最初の食事
洞窟の静けさが戻った。
足元――いや、体の横には、さっきまで牙をむいていたネズミの体が横たわっている。
その毛並みは、洞窟の苔の緑を反射して鈍く光っていた。
俺はしばらく動けなかった。
自分がこの小さな命を奪ったという事実が、じわりと胸の奥に広がっていく。
ほんの数時間前まで、俺は普通の人間だった。
仕事帰りにコーヒーを片手に持ち、今日の残業を愚痴っていたはずだ。
それが今――漆黒と白銀の体を持つ蛇として、洞窟の中で獲物を締め上げている。
「……食べるのか?」
思わず声に出してしまう。
もちろん、ネズミは答えない。
代わりに、空腹だけが静かに主張を続けていた。
体の奥に、じんわりと広がる空洞のような感覚。
さっき卵の殻を食べたときの比じゃない。
これを食べるかどうかで、俺の“生きる”が決まる――そんな直感があった。
人間だったころの価値観が、頭の片隅で抵抗する。
「ネズミを生で? しかも丸呑み?」
しかし、蛇の体は違う反応を示していた。
匂いをかぎ取った瞬間、喉の奥が勝手に動き、舌の先が獲物を探すように揺れる。
その動きに、自分の意志が引きずられていく感覚があった。
俺は一度だけ深く息を吐き――いや、蛇に“息”なんてあるのか?――覚悟を決めた。
頭をゆっくりとネズミに近づけ、鋭い歯をその柔らかな体に立てる。
口内に広がる、まだ温かい血の鉄の味。
思わず眉をひそめそうになるが、眉はもうない。
体の奥のどこかが「これだ」と言っていた。
その声に従って、俺は顎を外すように口を開き、ネズミの頭を咥え込んだ。
驚くほどスムーズに、相手の体が喉へと滑り込んでいく。
人間のころの記憶が「やめろ」と叫ぶが、蛇の筋肉は正直だった。
「……飲み込めるのか、これ?」
そんな不安も一瞬で吹き飛んだ。
咽喉の奥が大きく開き、ゆっくりと獲物を取り込む。
毛の感触、骨の硬さ、肉の温もり――すべてが喉を通過していく。
時間がゆっくりと伸び、ただ「食う」ことだけに世界が集中していた。
すべてを飲み込んだとき、俺はしばらくその場に横たわった。
体の中で何かが重く沈み、じんわりと温かさが広がっていく。
それは卵の殻を食べたときとは比べ物にならない充足感だった。
……生きていくために必要なものを得た、そんな確かな実感。
「これが――蛇としての、最初の食事か」
ぽつりとつぶやいた hiss 音が、洞窟の天井に柔らかく反響した。
俺はその音を聞きながら、ようやく少しだけ、この体を受け入れ始めている自分に気づいた。