fate
――人を殺す。よくある悲劇の主人公みたいに愛だとか恋だとかそんなもののために?
馬鹿馬鹿しい。自分は、そんなチープな感情に流されるわけない。ずっとそう思っていた――
カエデは、冷めた目で死体を見つめる。ついさっき自分が殺した物。
そして、その足でいつものバーへと向かった。
いつもと同じようにカウンタの隅の席に彼女は1人で座っていた。
その日、はじめてカエデは彼女の隣に座った。
彼女は、チラリと気怠げにカエデの方に目をやったみたいだった。しかし、会話を交わすことはない。いつもの光景。
カエデが、彼女をはじめて見たのはバーの裏口を出てすぐの通りだった。
彼女はそこで顔色一つ変えずに男に殴られていた。
彼女を見て一番印象的だったのは、その全てを諦めたような佇まいだった。
カエデは、その時、少なからずその姿に興味を覚えた。それは、1人で生きてきたカエデがはじめて他者に関心を持った瞬間だった。
よくよく注意してみると、彼女は、カエデのよく行くバーの常連だったらしく、そのあとも何度か姿を見かけることが出来た。かといって、カエデは彼女に話しかけるようなことはしなかった。
だから、カエデが彼女の父親を殺したのは彼女を助けるためではない。ただの偶然だ。カエデは、自分のとった理解不能な行動をそう思うことにした。
彼女の横顔を盗み見ながら、酒を飲んでいると、たれ込み屋の薄汚い男が店に入ってきた。男は、まっすぐにカエデの元へと近づいてくる。
「おい」
男がカエデを見下ろし、口を開く。
「さっきの殺し、お前だろ?」
にやにやと下卑た薄ら笑い。
「……なんの話?」
カエデは短く、だが、冷静に答える。その態度に男は少し気分を害したようだった。ムッとした表情で「いいのか、そんな態度とって。おれがサツにたれこみゃ一発なんだぜ」と、凄んでくる。
カエデは肩を竦めて薄く笑った。
「私に人を殺す理由はないよ」
「ふんっ、理由か? ……そうかもな、アレがこいつの父親じゃなかったら」
男がカエデの隣に座っていた女を顎で示す。
彼女は、やはり表情を変えず緩慢な動作でカエデに視線を向けた。
「……バカバカしい」
カエデが、そう吐き捨てるように言って立ち上がると、自分より背の低い男を見下ろす形になる。
「私は、こんな女なんて知らないし、こんな女のために人生捨てるほどバカじゃない」
「……っ!」
おおかた、カエデを恐喝しようと思っていただろう男はその意外な態度にうろたえたようだった。カエデは、そんな男を冷たく一瞥するとバーを出た。
彼女の父親を殺したことを彼女に知られてしまった。そのことが妙に気恥ずかしく思えて、カエデは逃げるような早足で歩いた。
バーから大分遠ざかった所で不意に「待って!」と、カエデを呼び止める声が背後からした。カエデはぎくりと肩をびくつかせる。
はじめて聞いた彼女の声。無視して歩き続けることも出来たが、足がその一歩を踏み出してくれない。そうこうするうちに小走り気味の足音がすぐそこまで近づいていた。
観念してカエデは振り返る。彼女はカエデが振り返ったことに少し安堵したようだった。
「……なんか用?」
「さっきの、さっきの話、ホント?」
「さっきって?」
カエデはあえて分からないフリをして首を傾げる。彼女が微かに眉を寄せた。大きな瞳が真っ直ぐにカエデを見つめてくる。
「私の父親、あなたが殺したって――」
「あぁ……あれ、あんたの父親だったの? 知らなかった」
カエデは、今やっと思い当たったかのような調子で言う。そして、迷惑そうに顔を顰めた。
「それで? どうしたいの? 警察に突き出す気?」
「……」
「……用がないなら行くよ。今日中にこの街出たほうがいいだろうしね」
カエデは冷たく笑うと彼女に背を向けた。
「ま、待って……あっ!!」
小さな悲鳴と共に背後でズザッとなにかが擦れる音がした。カエデがその音に再び後ろを振り向くと、けっこうマヌケな格好でこけている彼女の姿が目に入った。
「はぁ……」
カエデは、呆れた溜息をつきながら彼女に一歩近寄ると、ぶっきらぼうに手を差しだした。
彼女は、その手を見るが、握ろうとはしない。
出した手を引っ込めるのもなんなので「……手」と促してみるが、彼女はなにか言いたげな瞳のままカエデを見るばかりだった。
カエデは肩を竦め「勝手にすれば……」と手を引っ込め、再び彼女に背を向けた。
「……って」
カエデの背中に彼女が言葉をぶつける。
けれど、彼女の発した細い声は、少し離れた場所にいる酔っぱらいの叫びにかき消され、はっきりと聞き取ることが出来なかった。
カエデはその酔っぱらいに少しの苛立ちを覚えながら、顔だけを彼女の方に向けた。
視線が交錯する。彼女の口が再び動く。
――連れてって
音はなかった。だが、はっきりと分かった。
彼女の白く長い手がカエデに向けられる。
トクン、と心臓が跳ねた。
カエデは押し黙ったまま彼女を見つめる。
愛とか恋とかそんなチープな感情知らない。この胸にあるのがなんなのかも分からない。ただ――
「一緒に来る?」
カエデは、精一杯優しく微笑んで彼女に手を差しだした。
彼女は、一瞬驚いたように目を見開き、出会ってからずっと変わることのなかったその陰鬱な表情を、ふっと和らげて頷いた。