第6章 非効率な首都と、石鹸革命
第6章更新しました。 王都に到着したエルゼが見たのは、華やかな文明ではなく、非効率な不衛生でした。 論理と化学で、この都市の「汚れ」を落としにかかります。
王都を囲む巨大な城壁が、西日に照らされて威圧的な影を大地に落としている。 石造りの正門をくぐり抜けた瞬間、エルゼ・ノイマンを出迎えたのは、文明の威光でも、人々の活気ある喧騒でもなかった。 それは、暴力的とさえ言える「臭気」の壁だった。
「……成分分析、完了」
第一声は、感嘆ではなく、冷徹な現状確認だった。 鼻腔を強烈に刺激するのは、腐敗した有機物、未処理の排泄物、そしてそれを無理やり覆い隠そうとする安っぽい麝香やバラの香油が入り混じった、吐き気を催すような複合臭だ。 エルゼは白衣の袖で鼻と口を覆い、サファイアブルーの瞳を細めて空間を睨みつけた。
「硫化水素、アンモニア、メタンガス……。 大気中の有害物質濃度が、許容値を300%超過している。 ここは一国の首都だろう? それとも私は、巨大な培養槽の中に迷い込んだのか?」
「え、エルゼ様、声が大きいです……! みなさん、普通に歩いていますよ?」
隣を歩くアリアが、慌ててエルゼの袖を引く。 彼女も少し顔をしかめてはいるが、辺境の村出身の彼女にとっては、これが「都会の匂い」として許容範囲内らしい。 だが、現代衛生学の知識を持つエルゼにとって、これは看過できないバイオハザード(生物学的危機)だった。
「慣れとは恐ろしいな。人間の嗅覚順応を悪用している。 見ろ、あそこの排水溝。生活排水と汚水が分離されずに垂れ流しだ。 あの貴族の馬車、通った後に撒き散らしているのは香水か? 臭いものに蓋をするどころか、悪臭のレイヤーを重ねてカオスを形成しているだけじゃないか」
通りを行き交う着飾った人々は、皆一様に扇子やハンカチで口元を隠し、すれ違いざまに強烈な花の香りを漂わせている。 美しいドレスの裾が、泥と汚物で汚れるのを気にする様子もない。 不衛生と虚飾が同居する、極めて歪な繁栄がそこにあった。
「ギルバート。 お前が『大陸一煌びやかな都』とプレゼンしていたのは、この嗅覚への拷問施設のことか?」
背後に控えていた商人のギルバートが、苦笑しながら肩をすくめた。 彼は慣れた手つきで、香草を染み込ませたハンカチを鼻に当てている。
「手厳しいですねぇ。 ですが、これが今の文明の限界というやつですよ。 人は増えすぎました。排泄と浄化のバランスが崩壊しているのです」
「限界? 訂正しろ。 これは単なる行政の怠慢と、都市設計の構造的な欠陥だ。 ……非効率だ。非常に非効率だ」
エルゼの瞳に、科学者としての冷たい闘志が宿る。 それは未知の現象に対する好奇心ではない。 解決可能な問題が放置されていることへの、理不尽な苛立ちだ。
「まずは拠点の確保だ。 ギルバート、手配した宿へ案内しろ。 ……一刻も早く、この不衛生な環境を『浄化』するプロセスを構築する必要がある」
案内されたのは、王都の下町にある中級宿屋「銀の麦亭」だった。 建物は古いが清掃は行き届いており、表通りの強烈な悪臭も、屋内に入れば幾分かマシになる。 カウンターでは、看板娘の少女が元気よく客を捌いていた。
「いらっしゃいませー! あら、ギルバートさん! お久しぶりです!」
栗色の髪を二つに結った少女、ミナが弾けるような笑顔で駆け寄ってくる。 愛想がよく、動きもキビキビしている。 だが、エルゼの冷徹な観察眼は、彼女の頬の赤みと、髪の脂っぽさ、そして指先の荒れを見逃さなかった。
「……ふむ。 皮脂汚れによる毛穴の閉塞。 加えて、過剰な洗浄による角質層の剥離と、皮膚バリア機能の低下か」
「えっ? あ、あの……?」
突然至近距離で顔を覗き込まれ、ミナが戸惑って後ずさる。 エルゼは遠慮なく彼女の頬に指を這わせ、次いでその手を取って観察した。 あかぎれで赤くなった指先は、水仕事の過酷さを物語っている。
「強力なアルカリ性の灰汁を使っているな? 汚れは落ちるが、皮膚のタンパク質まで加水分解している。 これでは肌が悲鳴を上げるのも当然だ」
「は、はあ……。 でも、これくらいゴシゴシ洗わないと、あの……外の臭いが取れなくて……」
ミナが恥ずかしそうに俯く。 この都市の女性たちは皆、見えない「汚れ」と染み付く「臭い」に怯えているのだ。 エルゼは深いため息をつき、自身の荷物からガラス器具と薬品の入ったケースを取り出した。
「嘆かわしい。 汚れを落とすのに必要なのは、物理的な摩擦係数ではない。 適切な化学反応だ」
「え……?」
「アリア、厨房を借りるぞ。鍋と火を用意しろ。 それから、ギルバート。 お前の商会から、最高級のオリーブオイルと、岩塩、それから香草を持ってこさせろ」
エルゼは宿の厨房を我が物顔で占拠すると、無造作に腕まくりをした。 即席の実験室の完成だ。 彼女は鍋に油脂を投入し、さらにポケットから取り出した白い粉末――「科学再現」で生成した高純度の水酸化ナトリウム(苛性ソーダ)を加える。
「いいか、よく見ていろ。 油汚れ(脂肪酸)を分解するのは、アルカリだ。 だが、灰汁のような不純物の多い代物では制御が効かない。 計算された純度と温度管理こそが、反応を支配する」
グツグツと煮える鍋の中で、油脂とアルカリが混ざり合い、液体が白濁してとろみを帯びていく。 鹸化反応だ。 エルゼは温度計代わりの指先で熱を確認しながら、抽出したハーブのエキスを一滴、二滴と垂らした。 厨房に、油臭さを打ち消す清涼感のあるミントとラベンダーの香りが広がる。
「……反応終了。 塩析による分離工程は省略するが、この混合比率ならグリセリンの保湿効果が残る」
エルゼは型に流し込み、急速冷却の術式(という名の熱交換計算)で固めた白い塊を取り出した。 それは、宝石のように滑らかで、雪のように白い。 この世界には存在しない、「純白の固形石鹸」だ。
「完成だ。 名付けて、『マジック・ソープ・プロトタイプ』。 ……さあ、被験者第一号。これで顔を洗ってこい」
エルゼは切り出した石鹸を、呆気にとられるミナに押し付けた。 ミナはおずおずとそれを受け取り、用意された洗面器の水につける。 手のひらで転がした瞬間、彼女の目がまん丸になった。
「わっ……! すごい、泡が……雲みたいにふわふわです!」
キメの細かい、クリーミーな泡が瞬く間に立ち上がる。 それは、今までの「ヌルヌルした液」で洗う常識を覆す光景だった。 ミナは恐る恐る、その泡を顔に乗せる。
「……痛くない。 染みないです! それに、すっごくいい匂い……!」
「当然だ。pH値は肌に優しい弱アルカリ性に調整してある。 界面活性剤(泡)が汚れを包み込み、ミセル化して剥がす。 肌を擦る必要など、物理学的に存在しない」
ミナが水で顔を洗い流し、タオルで拭いて顔を上げた時。 そこにいた全員が、息を呑んだ。 薄汚れてくすんでいた肌がワントーン明るくなり、頬には自然な血色が戻っている。 何より、触れた時の質感が、見てわかるほどに劇的に変わっていた。
「あ、あれ……? つっぱらない……。 それに、なんか……もちもちしてる……?」
ミナは自分の頬を両手で包み込み、うっとりとした表情を浮かべる。 指が吸い付くような、しっとりとした潤い。 長年の重労働と粗悪な洗剤で失われていた「10代の少女の肌」が、たった一度の洗顔で蘇ったのだ。 それは、魔法以上の「化学」の奇跡だった。
「すごい……! これ、すごいですっ! 自分の肌じゃないみたい……!」
ミナの歓声を聞き、それまで静観していたギルバートの目が、鋭い光(¥マーク)を放った。 彼は素早くエルゼに歩み寄り、その手を取らんばかりの勢いで迫る。
「……エルゼ様。 これは、革命ですよ」
「大げさだな。ただの高級脂肪酸塩だ」
「いいえ、革命です! イノベーションです! 貴族の婦人方は、美しさと若さのためなら城一つ分の金貨だって払います。 それに加えて、この香り、この洗浄力……! 悪臭に満ちたこの王都で、これほどの武器はありません!」
ギルバートは石鹸の欠片を手に取り、愛おしそうに眺め回した。 彼の脳内では既に、王都中の金貨が自分の懐に流れ込む計算式が完成しているようだ。
「『魔女の白き宝石』……いや、『王妃の口づけ』か。 ネーミングと販売戦略は私に任せてください。 これを市場に流せば、香水文化そのものが塗り替わる」
「勝手にしろ。 ただし、私の取り分は研究費として現物支給だ。 必要な機材と試薬のリストは後で渡す。桁が多くても文句を言うなよ」
エルゼは興味なさそうに手を振り、鏡の前で自分の頬を嬉しそうに撫でているミナを横目に見る。 少なくとも、この宿屋の看板娘一人のQOL(生活の質)は改善された。 それだけで、今日の実験は成功だ。
「さて、と。 表の汚れ(スキンケア)はこれでいい。 次は、この都市の見えない部分(裏側)の調査だ」
深夜。王都がようやく静寂に包まれる頃。 エルゼはアリアを連れ、人目を忍んで路地裏にある地下水道への入り口に立っていた。 重いマンホールの蓋――ではなく、石畳に偽装された隠し扉を、バールのようなものでこじ開ける。
「エルゼ様、本当に行くんですか? 下水ですよ? また臭いんですよ?」
アリアが露骨に嫌そうな顔をして鼻をつまむ。 昼間の騒動で、彼女もすっかり「清潔」の虜になっていた。 だが、エルゼの表情は真剣そのものだ。
「臭いからこそ、行くんだ。 この都市の排水システムは異常だ。 地上の人口密度に対して、地下の処理能力が高すぎるし、構造が不自然だ」
エルゼはカンテラの明かりを頼りに、地下へと続く長い梯子を降りていく。 湿った空気と、淀んだ水の臭いが鼻をつく。 しかし、底に降り立ち、カンテラを掲げたエルゼが目にしたのは、ただの石積みの水路ではなかった。
「……やはりな。 仮説通りだ」
彼女がカンテラを壁に近づける。 石材の表面に見えたものは、実は精巧なカモフラージュだった。 一部が剥がれ落ちたその下から、鈍い銀色の金属光沢が覗いている。 その表面には、びっしりと霜が降りていた。
「継ぎ目がない。 これは石積みじゃない。超硬合金のシームレス配管だ。 しかも、この異常な冷気……」
エルゼは壁に手を触れ、その冷たさに戦慄した。 ただの地下水ではない。 壁の内部を、極低温の何らかの冷却触媒が循環している。 耳を澄ませば、水流の音の奥底から、ブーンという低い機械の駆動音が聞こえてくる。
「これは下水道なんかじゃない。 巨大な『超伝導排熱ダクト』だ。 この王都の地下には、とてつもなく巨大な熱源が眠っている」
「えっと……つまり、どういうことですか?」
アリアが首を傾げる。 エルゼは暗闇の奥、どこまでも続く巨大な空洞を見つめ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「つまり、この華やかな王都は、 古代の巨大な機械の上に、そうとは知らずに寄生して成り立っているということだ。 ……面白い。実に興味深い構造だ」
エルゼの瞳が、サファイアのように青く、怪しく輝く。 地上の石鹸革命など、彼女にとってはただの資金集めの余興に過ぎない。 真の研究対象は、この足元に眠る「世界の秘密」にある。
「アリア、サンプルを採取する。 この金属片と、流れている液体の成分分析だ。 ……忙しくなるぞ。王都の底は、思ったよりも深い」
地下の闇の中で、科学者の知的好奇心が静かに、しかし激しく燃え上がっていた。 王都動乱編、その幕開けは、誰も知らない地下の底から始まろうとしていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
地上では美肌革命、地下では世界の秘密にアクセス。 エルゼの休まる暇がありません(本人は楽しそうですが)。
王都の地下に眠る「熱源」とは何なのか? そして、この石鹸が貴族社会にどんな波紋を呼ぶのか……。 次回、科学が生む富と、それが招く新たなトラブルにご期待ください。
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