまうぞ」
「そうか…」
「その一味を捕らえるのが一番じゃな」
「弥生と俺で出来ないか?」
「またしても無茶を言うのう。皆殺しにするのなら簡単なんじゃが…頭上に雷を落としてやればよい。雷の五郎兵衛だけにな」
恐ろしいことをさらっと言う弥生。本気か、と尋ねる直也。
「冗談じゃ。そんなことはせぬ。…この魂を汚すのはもうこりごりじゃ」
「え?」
「…何でもない。それよりじゃな、問題は一味の居場所がわからんことと、人数が多すぎる事じゃな…」
「罠とかを仕掛けて、おびき寄せればいいって事か?」
「それにしても百人とはのう…」
考え込む二人であった。
しばらくして弥生が、
「『定身の不動結界』しかあるまいな…」
「何だ?それ」
「結界の中の者を動けなくする法じゃ。長い時間は無理じゃが、半刻くらいなら可能じゃからして、その間に賊を捕らえるしかない」
「そんなことが出来るのか?」
「うむ。しかし入念な準備が必要じゃ…」
そこで二人はさっそく結界の準備に取りかかることにした。
村の東西南北四方位、その間の四方位、更にその間の八方位、合わせて十六方位に結界の極となる注連縄を張る。
その注連縄も、右巻きにひねり、四巻き毎に樒の葉を撚り込む。そして各方角の要となる一番樹齢の多い木に締めていくという手間のかかる作業。
これだけで一日つぶれてしまった。喜平の家に戻ると、しずがやってきた。
「お兄ちゃん達、どこへ行っていたの?…心配しちゃった」
「ごめんごめん。村の中を見て回っていたんだ」
「えー?…あたしもおばちゃんと回ってたんだけど…」
「そ、そうか。行き違いになったんだな…」
「むぅ…」
不服そうにふくれっ面をするしず。直也はそんなしずの頭を撫で、
「おけいおばちゃんのこと、好きかい?」
「うん、大好き!お母ちゃんみたい」
「そうか、じゃあおばちゃんの子供になるかい?」
「えっ…」
「おけいおばちゃんも、しずちゃんのこと大好きなんだって。しずちゃんさえ良かったら子供になって欲しいんだってさ」
「…お兄ちゃんとお姉ちゃんは?」
「俺と弥生はまた旅に出るよ」
「…もう会えないの?…そんなのやだ」
泣き出しそうな顔をする。
「俺もしずちゃんと別れたくはないよ。でもしずちゃんにはお母さんが必要なんだ。きっとまたいつか会いに来るからさ」
「ほんと?会いに来てくれる?」
「うん、約束する。なあ、弥生?」
それまで後で黙っていた弥生に声をかける直也。
「…あ、ああ、そうじゃな、きっと会いに来るぞ」
「…そう、じゃあ指切り!」
小さな小指を突き出すしず。
「よし、指切りだ」
「ゆーびきーりげーんまーん、うーそついたらはーりせんぼんのーます」
弥生とも同様に指切りするしず。その瞳が潤んでいた。
そのしずは、懐から母の形見の鈴を取り出すと、
「これ、お兄ちゃんに」
「え?…だって、しずちゃん、これって…」
「いいの。…あたし、お兄ちゃん達にお礼できる物ってこれしか持っていないから」
「…ありがとう。大事にするよ」
そっと受け取る。ちりん。澄んだ音色がした。それを大事に懐にしまう直也であった。
その夜、おけいと喜平に、しずが養子になることを承知したと告げると、大喜びの二人はしずを代わる代わる抱き上げ、
「しずちゃん、よろしくね、おっかさんとよんでおくれ」
「しず、これからここがしずの家だよ、私がお父さんだ」
「……」
まだ恥ずかしそうに、もじもじするしず。直也は、ほんの少し寂しさを交えた表情で、それでもにこやかにその姿を見つめていた。
弥生はそんな直也を複雑な気持ちで見つめていたのだった。
「直也さん、弥生さん、もう何日かお泊まり下さいますよね」
しずがこの家の暮らしになじむまで、とおけいは言う。
直也も、山賊のことがあるので、その申し出は承諾した。まだ数日、直也達と一緒にいられると知って、しずも嬉しそうだ。
その夜から、しずはおけい達夫婦と一緒の部屋で寝た。その寝顔は幸せそうであった。
翌日の朝食後、役人が大挙してやって来た。その数三十名、雷の五郎兵衛を捕らえるためである。村長の家が休憩所になり、村の女衆は炊き出しや給仕に大童である。
隊長の赤堀平十郎は傲慢な男で、
「我々が来たからには、雷の五郎兵衛もお終いよ。こちらには鉄砲も十挺ある事だし、大船に乗ったつもりでおれ」
などと豪語し、女達に酌をさせ、酒をあおるのであった。
村の周りの見回りに出された配下の侍達は不満たらたらである。
「くそ、隊長は酒を飲んでるって言うのに俺たちゃ見回りかよ」
腹いせに放し飼いの鶏を蹴っ飛ばしたりしている。
その日は何事もなく暮れたように見えた。しかし、雷の五郎兵衛は、手下四人が帰らなかったことで、慎重に村のことを探っていたのだ。
今や村に役人が駐留していることを知り、事を慎重に進めることにした。
まずは役人を油断させること。そして鉄砲を使い物にならなくさせることである。手下に指示を与え、時を待つのであった。
賊が現れないので、村には一見平和な日々が続いた。しずは日に日におけいたち夫婦に懐き、直也も安心している。
しかし弥生は何事かを考え、時々姿を消していた。
二人っきりになった時、そんな弥生に直也が尋ねる。
「なあ弥生、何か気にかかることでもあるのか?」
「うむ。…賊の事じゃ。…よいか、手下四人が捕らえられたということを知った五郎兵衛はどうすると思う?」
「奪い返す?」
「そうじゃ。そうせねば部下が付いて来ぬ。自分が捕まった時でも見捨てられることはない、そう信じさせるとさせないとでは部下の士気が大いに違う」
「そうだな…にもかかわらず襲ってこないと言うことは…備えが知れたか?」
「そう考えるのが妥当じゃろう。だいたいあの侍どもは何じゃ。隊長は昼間っから酒を飲んでおるし、部下どもはこれ見よがしに歩き回っておるし。あんなでは先が思いやられるぞ」
「それで?」
「うむ、話が逸れたのう。…賊としては探りを入れてくるじゃろうと思い、村中の気配を探っておったのじゃ」
一日に何度か、村中に怪しい者がいないか、見回っていたということらしい。
「それで?どうだった?」
「先程、怪しい男が一人、村長の家に入っていった。おそらく賊の手の者じゃろう」
「捕まえなくていいのか?」
「放っておけ。役人どもがどうなろうと知ったことではない。それよりもきゃつが帰らなければ更に警戒させるだけじゃろう」
ということで、潜入した五郎兵衛の手下は、無事に村の備えを知らせに戻ったのである。
五日目。五郎兵衛一味が現れないので、村中がもうここは襲われないのではないか、そう思った時、鯨波の声と共に、賊が攻め寄せてきた。
「さ、山賊じゃぁー」
「五郎兵衛が攻めてきたぞー」
「女子供は家にこもれ!」
「男は武器を持って戦え!」
様々な声が飛び交う中、直也と弥生の姿は無かった。
「雷の五郎兵衛め、ようやく現れおったか。鉄砲隊、用意!」
隊長赤堀の号令が下る。が。
「た、隊長ー! 銃身に粘土が詰められております! 火縄も湿らされております! 鉄砲が役に立ちません!」
「な、何!?」
手下の工作は見事成功したと言える。
「うぬ、こうなれば、斬り捨てるまで。全員、抜刀!」
迫り来る百人の山賊。迎え撃つ侍三十人、村人七十人。戦力では互角かと思えた。
しかし。
火矢が射かけられ、家が燃え出す。村人の半数は消火と防火に回らざるを得なくなった。
次いで馬に乗った賊の一団が襲来。馬上から矢を射掛けてくる。村人は逃げまどい、侍達の半数が負傷した。
火は何とか消し止めたものの、村側の体勢は完全に崩れた。そこへ五郎兵衛率いる本隊が襲いかかる。 勝敗は完全に決した。
その時。
弥生の結界がその力を発動した。
賊、侍、村人、悉くが動きを封じられていく。
「な、なんだ…」
「くっ、身体が…動かん」
「お、おかしらぁ…」
「誰が、こんな仕掛けを…」
* * *
いち早く襲来を感じ取り、高台に移動した弥生と直也。一味が結界内に入った瞬間、弥生が呪を唱えた。
「天、地、人、帰命…………不動…結界…」
直也は、結界が完成するまで、無防備になった弥生を守る役目だ。
「願……全…前…妙音……定…」
ここから見る限り、結界内の動きは収まっている。
「破!」
結界は完成した。村内の人間、いや馬や犬猫までがその動きを止めていた。
「結界は完成した。じゃが保って半刻が限界じゃ。急いで村に行くぞ」
「おう」
そして走り出す二人。だが弥生の足取りがいつものものでないことにすぐに直也は気づいた。
「弥生、どうかしたのか?」
「何でもない。気にするな」
「しかし…もしや、結界の所為か?」
「まあ…の。あれだけの規模の結界を張ると少々疲れるのじゃよ…」
直也は驚いた。いつも直也の前では平気な顔をしている弥生の口からこのような言葉が漏れるとは、本当に疲れているのに違いない。
「弥生はゆっくり来てくれ。俺は先に行く」
そう言って直也は一人、村へ向かった。
弥生より一足先に村に入った直也は、そこら中で動けなくなっている賊を片っ端から縄で縛っていった。縄が手近にない時は藤蔓、帯、さらし、なんでも使った。時間がないのだ。
一人で百人からいる賊を縛り上げるのには時間がかかる。二十人程縛った頃。
「待たせたな、直也」
ようやく弥生が加わった。弥生と直也で半数を縛ったその時、弥生も、直也も、いや誰も予想しなかった事態が起きた。
「な、何だ?…地が揺れる」
「地震じゃ!直也、頭上に気をつけよ」
直也にとって地震は初めての体験である。しかもかなり大きい。
屋根に置いた石が落ちてくる。古い家は傾いた。
その上その揺れは地滑りを生じさせ、結界の極となっている木の何本かが押し倒された。
結果、結界が揺らぎ…消えた。
「お、動けるようになった」
「お頭!…あの女と小僧が怪しいですぜ!…仲間を縛っていやがった」
「よし、鉄二の一隊はあの二人をやっちまえ! 熊吉の一隊は縛られた奴らの縄を切って回れ」
的確に指示を出す五郎兵衛。一方、赤堀の方はうろたえるばかり。自分たちを守るのに精一杯といった体たらく。
直也はおしず達が気になるのだが、弥生が本調子でない上、十人ばかりの賊が襲ってきたので、防ぐので手一杯であった。
今、直也は棒を振るっている。
「くそっ、半分は上手くいっていたのに!」
「天地が味方しないとは…」
「弥生、危ない!」
何事か考えて動きが止まった弥生に賊が襲いかかる。それを手にした棒で叩き伏せる。
「すまぬ、直也」
「弥生、しっかりしてくれ…おっと!」
かろうじて賊の襲撃をかわした。
「このままではきりがない」
そう言って、弥生は本性を現し、狐耳と尻尾を生やす。
「な、何だ!?…化け物?」
それを見た賊は一瞬ひるんだ。
その隙に、弥生は手に木気の固まりである青緑の狐火を作り出す。
「直也、伏せい!」
その声に直也が地に伏せたと同時に、狐火を解放する。
狐火は賊の手にした刀に吸い込まれ…紫電が弾けた。一瞬でその近くにいた賊は気絶していた。地に伏せ、なおかつ得物が棒であった直也は何事もなく立ち上がり、駆け出そうとした、その足が止まる。
弥生が膝を突いていた。
「弥生!?」
「案…ずるでない…ちょっとよろけただけじゃ。しずのところへ急ごう…」
そうは言うが弥生の顔色は悪い。無理はさせられない、そう判断した直也は、
「弥生は無理しなくていい。力が戻るまで隠れていてくれ。俺一人で行く」
そう言って駆け出した。
「直也!…っ…無茶しおる…」
村中での戦闘は熾烈を極めており、身を隠すこと数度、賊と交えること数度、なんとか直也はしず達のいる家に辿り着いた。
家が燃えている。
商人である喜平の家は真っ先に狙われたらしい。今も賊数十人と侍達数名が戦っているが、多勢に無勢、加えて士気の低下で、次々に村側はやられていった。
しず達は無事だろうか、必死に戦いをかいくぐり、直也はしず達を探した。
燃える母屋の中にしず達がいるのを見つけた。が、賊がいて近付けない。侍や村人に混じって、賊を倒しにかかる直也。一人を棒で打ち倒した時、
「お兄ちゃん!」
直也を見つけたしずの声がした。おけいがそのしずを抱きかかえている。
もうすぐ助けてあげる、そう目で言って棒を振るう手に力を込める。そこへ矢の雨が降り注いだ。
棒で二本叩き落としたが、一本を右肩に受け、棒を取り落としてしまう。そこに第二の矢の雨が飛来した。
「お兄ちゃん、危ない!」
そう言っておしずが飛び出した。それをかばうように、おけいが抱きとめる。
おけいの背に矢が突き立った。
「お…かあちゃん…」
「おしず、大丈夫だったかい?…」
苦しい息の下から、しずを気遣うおけい。しかしその声はだんだんか細くなり、
「…あなたは…い…き…て……」
その言葉を最後に、おけいは物言わぬ身となった。
「おかあちゃん! おかあちゃん!!…ああああああああああああ あ あ あ あ あ あ !!!!!!」
しずが泣いた。直也は、目の前で起きた悲劇に、己の傷の痛みも忘れ、呆然としている。
「許さない…ゆるさない…ゆ る さ な い…!!!」
しずの目から血の涙が溢れた。
見ると両の目尻が裂けている。次いで口の両端が耳まで裂け、牙が覗く。こめかみの小さな瘤が隆起し、やがて皮が破れ、…角が現れた。
同時に身体が膨張する。四肢が丸太のように太くなり、身長が伸びる。見る間に身の丈八尺あまりの巨体へと変わっていった。
「しずちゃん…」
そこにいたのはもはやしずではなく、怨鬼であった。
「おおおおおおおおーーーーーーーーーーーーん」
血の涙を流す鬼は一声吠えると、跳躍した。
しずの変化を直也同様、呆然と眺めていた山賊達の真ん中に降り立つ。
鬼がその腕を振り下ろした。直撃を受けた山賊の頭が胴体にめり込み、絶命する。
鬼が蹴りを放つ。蹴られた賊は吹き飛び、後にいた三人を巻き込んで、石垣にめり込むほどに衝突し、一つの肉塊と化す。
勇をふるって刀で斬りつけた山賊もいたが、鬼の身体に刃は弾かれ、怒った鬼は刀ごと賊の腕を掴むと、そのまま地面に叩きつけた。膝まで地面にもぐり、背骨は砕かれて絶命する賊。
それを目の当たりにした賊は我先に逃げ出す。しかし鬼の怒りは収まらない。拳大の石を拾うと、逃げる賊に投げつけた。
石は賊の胴を貫き、その先の木の幹にまでめり込む。頭に当たれば熟れた瓜のように弾ける。
ほんのわずかの間に、あたりの賊は一掃された。
しかししず、いや鬼は止まらない。次なる犠牲を求めて走り出す。
行く手にある家の壁を紙のように突き破り、小枝のように柱を叩き折っていく。泣き叫ぶ女子供は踏みつぶされ、手向かう者は叩き潰された。
もはや敵味方の区別はない。生きているもの全てを滅ぼさんと、鬼は暴れているようであった。
「くっ、…しずちゃん…」
ようやく肩から矢を抜いた直也。そこへ弥生が駆けつけた。
「直也、怪我をしたのか!…すまぬ、儂がふがいないばかりに…」
「弥生の所為じゃない。…それより、しずちゃんを止めないと…!」
「やはりあの鬼はしずじゃったか…もしやとは思ったのじゃが…」
「弥生は気が付いていたのか?」
「…しずの髪を洗った時、こめかみにあった小さな瘤、まさかと思ったのじゃが…闇の契約の印じゃったとは…」
「闇の契約?」
「…そうじゃ。…怨みを抱えた者が暗黒の神、すなわち悪魔と交わす契約じゃ。欲する力を得る代わりに魂まで闇のものになってしまう…」
「なんでしずちゃんが…そんな…」
「生みの両親を殺された時、悪魔に囁かれたのじゃろうな…あのまま幸せに生きて行ければ芽を出すことはなかったじゃろうに…」
「…そうだ、しずちゃんを止めないと…痛っ!」
「動くな、簡単に血止めをしてやる」
そう弥生は言って、直也の肩の傷に唇をあて、悪い血を吸い出し、吐き出した後、懐から出したさらしで手際よく傷口を縛った。
「よし、あまり無茶するでないぞ」
「しずちゃんは…どこへ行った?」
しずは村を駆け抜け、賊だろうが村人だろうがお構いなしにその手に掛けていた。
今や賊も侍も村人も、襲い来る鬼から自分を守るので精一杯であった。
家に隠れても、家ごと潰される。馬で逃げようとしても、鬼の足の方が更に早く、追いつかれて馬もろとも叩き潰される。
弓矢も刀も刃が立たず、炎にもひるまない。無人の野を往くがごとく、鬼と化したしずは村内を駆け巡っていた。
「弥生、なんとかしずちゃんを救う方法は無いのか?」
しずの後を追う弥生と直也。
「…できぬ…」
「弥生!?」
「…出来ぬのだ、直也。闇に堕ちた魂を救うことなぞ、儂だけではない、誰にも出来ぬのだ…」
「何故、何故なんだ!…しずちゃんが何をしたと言うんだ!!」
直也が叫ぶ。
「両親を殺され、たった一人で生き延びてきて、やっと幸せを見つけたと思ったのに…!」
直也の目から涙が零れる。
「ちくしょう!」
直也が走り出した。騒ぎの聞こえる方向、すなわち鬼のいると思われる方向を目指す。
「直也!」
弥生が追う。いつもの弥生なら簡単に追いつけるのだが、消耗している今は直也に置いていかれてしまった。
広場では鬼が暴れていた。今や山賊は鬼を倒さねば生きて帰れないことを悟り、総出で鬼に向かっている。全員で取り囲み、ありったけの矢を射掛ける。ほとんどは鬼の体表で弾かれたが、一本だけ、鬼の左目に突き立った。
「ぐ お お お お お おーーーーーーーおおおおお」
鬼が叫ぶ。文字どおり一矢報いたと思ったのも束の間、目に突き刺さった矢を抜くと前にも増して鬼は怒りに燃え、賊に飛びかかった。
腕を一振りする毎に首が飛び、肉が裂け、血が流れる。残った山賊は我先に逃げ出したが、鬼の脚力に叶うはずもなく、たちまちに追いつかれ、皆殺しの憂き目にあった。
動くものがいなくなった広場。そこに直也が駆けつけてきた。
「しずちゃん!」
直也が叫ぶ。鬼が振り向く。鬼は新たな得物とばかり、直也に襲いかかった。
「しずちゃん! 俺がわからないのか! やめるんだ!」
直也の声も空しく、鬼の爪が直也の胸を引き裂くと見えた、その瞬間。
「直也!」
弥生が直也と鬼の間に割って入った。鬼の爪が弥生の背を切り裂いた。血しぶきが舞う。
「弥生!!」
「…直也...駄目じゃ…お主まで…殺されて…しまう…」
弥生の着物が鮮血で染まる。直也は弥生をそっと横たえると、
「しずちゃん!…本当に俺たちがわからないのか!」
直也の叫びは届かず、返す拳で直也は弾き飛ばされた。
「ぐうっ」
背中から立木に激突し、息が詰まる。薄れ行く意識を、直也は必死に繋ぎ止めた。
その懐から、鈴が転がり出た。
ちりん。かすかな音色と共に、鈴が転がる。
その音に、鬼の動きが止まった。
鬼は鈴をつまみ上げ、掌で転がす。
ちりん。ちりん。澄んだ音色が響く。
(おかあ…ちゃん…?)
ちりん。
(おにい…ちゃん…おねえ…ちゃん…)
「うおおおおおおおん」
鬼の中のしずが涙を流した。ふらふらといずこかへと歩いて行く。
直也は追いかけようとするものの、身体が言うことを聞かない。そのまま倒れてしまう。弥生が血を流しながら起きあがり、直也に声を掛けた。
「直也…大事ないか?」
「弥生こそ…」
そう言いかけた直也は咳き込む。息が苦しい。
「しずちゃんは…?」
「…鈴の音を聞いてわずかながら人の心を取り戻したようじゃな…いずこかへ立ち去っていった」
「結局しずちゃんを救ったのはしずちゃんのお母さんだったんだな…何も出来なかった…俺は何もしてやれなかった」
うなだれる直也。
「そんなことはない。しずの心に、お主の優しさはきっと届いておる」
そう言って、弥生は力尽き、その場に倒れた。
「弥生!」
直也は力を振り絞り、弥生の側まで這い寄るが、そこまでが限界で、気を失ってしまった。
村には最早生きている者とて無く、時々家が焼け落ちる音がするだけであった。
* * *
額の冷たい感触で気が付いた。
弥生が、直也の額に濡れた手拭いを乗せている。
「…弥生?」
「おお、気が付いたか、気分はどうじゃ?」
起きあがる。どうやら焼け残った家の中らしい。
「…肩の傷が痛むけどあとは何ともなさそうだ」
「それは良かった。お主、丸一日目が覚めなかったのじゃぞ」
矢傷を受けた上、しずに殴られて立木に激突した衝撃は思いの外大きかったらしい。
「…そうだ、弥生は?俺をかばってくれて…」
「ん? 儂の事は心配せずとも良い。力が戻れば、直に治ってしまう」
そう言って、少し着物をずらして、背中の一部を見せる。
そこには赤い筋が走ってはいたが、それは既に傷跡と呼べるものでは無かった。
「良かった…」
直也が安堵する。
「馬鹿を言うな。妖狐である儂は自分の傷は治せてもお主の傷を癒してやる事は出来ぬのじゃぞ…頼むから無茶はせんでくれ」
「…うん、…ありがとう、弥生…」
そう言って項垂れる直也。
気にするな。弥生はそう直也に言うと、つと立って部屋を出て行き、お粥を持って戻ってきた。
「さあ、食べるがよい。食べねば傷も治らぬぞ」
「…ああ」
力なく頷く直也。やはりしずの事が気になるようだ。粥を食べながら、
「…弥生…しずちゃんは…」
「…うむ、あのまま行方知れずじゃ…よほど遠くまで行ったのか、微かな気配さえ感じられぬ」
「そうか…」
そしてそのまま黙り込む直也。
「のう直也、お主はお主の出来るだけの事をした。思い返してみよ、あれ以上の事が出来たか?誰にもあれ以上の事が出来たとは思えぬ」
「弥生…」
直也は粥の椀を脇に置く。その目から大粒の涙が零れ落ちた。
「俺は…俺は…」
そんな直也を、弥生は優しく抱きしめると、
「泣きたい時は泣くがいい…」
そう言って、直也の頭を撫でる。
「弥生…弥生…!」
「ふふ、お主が小さい頃を思い出すのう…よくやったぞ、直也…立派じゃった…儂はお主を誇りに思うぞ」
直也は弥生の胸で泣き続けた。
しばらくして、
「…ありがとう、弥生...もう大丈夫だ」
「そうか。…粥が冷めてしまったのう」
「かまわないさ」
そう言って、残りの粥を直也は平らげた。
翌朝、二人は無人となった村を後にした。
「なあ、弥生、しずちゃんは生きてると思うか?」
「鬼と化した以上、なまなかの事で死ぬ事は無かろうな」
「いつか、元に戻してやる事は出来るだろうか?」
「わからぬ。…しかし、広い世界のどこかに、その方法を知っている者がいるやも知れぬ」
「そうだな、旅の目的が一つ増えたな」
「そうじゃな、これまで以上に視野を広く持って旅する事じゃ」
「おう」
力強く応えた直也は、住む者とていなくなった山村を後に、麓へと歩き出す。
そんな直也の影の如く、弥生も後を追った。二人の姿はやがて街道の並木の陰に消えていった。
長かったので前後編です。
今回は描いていて辛かったですよ。弥生も傷つくし、直也も危うくなるし。
初めて弥生が危機に陥ります。弥生とて万能じゃないということと、直也の成長を描きたかったのです。
少々暴力的描写が多い回ですが、猟奇的になることだけは避けたつもりです。
人の心を救う事が如何に難しいか。
結局しずは姿を消しました。当初の構想では、自我を取り戻した後、崖から身を投げる事も考えていましたが、書き進めるうちにこのような展開に。
それでは、読んで頂きありがとうございました。また次回も読んで頂ければ幸いです。




