第2章 奇跡ではありません、化学反応です
第2章更新しました。 エルゼにとっては「教科書通りの実験」ですが、異世界人にとっては「奇跡の顕現」です。 知識の格差が生む、圧倒的な無双劇をお楽しみください。
祈祷師のヒステリックな怒鳴り声が、広場の淀んだ空気を不快に震わせている。 だが、エルゼ・ノイマンの鼓膜は、その無意味な音波を環境ノイズとして自動的に遮断していた。 彼女の意識は、目の前にある「物質」と、これから引き起こす「現象」だけにフォーカスされている。
世界は今、彼女にとって巨大な実験室だった。
「アリア、次は木炭だ。 できるだけ細かく砕いたものと、親指大の塊を分けて持ってこい」
「は、はいっ……!」
アリアは、自身の体格ほどもある木箱を引きずりながら、懸命に動き回っていた。 顔色はまだ蒼白で、額には脂汗が滲んでいる。 先ほどのナノマシン治療で組織は修復されたが、失われた体力までは戻っていないのだ。 本来なら絶対安静が必要な状態で、彼女は歯を食いしばってエルゼの指示に従っている。
「(……非効率な生体反応だ。だが、その異常なモチベーションは評価に値する)」
エルゼは内心で助手の精神構造を分析しつつ、受け取った木炭を空の樽へと投入した。 底には清潔な麻布、その上に洗浄した小石、砂利、粗い砂、細かい砂、そして粉砕した活性炭。 教科書通りの、しかしこの未開の世界には存在しないオーパーツ、「重力式急速ろ過装置」が組み上がっていく。
「き、貴様、無視をするな! その穢れたゴミで何をしようというのだ! 精霊様への冒涜だぞ、これは!」
祈祷師が顔を真っ赤にし、唾を飛ばして詰め寄ってくる。 エルゼは作業の手を止めず、視線だけを彼に向けた。 それは、実験の邪魔をするハエを見るような、冷徹で無機質な眼差しだった。
「ゴミ? 定義を訂正しろ、原始人。 これは活性炭。 その辺の宝石よりも、よほど人類の生存に寄与する多孔質炭素だ」
「かっせい……なんだと? 訳のわからぬ邪教の呪文を唱えるな!」
「説明しても無駄だな。 お前のその貧弱な演算能力(CPU)では、理解する前に熱暴走するのがオチだ」
エルゼは鼻で笑い、樽の側面に手を当てた。 ここで、彼女だけの「科学」が発動する。 通常なら単に詰めただけの砂利は目詰まりを起こすが、彼女は「構造解析」によって内部構造をスキャン。 粒子の一つ一つを原子レベルで干渉し、水分子だけを通し、菌や不純物を絡め取る「最適解の迷路」へと瞬時に再構築した。
「微細構造、最適化。流路抵抗、最小値へ固定」
エルゼは小さく呟き、一番上の層へ布を被せた。 装置の完成だ。 外見はただの、砂や石が詰まった薄汚い樽に過ぎない。 だがその内部には、数千年分の科学の精髄と、彼女の演算が詰まっている。
周囲を取り囲む村人たちは、不安と好奇心が入り混じった目でそれを見守っていた。 彼らはまだ半信半疑だ。 だが、喉を焼くような渇きと、祈祷師の儀式が失敗し続けているという絶望的な事実が、彼らをこの場に釘付けにしていた。
「準備完了。 さあ、実験開始といこうか」
エルゼは、祈祷師の足元にあった瓶を無造作に拾い上げた。 中には、泥と細菌がたっぷりと培養された「聖水」が入っている。 ドロリとした茶色の液体が、腐敗臭と共にチャプンと揺れた。
「や、やめろ! 私の聖水に何をする!」
「洗浄だ。 こんな汚物を飲ませて『治療』などとほざくお前の詐欺手口を、物理的に暴いてやる」
エルゼは躊躇なく、その泥水を樽の上から一気に注ぎ込んだ。 ボトボトと濁った音を立てて、汚れた水が砂利の層へと吸い込まれていく。 黒い炭の闇へと、病原の泥が飲み込まれていった。
一瞬の静寂が広場を支配する。 誰もが固唾を飲んで、樽の底に開けられた小さな穴を見つめていた。 祈祷師は嘲笑を浮かべようと口元を歪め、アリアは祈るように胸の前で手を組む。
時間は、永遠のように長く感じられた。 やがて。
ポタリ、と音がした。
樽の底から、一滴の水が滴り落ちる。 それは、夕日を反射し、ダイヤモンドのように鋭い煌めきを放っていた。 泥の色も、淀みも、一切ない。 完全なる、無色透明な液体。
「……あ……」
誰かの口から、感嘆のため息が漏れた。 続いて、ツーッという涼やかな音と共に、細い水の糸が流れ落ち始める。 受け皿となったビーカーの中に、キラキラと輝く水が溜まっていく。
さっきまでのドブのような悪臭は消え失せていた。 そこにあるのは、ただひたすらに純粋で、暴力的なまでに美しい「水」だった。
「な……馬鹿な……。 泥水が……消えた……?」
祈祷師が腰を抜かし、無様に尻餅をつく。 その目は限界まで見開かれ、信じられない怪奇現象を見るように震えている。 村人たちも同様だった。彼らにとって、それはどんな高位魔法よりも衝撃的な「奇跡」に見えたのだ。
「色が……透明になった……」 「ありえない……魔法か? いや、魔力なんて感じなかったぞ」 「泥はどこへ行ったんだ……?」
ざわめきが波紋のように広がる。 エルゼは溜まった水をビーカーごと持ち上げ、太陽の光にかざした。 不純物ゼロ。透過率99.9%。完璧な精製水だ。
「魔法? 違うな。 これはただの『物理現象』だ。 吸着、濾過、イオン交換……条件さえ整えば誰にでも再現可能な、当然の結果に過ぎない」
彼女はそう言い放つと、ビーカーの縁に自身の唇をつけた。 躊躇いなく、その水を喉へと流し込む。 ゴクリ、という音が、静まり返った広場に響いた。
「……ん、悪くない。 硬度は低め、ミネラル分は適量。 少なくとも、お前たちの言う『聖水』よりは、遥かに生物の生存に適している」
エルゼは口元を手の甲で拭い、残った水をアリアに差し出した。 アリアはおずおずとそれを受け取り、震える手で口に運ぶ。 一口飲んだ瞬間、少女の瞳が大きく見開かれた。 体中の細胞が、清冽な水を歓喜して受け入れる感覚。
「……おいしい……! 冷たくて……凄く、おいしいです……!」
その一言が、決定打だった。 極限の渇きと熱病に苦しむ村人たちの理性が、音を立てて崩壊する。 「飲めば助かるかもしれない」という本能が、恐怖や信仰を凌駕したのだ。
「俺にもくれ! 頼む、喉が焼けるように熱いんだ!」 「私の子供に! お願いだ、その水を!」 「退け! 俺が先だ!」
我先にと樽の前へ殺到する村人たち。 エルゼは彼らを制止することなく、次々とビーカーに水を満たしては手渡していく。 泥水を注げば、清らかな水が出てくる。 その単純明快なシステムが、彼らには神の御業そのものだった。
水を飲んだ者たちは、次々と涙を流してその場に崩れ落ちた。 熱に浮かされた体に、冷たく清潔な水が染み渡っていく。 それは、彼らが長い間忘れかけていた「生」の実感だった。
「ああ……精霊様……いや、女神様……!」 「ありがとうございます……! 体が、楽になっていく……!」 「俺たちが間違っていた……! あんたこそが本物の救い主だ!」
地面に額を擦り付け、エルゼを拝む者まで現れ始めた。 数分前まで彼女たちを「忌み子」「余所者」と罵り、石を投げていた連中だ。 そのあまりに現金で、浅ましい掌返し(ハンド・フリップ)に、エルゼは呆れを通り越して感心すら覚えた。
「……大衆心理とは、こうも簡単に書き換わるものか。 実に興味深いサンプルだ。論文が一本書けるな」
「き、貴様ら! 騙されるな! それは悪魔の幻術だ! 後で毒が回ってくるに違いない!」
群衆の後ろで、祈祷師が必死に叫んでいる。 だが、もはや誰も彼を見ようとはしなかった。 彼の足元に転がる泥水の瓶は、今やただの不快な産業廃棄物でしかなかった。
「うるさいぞ、ヤブ医者!」 「お前の聖水で、俺の家族は死にかけたんだぞ!」 「出て行け! このペテン師!」
かつて崇拝していた対象への罵倒が始まる。 誰かが投げた石が祈祷師の額に当たり、彼は悲鳴を上げながら逃げ出していった。 その背中は滑稽なほど小さく、そして哀れだった。
「……さて、と」
エルゼは騒ぎが収まるのを待たず、次なるフェーズへと移行する。 水で喉を潤し、脱水症状は改善されたが、彼らの体内にはまだ細菌が巣食っている。 根本的な解決には、適切な薬剤投与が不可欠だ。
「アリア、患者を整列させろ。 重症度順に並ばせるんだ。効率的に処理するぞ」
「は、はいっ! みなさん、押さないで! エルゼ様の指示に従ってください!」
アリアの声には、先ほどまでの怯えはなかった。 彼女は今、確信していたのだ。 この人の背中についていけば、どんな絶望も論理的に覆せるのだと。
エルゼは再び地面に手を触れた。 脳内で複雑な化学構造式を展開する。 ペニシリン、ストレプトマイシン……この世界の土壌や植生から抽出可能な成分を原子レベルで合成する。
「固有能力、物質生成。 ……抗生物質、精製開始」
青白い幾何学模様の光が、彼女の手のひらに集まる。 それを見た村人たちは、再び「おお……」と感嘆の声を漏らして平伏した。 エルゼにとってはどうでもいい反応だった。
彼女が彼らを助けるのは、慈悲からではない。 この村を拠点にするための、労働力の確保。 そして、自分の技術がこの世界でどこまで通用するかという、実地試験に過ぎない。
「感謝なら不要だ。 治ったら働いてもらう。 対価分の労働力は、きっちり回収させてもらうからな」
エルゼは生成した白い粉末を、水に溶かしながら淡々と告げた。 だが、その言葉すらも、村人たちには「慈悲深い女神の照れ隠し」にしか聞こえていないようだった。 アリアだけが、その横顔に浮かぶ冷徹な合理性を理解し、そして憧れていた。
(この人は、魔法なんて使わない) (ただ、知っているだけ。世界の仕組みを、誰よりも深く)
アリアは自分の胸に手を当てた。 そこにある心臓が、早鐘を打っている。 それは恐怖ではなく、未知なる「科学」への興奮だった。
「エルゼ様……。 私は、あなたに……一生ついていきます」
喧騒の中、少女の呟きは誰にも聞こえなかった。 だが、その瞳に宿った光は、生成された水よりも澄んで、強く輝いていた。 それは、迷信の時代が終わり、理性の時代が幕を開けた瞬間の輝きだった。
お読みいただき、ありがとうございました! 「奇跡? いいえ、活性炭ろ過です」 ただの物理現象ですが、原始的な村にとっては神の御業以上の衝撃だったようです。
無事に祈祷師を論理と物理で排除し、村の治療が完了しました。 次回は、回復した村人たちからエルゼが何を受け取るのか……そして、彼女の次なる目的が明かされます。
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