第1話 その召喚、廃棄物処理法違反です
「さあ、開け! 次元の門よ! 我が血の盟約に従い、深淵より来たりて現世を焼き尽くせ!!」
秋葉原、中央通りから一本裏に入った薄暗い雑居ビルの屋上。
電子部品のジャンク屋やメイドカフェの看板が放つ極彩色のネオンが届かないその場所で、怪しげな黒いローブをすっぽりと被った男が、狂気じみた声を張り上げていた。
男の足元には、真っ赤なチョークのようなもので描かれた、直径五メートルにも及ぶ複雑な幾何学模様、魔法陣が、脈打つように不気味な光を放っている。
血のような赤い光が、男の青白い顔を不気味に照らし出していた。
「クックック……ついに、ついにこの時が来た! 愚かなる現世の人間どもよ、恐怖に平伏すがいい! 伝説の魔獣、地獄の番犬ケルベロスが今、この地に降り立つ! さあ、我が魔力を喰らい、その圧倒的な力でビル群をなぎ倒し、愚か者どもに絶望の悲鳴を上げさせよ!!」
男が両腕を天高く掲げると、魔法陣の中心から黒い竜巻のような瘴気が噴き出した。
周囲の空気が急激に冷え込み、ビルの屋上にある室外機がガタガタと異音を立てて震え始める。
次元の壁が削り取られる、鼓膜を破るようなノイズ。
間違いなく、異界から何かが来ようとしていた。
世界の危機。人類の存亡をかけた戦いの幕開け。
誰もがそう直感する、荘厳で絶望的な空気。
バンッ!!
その空気を、無骨な鉄扉が蹴り破られる激しい金属音がへし折った。
「はいそこまで。動かないでねー。手挙げなさい」
屋上に現れたのは、くたびれたベージュのトレンチコートを着た、無精髭の冴えない中年男だった。
手には金色の桜の代紋が輝く警察手帳。口には火のついていないタバコを咥えている。
「警視庁異世界生活安全課の鮫島です。お兄さん、こんな夜更けに何やってんの? 近所から『屋上で変な声出してる不審者がいる』って通報入ってんだけど」
緊張感ゼロの、間延びした声。
魔法陣の異常な光に照らされながらも、鮫島の表情は近所のコンビニに夜食を買いに来た程度のテンションだった。
「な、何奴だ! 貴様、この神聖なる儀式の場に土足で踏み込むとは……!」
ローブの男が狼狽えながら叫ぶ。
「神聖な儀式ねえ。お兄さん、ここ雑居ビルの屋上だよ? 管理会社の許可、取ってる?」
「き、許可だと? 俗物が! 我は深淵を覗く者、暗黒ギルド『黒の結社』の高位召喚師なるぞ! なぜ下等な人間ごときに許可を――」
「はいはい、ギルドね。ギルド」
鮫島は面倒くさそうに頭を掻いた。
「あのさあ。異世界の常識は知らないけどさ。ここは日本なの。東京都千代田区外神田なの。魔法陣描くのは勝手だけど、それ、成分何? 水で流して落ちるやつ?」
「……は?」
男が間抜けな声を漏らす。
「水で落ちない塗料で他人の敷地に勝手に模様描いたら、器物損壊。それに、その光ってる煙みたいなやつ。有害物質含んでないよね? 異臭もするし、東京都の環境確保条例に引っかかるよ?」
「き、貴様ぁ! 魔力という崇高なエネルギーを、環境汚染物質扱いするか!」
男が激昂したその時、魔法陣から噴き出していた瘴気が一気に膨張した。
ズンッ、と重い衝撃波が屋上を駆け抜ける。
「グルァァァァァァ……!!」
瘴気が晴れた後に出現したのは、体長三メートルを超える巨大な黒い獣だった。
三つの頭を持ち、口からは灼熱の炎と涎を垂らし、血走った六つの眼が周囲を睨みつけている。
地獄の番犬、ケルベロス。
その咆哮だけで、周囲の窓ガラスがビリビリと震えた。
「ハハハハハ! 見よ! この圧倒的な絶望を! 行け、ケルベロス! この不敬な人間を食い殺せ!」
召喚師が高らかに笑い声を上げた瞬間。
「鮫島警部! 危険です、お下がりください!」
鮫島の背後から、長身の青年が飛び出してきた。
金髪碧眼、端正な顔立ち。紺色のスーツ姿ではあるが、その身のこなしは洗練された戦士のそれだ。
「三頭の魔獣……おそらく冥界の門番クラス! 私が盾になります。その隙に警部は応援を!」
青年の名はカイル。
数年前、異世界から日本へ次元の穴を通り抜けてやってきた元・光の聖騎士であり、現在は日本に帰化して地方公務員試験を突破し、警視庁で巡査をしている、鮫島の部下だった。
カイルは無意識に、腰のあたり、かつて聖剣を帯びていた場所へ手を伸ばす。
だが、そこにあるのは警察官の装備品である警棒だけだ。
「くっ、聖剣ガラティーンさえあれば……!」
カイルが歯噛みした、その時。
「カイル、落ち着け。剣なんかいらねえよ」
鮫島は全く動じることなく、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「あー、もしもし。東京都動物愛護相談センター? 夜分にごめんね、警視庁生活安全課の鮫島だけど。ちょっと千代田区で特定動物の無許可飼育事案が発生してさ。うん、かなりデカい。トラとかライオンよりデカいかな。麻酔銃と、特大の捕獲網お願いできる?」
鮫島はケルベロスを指さしながら、淡々と電話を続ける。
「あ、あとさ。狂犬病の予防接種、絶対受けてないと思うんだよね、この犬。だから狂犬病予防法違反でもいけると思う。……うん、首輪も登録済みの鑑札もないから野良犬扱いだね。じゃ、至急よろしく」
電話を切った鮫島は、ポカンと口を開けている召喚師と、三つの頭で首を傾げているケルベロスに向かって息を吐いた。
「そういうわけだから。保健所の人が来るまで、大人しくお座りしててね、ワンちゃん」
「ふ、ふざけるな! 地獄の番犬が保健所だと!? ええい、何をしているケルベロス! 焼き尽くせ!」
召喚師の命令を受け、ケルベロスが三つの口を大きく開けた。
喉の奥で、地獄の業火が赤黒く渦を巻き始める。
周囲の温度が跳ね上がり、アスファルトが溶けるような熱気が放たれた。
「カイル」
鮫島が短く呼んだ。
「はい!」
「火気使用の許可なし。消防法違反で現行犯逮捕だ。やれ」
「了解です!」
カイルが地を蹴った。
元・聖騎士の身体能力は、スーツを着ていても健在だ。
瞬きする間にケルベロスの懐に潜り込むと、炎を吐こうとした中央の顎の下へ、強烈な掌底を叩き込む。
「ギャウッ!?」
中央の頭が大きく仰け反り、口の中に溜まっていた炎が霧散する。
左右の頭がカイルに噛みつこうとするが、カイルは軽やかなステップでそれを躱し、流れるような動作で召喚師の背後に回り込んだ。
「なっ……人間の腕力で魔獣を退けるだと……!?」
驚愕する召喚師に、カイルは冷たく言い放つ。
「私は日本国警察、警視庁異世界生活安全課のカイル巡査だ。市民の安全と平穏を脅かす行為は、いかなる理由があろうと見過ごすことはできない!」
カイルはそのまま召喚師の両腕を掴み、背中に回して素早く拘束した。関節を完璧に極められ、召喚師は身動き一つ取れなくなる。
「痛ッ! 離せ、下等生物が!」
「抵抗するな。鮫島警部! 被疑者を確保しました!」
カイルの声を受け、鮫島がゆっくりと歩み寄る。
そして、腰のホルダーから銀色の金属を取り出した。
チャキッ。
冷たい金属音が響き、召喚師の手首に手錠が掛けられた。
「はい、公務執行妨害と、消防法違反ね。あ、それと一番重いのがこれだ」
鮫島は、足元で不気味に光り続ける魔法陣を靴の裏でポンポンと叩いた。
「廃棄物処理法違反。いわゆる不法投棄だね。こんな消えにくい怪しい塗料でデカデカと床を汚して、原状回復どうすんの? これ、特殊清掃の業者呼んで消臭作業までさせたら数十万かかるよ?」
「は……? ふ、不法投棄……? 魔方陣が……?」
「そう。君が喚び出した魔力とかいうエネルギーも、法的に処理基準が定まってないから産業廃棄物扱いになる可能性が高い。報告書の書類仕事が増えるからほんと勘弁してほしいんだけどね」
召喚師は、あまりのスケールの小さい罪状の羅列に、完全に思考が停止していた。
世界を滅ぼすための壮大な儀式が、ただの近所迷惑なゴミの不法投棄と野良犬の放し飼いとして事務的に処理されているのだから。
「クソッ……こんな、こんな理不尽が……!」
召喚師は手錠を鳴らしながら、血走った目で鮫島を睨みつけた。
「覚えておけ、日本の警察とやら! 我ら『黒の結社』は強大だ。魔王軍の残党を束ねた巨大な裏組織なのだ! 我一人を捕らえたところで、いずれこの国は結社の力によって支配される……!」
「おっ、マジで?」
鮫島は目を輝かせた。
「結社ってことは、組織的に活動してるんだな? アジトがあって、活動資金源があって、構成員名簿があるんだな?」
「フン、当然だ。我らの資金力とネットワークは、貴様ら矮小な国家権力など足元にも及ばんわ!」
「カイル、聞いたか!」
鮫島がカイルの肩をバンバンと叩く。
「これで堂々と指定暴力団として認定できるぞ! 暴力団排除条例を適用すれば、あいつらの銀行口座、全部凍結できる! アジトの賃貸契約も強制解除だ! 一網打尽にする口実ができたぞ!」
「素晴らしいですね、警部! 物理的な討伐より、経済的に兵糧攻めにする方がはるかに効率的です。さすがは法治国家、日本のシステム!」
元・聖騎士のカイルが、目をキラキラさせて頷いている。
「き、貴様ら……何を言っている……? 口座……凍結……? 賃貸……?」
異世界の召喚師には、その言葉の恐ろしさがまだ理解できていなかった。
伝説の魔剣よりも、禁忌の呪文よりも。
日本の法律と行政手続きが、いかに冷酷で、生活基盤を徹底的に破壊する絶対的な力を持っているかを。
「さあ、署に帰ってカツ丼でも食いながら、お前の組織の資金洗浄の手口について、たっぷり聞かせてもらおうか。黙秘権はあるけど、税務署は怖いぞー」
鮫島がニヤリと笑う。
屋上の外では、赤色灯の光と共にパトカーのサイレンの音がけたたましく鳴り響き始めていた。
「あ、あとケルベロスちゃんのフン、そこらへんに落ちてるから。お兄さん、飼い主の責任としてちゃんと拾ってからパトカー乗ってね。放置したら軽犯罪法違反追加されちゃうから」
「……」
かくして、世界を揺るがすはずだった大事件は、所轄の生活安全課による鮮やかな指導と摘発によって、あっけなく幕を閉じたのである。
「さて、カイル。戻って始末書と調書の作成だ。保健所への引き継ぎも頼むぞ」
「はい! ……あ、警部。無線が入りました」
カイルが耳に当てたイヤホンを押さえながら、表情を引き締める。
「新宿・歌舞伎町にて、武装した不審者が暴れているとのこと。目撃者の証言によると、光り輝く巨大な剣を背負い、勇者を名乗っているそうです」
「あー……またか。ほんと、あっちの連中は日本の法律をなんだと思ってるんだ」
鮫島は咥えていたタバコを携帯灰皿にしまい、大きく伸びをした。
「行くぞカイル。次は銃刀法違反の現行犯逮捕だ」




