第8章 証明終了:魔法 < 物理
第8章更新しました。 「授業を始めようか」 エルゼによる、王都全市民を巻き込んだ公開実験がスタートします。 魔法という名の信仰を、物理法則で殴り倒す瞬間をお楽しみください。
王都の中央闘技場は、石造りの堅牢な観客席が崩れ落ちそうなほどの熱狂と興奮に包まれていた。 収容人数3万人を誇る巨大なすり鉢状の会場は、立錐の余地もないほどの人々で埋め尽くされている。 貴族、平民、商人、そして魔導師たち。 身分の垣根を超えて全員が固唾を飲んで見守るのは、歴史的な「決闘」の行方だ。
対戦カードは異色極まりない。 片や、この国の魔法の最高権威、宮廷筆頭魔導師ベルンハルト。 片や、突如として現れ、貴族街を石鹸という名の宝石で席巻した謎の科学者、エルゼ・ノイマン。 下馬評は圧倒的にベルンハルト有利、というより、エルゼの瞬殺を予想する声が大半だった。
「おいおい、見ろよあの娘。武器も持ってないぞ」 「杖すらないじゃないか。自殺志願者か?」 「ベルンハルト様の第五階梯魔法で、骨も残らず消し炭にされるぞ」
観客席からの嘲笑と憐れみが混じった視線が、闘技場の中央に立つエルゼに降り注ぐ。 だが、当の本人は白衣のポケットに手を突っ込み、退屈そうにあくびを噛み殺していた。 彼女の傍らには、何の変哲もない麻袋がいくつか無造作に置かれているだけだ。
「……風速3メートル。北東からの風か。 湿度は45%。乾燥状態は良好。 条件は整ったな」
エルゼは指先を舐めて空にかざし、冷徹に環境データを収集していた。 彼女の視線の先、闘技場の反対側では、ベルンハルトが優雅に空中に浮遊していた。 純白のローブをはためかせ、見下ろす姿は、まさに神の代行者といった威厳を放っている。
「エルゼ・ノイマンよ。 今ならまだ間に合うぞ? 跪いて慈悲を乞うならば、五体満足で王都から追放するに留めてやろう」
上空からのベルンハルトの声が、拡声の魔法によって会場中に朗々と響き渡る。 観客からは「慈悲深い!」「さすがベルンハルト様!」という歓声が上がる。 エルゼは鼻で笑い、足元の麻袋の口紐を解いた。
「不要だ。 さっさと始めろ、鳥人間。 私の講義は時間厳守だ。1分で終わらせる」
「……不敬な! ならばその身に刻むがいい! マナの怒りを! 真の魔法の恐怖を!」
ベルンハルトの端正な顔が怒りで朱に染まり、彼が掲げた杖の先端が激しく発光し始めた。 決闘開始の銅鑼が、カーンと高く打ち鳴らされる。
「我は求める、契約と理において! 大気満たす精霊たちよ、我が声に応えよ!」
ベルンハルトが大仰な仕草で詠唱を開始する。 周囲の空間が歪み、凄まじい熱量が彼を中心に渦巻き始めた。 炎の粒子が集束し、巨大な火球となって膨れ上がっていく。
「おおっ! あれは『紅蓮の劫火』!」 「第五階梯の戦略級魔法だ! 闘技場ごと吹き飛ばす気か!?」
魔導師たちが悲鳴のような解説を叫ぶ。 それは、一撃で城門すら溶解させる、圧倒的な火炎魔法だった。 通常の魔導師なら、全魔力を込めた防壁を展開して耐えるのが精一杯だろう。
だが、エルゼは動かなかった。 防御の姿勢すら取らず、ただ足元の麻袋を無造作に蹴り上げただけだ。 同時に、懐から取り出したドローン「ユニット・ワン」を上空へ飛ばす。
「ユニット・ワン、散布開始。 ターゲット座標、敵の周囲半径15メートル。 濃度、1立米あたり50グラムで均一化しろ」
『了解。散布シークエンス、開始』
ドローンが麻袋を吊り上げ、ベルンハルトの上空で逆さまにする。 中から溢れ出したのは、極限まで微細に粉砕された真っ白な粉末だった。 それは雪のように舞い散り、詠唱のために静止しているベルンハルトの周囲を、濃密な白い霧のように包み込んでいく。
「なんだ? 煙幕か?」 「いや、ただの粉だぞ……?」 「あんなもので炎が防げると思っているのか?」
観客たちがざわめく中、ベルンハルトもまた、舞い散る粉を鼻で笑った。 彼の周囲には強力な魔力障壁が多重に展開されている。 物理的な攻撃など、何一つ通じない絶対領域だ。
「ハッ! 目くらましのつもりか! 浅はかな! 我が炎は全てを焼き尽くす! その粉ごと灰になれ!」
「……赤き星の咆哮よ! 全てを灰燼に帰せ!」
詠唱がクライマックスに達する。 ベルンハルトの杖の先で、太陽のように圧縮された火球が完成した。 圧倒的な熱量が、周囲の空気を焦がし、観客席にまで熱風を届ける。
「喰らえェェェッ!!」
ベルンハルトが勝利を確信し、杖を振り下ろした、その刹那。 エルゼは懐中時計を確認し、パチンと指を鳴らした。
「……条件充足。 授業開始だ」
世界が、白く染まった。
ベルンハルトが放とうとした火球――その数千度の熱源が、周囲に充満していた「粉」に触れる。 その粉の正体は、ただの小麦粉ではない。 エルゼが分子レベルで乾燥させ、分散剤を混合して流動性を極限まで高めた、特製の「可燃性微粒子」だ。 空気中に均一に浮遊する粒子は、酸素と理想的な比率で混合されていた。
そこに、高エネルギーの火種が投下される。 結果は、火を見るよりも明らかだ。
カッッッッ!!!!
音よりも速く、閃光が走った。 一つの粒子が燃焼し、その熱が隣の粒子へ、さらにその隣へと、幾何級数的に伝播していく。 連鎖的な急速燃焼。 それはもはや燃焼ではなく、急激な気体膨張を伴う「爆発」だった。
ズドォォォォォォォォォンッ!!!!
鼓膜をつんざく轟音と共に、闘技場の上空に巨大な火柱が出現した。 ベルンハルトが作り出した火球など比較にならない、圧倒的な質量の炎。 指向性を持たない全方位への爆風が、ベルンハルトの体を魔力障壁ごと飲み込んだ。
「な、ぐあぁぁぁぁぁっ!?」
悲鳴は、爆音にかき消された。 空中で発生した爆発は、逃げ場のない衝撃波となってベルンハルトを地面へと叩きつける。 ドシャアッ! という激しい音と共に、砂煙が舞い上がった。
観客席には、爆風の余波で突風が吹き荒れる。 悲鳴、怒号、そして何が起きたのか理解できない沈黙。 誰もが呆然と、黒煙の上がる闘技場の中央を見つめていた。
やがて、風が煙を晴らしていく。
そこには、涼しい顔で白衣の埃を払うエルゼの姿があった。 彼女は爆心地から計算通りの距離を取っており、髪一本焦げていない。 対して、その数メートル先には――。
「う……ううぅ……」
全身が煤で黒く汚れ、自慢のローブはボロボロ、髪の毛はチリチリに焼けたベルンハルトが、痙攣しながら倒れていた。 咄嗟に展開した多重防御壁のおかげで直撃死は免れたようだが、衝撃波までは殺しきれなかったようだ。 ピクピクと動く指先が、彼が辛うじて生きていることを示している。
静まり返る会場で、エルゼの冷徹な声だけがよく通る。 彼女は倒れたベルンハルトの横に歩み寄り、見下ろしながら講義を始めた。
「……『粉塵爆発』だ。 可燃性の固体を微粉末にし、空気中に高濃度で浮遊させれば、表面積は爆発的に増大する。 そこへ点火すれば、酸化反応の速度は通常の燃焼の数百倍に達する」
エルゼは残っていた粉をパラパラと指先から落とした。 何の変哲もない、白っぽい粉だ。 それが、最強の魔導師を倒した兵器の正体だと知り、観客たちは息を呑んだ。
「魔法など不要だ。 必要なのは、可燃物と酸素、そして拡散係数の計算だけだ。 ……お前の敗因は、無駄に長い詠唱で、私が粉を撒く時間をたっぷり与えてくれたことだ」
「ぐ、うぅ……。 こ、粉……小麦粉、だと……? 神聖なる決闘を……台所用品で……汚しおって……」
ベルンハルトが、震える手で上半身を起こす。 その顔は煤と屈辱で歪んでいるが、瞳の奥にある光は消えていなかった。 怒りではない。 それは、理解不能な現象を見せつけられた学者の、根源的な「問い」だった。
「……なぜだ。 なぜ、ただの粉が……あのような威力を……? 魔力回路は? 術式構成は? ありえん……私の理論には、そんなものは存在しない……!」
「存在しないのではない。お前が知らないだけだ。 この世界には、マナに頼らずとも成立する絶対的な物理法則がある」
エルゼは屈み込み、ベルンハルトと視線を合わせた。 嘲笑ではない。 未知へ挑もうとする者への、先導者としての厳しい眼差しだ。
「知りたければ教えてやる。 ただし、授業料は高いぞ。 ……まずは、私の石鹸をギルドで公認することから始めようか」
エルゼがニヤリと不敵に笑い、手を差し伸べる。 ベルンハルトは呆気にとられたようにその顔を見つめ、やがて悔しそうに歯を食いしばりながらも、その手を取った。 黒焦げの手と、白衣の手が握り合う。
「……くっ、覚えていろ! この屈辱、必ず晴らす! ……だが、その『物理』とやら……少しは興味が湧いた、とだけ言っておく!」
ベルンハルトのツンデレ気味な敗北宣言が、マイクを通して会場に流れる。 一瞬の空白の後。 闘技場が割れんばかりの歓声と拍手で爆発した。
「すげええええ!」 「勝った! 魔法使いに勝ったぞ!」 「あの魔女、何者だ!? 賢者か!?」
「科学者だと言っているだろう」
エルゼは歓声に背を向け、観客席の最前列で泣きそうな顔をして手を振っているアリアに、小さく手を振り返した。 その表情には、どんな実験の成功よりも深い、満足感が浮かんでいた。
証明終了(Q.E.D.)。 魔法が物理に敗北した瞬間。 そして、この世界に「科学」という新たな概念が刻まれた歴史的な瞬間だった。
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魔法 < 物理。 どんな偉大な魔法使いも、燃焼の連鎖反応からは逃げられません。 黒焦げになりながらも、科学に興味を持ったベルンハルト。意外と見どころのある男かもしれません。
さて、邪魔者は黙らせました。 次はいよいよ、石鹸に続く「新商品」の開発、そして地下の謎解きへ……。
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