第1章 その魔法、燃費が悪すぎる
第1章更新しました。 元科学者にとって、異世界の非効率な衛生観念は許しがたい「エラー」のようです。 まずは手始めに、村の環境改善から開始します。
乾いた風が土埃を巻き上げ、視界を茶色く濁らせていく。 村の入り口に立つ木の柵は腐り落ちており、そこには魔除けのつもりだろうか、干からびた獣の骨や、歪な形をした藁人形が鈴なりに吊るされていた。 村全体が、まるで巨大な隔離病棟のように、重苦しい沈黙と腐敗した水の臭気に包まれている。
エルゼ・ノイマンは、鼻孔を刺す悪臭に眉をひそめ、耳元のイヤーカフ型デバイスを指先で軽く叩いた。 翻訳機能は正常に稼働しているが、この村から発せられる環境音――咳き込む音、うめき声、祈りの合唱――は、どんな言語フィルタを通しても不快なノイズでしかない。 彼女のサファイアブルーの瞳が、カメラのレンズのように冷徹に村の衛生状態をスキャンしていく。
「……衛生管理レベル、評価不能。 下水処理設備なし、糞尿の隔離不全、水源への生活排水の流入……。 ここは病原菌の培養皿か? 人間が住む環境としては、構造的欠陥がありすぎる」
エルゼの辛辣な独り言に、背後で彼女の白衣の裾を掴んでいた少女、アリアがビクリと肩を震わせた。 アリアの足取りはまだ覚束ない。 先ほどの緊急治療で一命を取り留めたとはいえ、体内のダメージが完全に抜けたわけではなく、エルゼに体重を預けるようにしてようやく立っている状態だ。
「……こ、ここは……精霊様の怒りを買いやすい、呪われた土地だと言われていて……。 だから、みんな……祈祷師様にすがって、許しを請いながら暮らしているんです……」
アリアは自身の燃えるような赤髪を隠すように、ボロボロのフードを目深に被り直した。 その声は蚊の鳴くように細く、恐怖に震えている。 だが、エルゼにとってその説明は、非論理的な戯言に過ぎなかった。
「精霊の怒り? 非科学的だ。 地質学的に見て、単に地下水位が高く排水能力が低い低地というだけだろう。 土地改良という発想を持たず、祈りで解決しようとするのは、思考停止という名の怠慢だ」
エルゼは深いため息をつき、アリアを支え直しながら村の大通りへと足を踏み入れた。 周囲の家々の窓は堅く閉ざされており、隙間からは病魔に冒された者たちの苦悶の喘鳴が漏れ聞こえてくる。 道を行き交う数少ない村人も、土気色の顔をして亡霊のように足を引きずっていた。
彼らは、見慣れぬ純白の白衣を纏ったエルゼを見ると、異物を見るような怪訝な顔をする。 だが、その背後に隠れるアリアの赤い髪が一房こぼれ落ちた瞬間、彼らの表情は一様に凍りついた。 嫌悪、恐怖、そして粘着質な侮蔑。 負の感情が込められた視線が、物理的な重圧となって病み上がりの少女に突き刺さる。
「……見ろ、あれは……」 「戻ってきたのか、あの忌み子が……」 「あいつが生きて戻ってきたせいで、また村の穢れが濃くなるぞ……」
ひそひそと交わされる陰口は、風に乗ってアリアの耳にも届いているはずだ。 彼女はさらに体を小さくし、エルゼの背中という唯一の盾に溶け込もうとする。 震える手が痛いほど白衣を握りしめているのを感じ、エルゼは歩調を緩めずに淡々と告げた。
「気にするな。 彼らの発言には、統計的な根拠も論理的な因果関係も一切存在しない。 解析する価値もない、ただの環境ノイズだ」
「……はい……でも……私がいると、また……」
「それに、お前のバイタルサインは私がリアルタイムで監視している。 お前が疫病のキャリア(媒介者)になる可能性は、数学的にゼロだ。 胸を張れとは言わないが、縮こまる必要もない。堂々としていろ」
エルゼの言葉に温かみはないが、揺るぎない「事実」としての冷たい強度が込められていた。 アリアは少しだけ顔を上げ、縋るような瞳でエルゼの横顔を見つめる。 二人が村の中央広場に近づくにつれ、ドンドンという異様な太鼓のリズムと、鼻をつく刺激臭が強くなってきた。
広場の中央には、キャンプファイヤーのような巨大な焚き火が焚かれ、紫色の不気味な煙がもうもうと立ち上っている。 その周囲を、派手な鳥の羽飾りと動物の骨で作った装飾品をジャラジャラと鳴らす男が、奇声を上げながら踊り狂っていた。 男が懐から取り出した粉末を火に投げ込むたびに、炎が緑や赤に毒々しく変色し、パンッという爆発音を立てる。
「ウオオオオッ! 去れ! 悪しき淀みよ! 精霊の加護あれ! 穢れを火にくべて焼き尽くしたまえ!」
祈祷師の絶叫に合わせ、広場に集められた数十人の病人たちが、地面に頭を擦り付けるようにして平伏する。 彼らの顔色は一様に悪く、肌にはアリアと同じような赤い発疹が浮かんでいた。 誰もが虚ろな目で、祈祷師の胡散臭い踊りに救いを求めて縋り付いている光景は、集団催眠の現場そのものだった。
「……ありゃ、なんだ? サーカスにしては芸がないし、演劇にしては脚本が陳腐だな」
エルゼは眉間の皺を深くし、その「神聖な儀式」を極めて冷ややかな視線で見下ろした。 彼女の瞳には、神秘的な儀式の荘厳さなど微塵も映っていない。 映っているのは、無駄な熱量消費と、有害物質の拡散という「物理的現象」だけだ。
「あ、あれは……バルガス司祭様の一番弟子の方で……。 強力な祓いの儀式をしているんです。 あの聖なる煙を浴びれば、体の中の悪いものが逃げていくって……」
「悪いものが逃げるどころか、呼吸器系に深刻なダメージを与えているだけだ。 炎色反応から見て、燃やしているのは銅粉末、ストロンチウム、それに幻覚作用のある乾燥ハーブか? ……気管支炎の患者に重金属の蒸気を吸わせるなんて、正気の沙汰じゃない」
エルゼは白衣のポケットから、遺跡で見つけたガラス片を加工した簡易的な単眼鏡を取り出した。 それを片目に当て、舞い上がる煙と、患者たちがありがたがって飲まされている「聖水」を解析する。 レンズ越しに、世界が数値と化学式へと分解されていく。
「……成分分析、開始。 煙の組成……硫化水素、二酸化硫黄、PM2.5の基準値を数千倍オーバー。 そして、あの水」
彼女の視線が、祈祷師の足元にある大きな瓶に向けられる。 泥のように濁った液体が、柄杓ですくわれ、患者の口へと運ばれていた。 レンズの倍率を上げると、その液体の中で無数の微生物が活発に蠢いているのが見えた。
「……ビンゴだ。予想通りすぎて欠伸が出る。 コレラ菌に酷似した細菌、および鉱毒由来の重金属反応あり。 呪いじゃない。ただの『複合汚染水中毒』だ」
エルゼは呆れ果てて、肩をすくめた。 原因は明白だ。この村の水源、おそらく井戸か地下水脈が、何らかの原因で汚染されている。 それを治療と称して、さらに汚染された水を「清めて」飲ませているのだから、治るはずがない。 これは医療ではない。緩やかな集団自殺だ。
「マッチポンプですらない。 自分でガソリンをかぶって、火の粉を払っているようなものだ。 ……滑稽すぎて、怒りを通り越して呆れるな」
その時だった。 最前列で煙を浴びていた老人の一人が、激しく咳き込み、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。 口から泡を吹き、手足を痙攣させる様は、明らかに中毒症状の悪化だ。
「じ、爺ちゃん!?」 「大変だ! 容体が急変したぞ!」 「司祭様! 精霊様の怒りが鎮まらないのですか!?」
村人たちがパニックになり、祈祷師に詰め寄る。 踊りを中断された祈祷師は、焦りの色を浮かべ、視線をキョロキョロと彷徨わせた。 自分の儀式が効かない理由、その責任を転嫁できる都合のいい「生贄」を探すように。
そして、彼の血走った目が、広場の隅に立つ二人の影―― いや、フードの下から覗く赤い髪の少女を捉えた。
「……貴様か! 貴様が戻ってきたからだ! 呪われた『忌み子』アリア!」
祈祷師が枯れ木のような指でアリアを指差した瞬間、広場の空気が一変した。 縋るような視線が、一斉に憎悪の刃となってアリアに向く。 恐怖の対象を見つけた群集心理は、乾いた藁に火がついたように爆発的だ。
「そうだ……あいつだ!」 「あいつが村に穢れを持ち込んだんだ!」 「出て行け! 人殺し! お前さえいなければ!」
石ころが一つ、飛んでくる。 それはアリアの足元に転がり、乾いた音を立てた。 アリアは悲鳴を上げることもできず、ガタガタと震えてその場にうずくまる。
「ち、違います……私は……ただ……」
「黙れ! この悪魔め! 今すぐその娘を捕らえろ! 火あぶりにして、精霊様の怒りを鎮めるのだ!」
祈祷師の扇動を受け、男たちが農具やこん棒を手に、殺気立ってじりじりと歩み寄ってくる。 アリアは絶望に瞳を揺らし、自分の運命を受け入れようと目を閉じた。 いつものことだ。私は呪われている。誰かを不幸にする存在なんだ、と。 諦めかけたその時、頭上から冷徹で、絶対的な「命令」の声が降ってきた。
「――うるさい。 少し静かにしてくれないか。 思考のノイズになる」
アリアの前に、白衣を翻して一人の科学者が立ちはだかっていた。 エルゼは飛んできた二つ目の石を、計算し尽くされた最小限の動きで避ける。 そして、殺気立つ男たちを、まるで汚れた実験器具を見るような、感情のない瞳で見下ろした。
「な、なんだ貴様は! その娘の仲間か!?」 「余所者は引っ込んでろ! 怪我したくなかったらな!」
興奮した男の一人が、エルゼの胸ぐらを掴もうと粗暴に手を伸ばす。 エルゼは表情一つ変えず、その手首を軽く掴んだ。 次の瞬間、彼女はてこの原理と重心移動を利用し、男の巨体を軽々と宙に舞わせた。
ドシャッ、という鈍い音と共に、男が地面に叩きつけられ、悲鳴を上げて転げ回る。
「グアアアッ!? 腕が、腕がぁ!」
「関節の可動域を少し超えただけだ。折れてはいない。 力学の前では、筋肉量など単なる質量係数に過ぎない」
エルゼは男をゴミのように突き放し、白衣の埃を払う。 その態度は、暴徒に囲まれているとは思えないほど堂々としていた。 彼女は呆然とする村人たちを無視し、祈祷師の方へ、一歩、また一歩と歩み寄る。
「な、何をわけのわからないことを……! 神聖な儀式を邪魔する気か! 精霊の罰が下るぞ!」
「罰? いいや、これから行うのは事実確認だ。 お前が『聖水』と呼ぶその泥水が、彼らを殺している主原因だと言っている。 pH値異常、大腸菌群陽性、重金属汚染……。 これを飲ませるのは、治療ではなく大量殺人だ」
エルゼの声は決して大きくはない。 だが、よく通るその凛とした響きは、広場の喧騒を切り裂いて村人たちの耳に届いた。 彼女が提示する「未知の言葉」の羅列は、どんな呪文よりも恐ろしく、奇妙な説得力を持って響く。
「で、デタラメを言うな! これは古来より伝わる秘儀だ! 貴様ごときに何がわかる!」
祈祷師は顔を真っ赤にして、杖を振り回す。 だが、エルゼは一歩も退かない。 彼女は足元の土に、落ちていた木の枝でさらさらと化学式を描き始めた。
「わからないなら、証明すればいい。 論より証拠。信仰より実験だ。 ……アリア、立てるか? 手伝え」
不意に名前を呼ばれ、アリアは弾かれたように顔を上げた。 エルゼは振り返りもせず、背中で彼女に語りかける。 それは、守られるだけの庇護対象としてではなく、助手としての命令だった。
「そこの空の樽と、焚き火の消し炭、川原の砂利、あと清潔な布切れを持ってこい。 5分で終わらせる。 ……この無知蒙昧な原始的なショーに、科学という名の終止符を打ってやる」
アリアの瞳に、微かな光が宿る。 この人は、祈らない。神に頼らない。 ただ、自分の知識と手だけで、この絶望的な状況を覆そうとしている。 その背中が、アリアにはどんな教会の神像よりも、眩しく輝いて見えた。
「……は、はいっ! エルゼ様!」
アリアがよろめきながらも駆け出すのと同時に、エルゼは不敵な笑みを浮かべて祈祷師を見据えた。 その瞳は、新しい実験を前にした科学者の、残酷で純粋な喜びに満ちていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
エルゼにかかれば、筋肉自慢の男もただの「質量」に過ぎません。 口先だけでなく、物理的にも強い科学者……頼もしいですね。
さて、次回はいよいよエルゼによる「奇跡の再現(ただの科学実験)」です。 祈祷師の立場はどうなってしまうのか、お楽しみに。
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