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『ロストテクノロジーは「科学」だと言っているでしょう? ~元科学者の私、異世界で禁忌の始祖として崇められる~』  作者: 酸欠ペン工場


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第3章 無知という名の病魔

第3章更新しました。 平穏な研究の日々。しかし、科学が生み出す「利益」は、必ずしも善人だけを引き寄せるわけではありません。 無知と欲望に塗れた権力者が、エルゼたちの村に迫ります。

村の外れ、かつては物置として放置されていた廃屋同然の小屋。 そこは今、異様な熱気と、鼻をつくような化学薬品の刺激臭に包まれている。 窓は木の板で乱雑に塞がれ、隙間から漏れる日光が、舞い上がる埃をキラキラと照らしていた。


壁一面には、木炭で殴り書きされた複雑怪奇な数式がびっしりと並んでいる。 床には村中から集められたガラクタ、錆びた鉄屑、正体不明の鉱石が足の踏み場もないほど山積みにされていた。 かつて地球でその名を馳せた天才科学者、エルゼ・ノイマンにとって、この混沌とした空間こそが、異世界攻略のための最前線基地ラボだった。


「……硫黄の純度が著しく低い。これでは燃焼効率が理論値より15%も低下する。  再結晶化のプロセスを見直すべきか?  いや、触媒としてあの赤色の酸化鉄を粉砕し、表面積を増やして混合すれば……」


エルゼは作業台に齧り付き、ブツブツと独り言を漏らし続けている。 手入れされていない銀色の長い髪は、実験の邪魔にならないよう大きなクリップで雑に留められていた。 白衣は煤と薬品のシミで地図のような模様を描き、あちこちに焦げ跡が残っている。 目の下には、彫刻刀で深く刻んだような濃いくまが張り付いていた。


村の水源汚染を解決してから、数週間が経過していた。 その間、彼女はこの小屋に引きこもり、寝食を忘れて研究に没頭している。 彼女の思考領域ワークスペースは完全に閉じられていた。 外部からの入力は全てノイズとして処理され、脳内では膨大な計算式だけが高速で回転している。 この世界を支配する「魔法」という名のブラックボックスを、物理法則という鋭利な光でこじ開けるために。


「硝石の精製速度がボトルネックだ。  村の連中の排泄物から窒素化合物を抽出するプランBへ移行するか?  衛生面でのリスク(バグ)はあるが、火薬の量産には背に腹は代えられない……」


「――エルゼ様。  聞こえていますか? エルゼ様」


不意に、思考の深海に割り込む声があった。 エルゼは眉間の皺を深くし、煩わしげに手を振ってその音源を追い払おうとする。 今は佳境なのだ。原子の配列が組み上がる、その一瞬の閃きを逃すわけにはいかない。


「後にしてくれ。  今、非常にデリケートな吸熱反応のシミュレーション中だ。  思考を中断させると、この世界の文明レベルの進歩が3日は遅れるぞ」


「駄目です。もうお昼をとうに過ぎています。  昨日の夜も、今朝も食事を抜きましたよね?  これ以上は『メンテナンス不良』による強制シャットダウンになりますよ」


声の主は引かない。 それどころか、足音がズカズカと容赦なく近づいてくる。 エルゼが渋々顔を上げると、そこには腰に手を当て、呆れと心配をないまぜにした表情で仁王立ちするアリアの姿があった。


「……アリアか。  何度言えばわかる。食事という行為は、生命維持に必要なカロリーと栄養素を摂取するプロセスに過ぎない。  今の私の体内グリコーゲンはまだ枯渇していないし、脳へのブドウ糖供給も安定している」


「鏡を見てください。顔色が真っ白で、幽霊みたいですよ。  それに、見てください、その手。震えています。  そんな状態で、ミリ単位の精密な実験なんてできるわけがありません」


アリアは大きな溜息をつくと、手に持っていた木製の盆を、ガラクタだらけの作業台のわずかな隙間にドンと置いた。 そこには、焼きたての固いパンと、根菜をくたくたになるまで煮込んだスープが湯気を立てている。 薬品の臭いしかしなかった小屋に、香ばしい小麦と肉の匂いが広がり、エルゼの鼻腔をくすぐった。 その瞬間、彼女の腹が「グゥゥ」と間の抜けた音を盛大に響かせた。


「……これは、単なる胃壁の収縮運動だ。  自律神経の反射作用であり、空腹感という主観的な感情とは一切無関係だ」


「はいはい、わかりましたから。  言い訳はいいので、口を開けてください」


「断る。  見てわからないか、両手が塞がっている。  このフラスコ内の溶液温度を一定に保たなければ、小屋ごと吹き飛んで、お前も私も原子レベルで分解されるぞ」


エルゼはあえて物騒な脅し文句を使い、アリアを遠ざけて実験を続行しようとする。 だが、今回のアリアは強敵だった。 彼女はパンを一口サイズにちぎると、獲物を狙う肉食獣のような鋭い目つきで距離を詰める。


「吹き飛ぶ前に、詰め込みます」


「は? 何を……んぐっ!?」


エルゼが抗議しようと口を開いた瞬間、その隙間へ的確にパンがねじ込まれた。 口の中に、素朴な小麦の甘みと、わずかな塩気がじわりと広がる。 反射的に咀嚼してしまう自分の正常な生体反応が、今は何よりも恨めしい。


「……んぐ、むぐ……。  ……野蛮な。  気道閉塞チョーキングのリスクを考慮しろ。窒息死したらどうする」


「エルゼ様が子供みたいに頑固だからです。  ほら、スープも飲んでください。  流動食なら噛む手間も省けて、効率的でしょう?」


アリアは木のスプーンを構え、まるで聞き分けのない幼児をあやす母親のような顔をしている。 エルゼは抵抗を試みたが、スプーンが口元に迫る無言の圧力プレッシャーに負け、渋々口を開いた。 温かい液体が食道を通り、冷え切っていた内臓にじんわりと熱を灯していく。


「……悪くない味だ。  塩分濃度も適切。  栄養バランスも、現地の限られた食材にしては最適化されている」


「ふふ、よかったです。  村のおばさんたちに、滋養のつく煮込み方を教えてもらったんです。  エルゼ様、食べる時くらいは、その難しい顔を止めてくださいよ」


アリアの表情が、春の日差しを浴びた花のように和らぐ。 その琥珀色の瞳には、純粋な親愛と、不器用な主人を支えることへの誇りが宿っていた。 かつて「忌み子」として誰かに怯え、震えていた少女の面影は、もうそこにはない。


エルゼはパンを飲み込みながら、ふと考える。 自分は科学ツールを使ってアリアの命を救ったつもりだった。 だが、この数週間の生活メンテナンスにおいて救われているのは、むしろ自分の方ではないか。 アリアがいなければ、自分は研究の途中で餓死するか、脱水症状で倒れていた可能性が統計的に極めて高い。


「……勘違いするなよ。  私はお前の世話になっているわけではない。  これは、雇用主の健康管理ヘルスケアを行うという、助手の業務の一環だ」


「はいはい、わかってます。  私はエルゼ様の『手』にはなれませんが、  エルゼ様が生きていくための『胃袋』の管理くらいは任せてください」


アリアは悪戯っぽく笑い、次のパンをちぎって差し出す。 エルゼは「やれやれ」と肩をすくめながらも、大きく口を開けてそれを受け入れた。 狭く薄暗い小屋の中で、奇妙な主従の、温かな咀嚼音だけが響いていた。


夜が訪れると、村は深い静寂に包まれる。 電灯などという文明の光がないこの世界では、星々の輝きだけが唯一の光源だ。 エルゼは一通りの実験を終えると、梯子を使って小屋の屋根に登り、夜空を見上げるのが日課となっていた。


冷たい夜風が、手入れ不足の銀髪をさらさらと揺らす。 彼女の視線の先には、巨大な満月が青白く、不気味なほど鮮明に鎮座している。 だが、その瞳に映っているのは、風流な天体観測の景色ではない。


「……やはり、おかしい(バグっている)。  入射角、輝度分布、そして表面のクレーター配置。  位相が決定的にズレている」


エルゼはポケットから取り出した手製の六分儀を構え、数値を記録する。 見た目は地球の月と酷似しているが、観測データは決定的に異なることを示していた。 それは、天体の運行法則(ケプラーの法則)を無視した、不自然な静止軌道を描いている。


「重力干渉が観測されない? 潮汐力も、この質量の天体があるにしては弱すぎる。  あれは自然天体じゃない。  空に張り付いた高解像度の『画像』か、あるいは中身が空洞の巨大構造物アーティファクトか……」


「エルゼ様?  そんな高いところで、何をしているんですか?」


梯子のきしむ音と共に、アリアが屋根に顔を出した。 手には厚手の毛布を抱えている。 彼女はエルゼの隣に座り込み、不思議そうに同じ月を見上げた。


「月が、どうかしたんですか?  今日は満月で、とても綺麗ですけど」


「綺麗かどうかは主観的な感性の問題だ。  私が言っているのは、客観的な座標データの矛盾だ。  ……アリア、お前にはあの月がどう見える?」


「え? どうって……。  神様が私たちを見守ってくれている目、ですかね。  おとぎ話では、ずっと昔からそう教わりました」


「神の目、か。  言い得て妙だな。  あれが我々を監視するためのカメラ(モニター)だとしたら、性質の悪い冗談だ」


エルゼは鼻で笑い、アリアが肩に掛けてくれた毛布を引き寄せた。 この世界の住人は、空の異常さに気づいていない。 あるいは、「魔法」や「神」という便利な言葉で思考停止し、疑問を持つことすら忘れているだけかもしれない。


「私には、あれが巨大な実験場の天井に描かれた、書き割りの絵に見えるよ。  ……まあいい。  今はまだ、仮説を立証するための観測データが足りない」


「よくわかりませんが……。  エルゼ様がそう言うなら、あの月も何か怪しいんですね?  私、あいつを見張っておきますか?」


アリアが真剣な顔で、月に向かって見えない弓を構える真似をする。 そのあまりに突拍子もない発想と、盲目的な頼もしさに、エルゼは思わず吹き出した。 クスクスという笑い声が、夜の冷気を少しだけ溶かしていく。


「ははっ、月に弓を引くか。  お前なら、いつか本当に届かせそうで怖いな。  だが、今はいい。地上の敵に備える方が先決だ」


エルゼの視線が、うえから地平線の彼方したへと降りる。 村へと続く一本道の先、深い森の暗闇の奥に、不穏な気配を感じ取っていた。 空気中の微粒子が運んでくる、鉄と油、そして殺意の臭い。


「……そろそろ、来るぞ。  私の技術ちからを嗅ぎつけた、飢えたハイエナどもがな」


時を同じくして、数十キロ離れた領主の館。 煌びやかなクリスタルのシャンデリアの下、悪趣味な金銀財宝で飾られた執務室で、一人の男がワイングラスを揺らしていた。 この辺境の地を治める領主、バロンである。


彼の脂ぎった頬が、下卑た笑みで醜く歪んでいる。 大理石のテーブルの上には、配下の密偵が持ち帰った羊皮紙の報告書が広げられていた。 そこには『辺境の村にて、万病を治す奇跡の水湧く』『魔女のごとき白衣の女、錬金術を操る』という文字が躍っている。


「ククク……。  奇跡の水、だと?  錬金術か、あるいは古代の遺物アーティファクトの発掘か」


バロンは報告書を太い指で弾き、欲望に濁った目を細めた。 彼の領地経営は、自身の浪費癖が祟って傾いている。 重税と搾取で民は疲弊しきっており、国への上納金も滞り始めていた。 そんな彼にとって、この報告は金塊が空から降ってきたようなものだった。


「それを手に入れれば、王都の貴族どもに高く売りつけられる。  いや、不老不死の薬として皇帝陛下に献上すれば、中央への栄転も夢ではない……!」


肥大した妄想は膨らみ続け、バロンの哄笑が高らかに響く。 彼は卓上のベルを、壊れんばかりに乱暴に鳴らした。 即座に、全身を黒い鎧で固めた私兵団の隊長が入室し、恭しく頭を下げる。


「お呼びでしょうか、閣下」


「出撃だ。  今すぐ辺境の村へ向かえ。  そこにいる女と、その『技術』を全て接収するのだ」


「村人が抵抗した場合は?」


「構わん。見せしめに村ごと焼き払ってでも連れてこい。  ただし、女は生かしておけよ。  これから私のために金を産み続ける、大事なガチョウだからな」


バロンはグラスの中の血のように赤い液体を、一息に飲み干した。 残虐な命令と、グラスが空になる音。 それはまるで、これから流れる村人の血を予兆しているかのようだった。 重厚な鎧の擦れる金属音と共に、私兵団が出撃の準備を始める。


無知という名の病魔は、ウイルスよりもタチが悪い。 それは欲望を媒介にして感染し、人の理性を食らい尽くしながら、エルゼたちの住む静かな村へと確実に迫っていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


村を救った技術が、今度は争いの火種に。 「錬金術」と誤解した領主が、実力行使に出るようです。


しかし、相手は天才科学者エルゼ。 ただで捕まるはずがありません。 小屋に積み上げられた怪しげな物質がどう使われるのか、次回をお楽しみに。


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X(旧Twitter): 酸欠ペン工場(@lofiink) [https://x.com/lofiink]

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