その1
あの日見上げたのは、確か鉛色の空だったが――
何の感慨も無いといえば、嘘になる。
気の遠くなるほど昔から居座り続けた森の外を出て、開けた野原で見上げた空は真っ青だった。
乾燥した風が頬を掠める。耳元の髪の毛と草原の草がそれに揺れて、しゃらしゃらカサカサ鳴った。
少しの間だけ目を閉じる。それが不思議だったのか、隣の彼が問う。
「何十年ぶりの娑婆は、どう?」
「正確には何百年ぶりなんだけどね」
ふ~っと大きく息を吐いて答える。目はまだ開けない。
「うーん。このあたりの空気の匂いって、こんなだったかしら?」
「そりゃ何百年も経てば、少しは違うんじゃない? 魔女のおばあさん」
「……次にその呼び方したら、氷漬にしてここに放ったらかしにして、森に戻っちゃうわよ」
「スミマセンデシタ」
彼がくすくすと笑う気配がしたので、ゆっくりと目を開いてみた。何百年も昔の草原の匂いは結局思い出せなかったが、今の草原の匂いは気持ちが良い。
ぐぐぐっと縮こまっていた背筋を伸ばして、大きく欠伸をして気合を入れなおす。
「さーて、そんじゃ勇者殿、魔王退治に行きますか!」
「お願いしますよ~キレイな魔女のお姉さん」
「だから魔女じゃないっつーのに」
――――――
「サイハテの森」の中に『魔女』が棲んでいる。
それは、その街にもう何百年と語り継がれていた伝承だった。
鬱蒼と生い茂る森は昼間でも薄暗い。遊歩道らしき道もあるにはあったが、それは森から数十メートル程度までしか伸びていない。
いや、実際には伸びてはいた、が、誰も先へと行くものが無かったために荒れ果て、潰えていた。
『魔女』がいつから棲んでいるのかは誰も知らない。だが、彼女がそこに棲み始める前のこの森は明るく、豊かな実りを街にもたらしていたという。
古き民たちはその森で祭りを行い、収穫を祝い神を奉っていたが、『魔女』が棲み始めたことから森は淀み暗くなり、魔物の生息する「サイハテの森」――最果ての森になってしまった。
人々は幾度と無く、魔女退治へと繰り出した。折りしもその当時、『魔女狩り』の盛んな時期で(今でこそ『魔法使い』は重宝されている世の中だが)国を挙げて「サイハテの森」には騎士たちが送り込まれた。
そのたびに返り討ちにされ、森の入り口には大量の騎士たちの屍が投げ打たれていたという。
やがて、人々は森を取り戻すことを諦めた。誰一人として森に近づくものはなくなった。
そして今に至るまで、他国との戦争や革命、魔法使いたちによる反乱など様々なことが起こり――
「人間って都合よく歴史を改ざんしちゃうからキライ」
大きな耳を機嫌悪く下に垂れさせて、『魔女』殿のたまった。
「そもそもあの森はね、人間たちが木を切り倒すわ~動植物を乱獲するわ~で、私が来る前はそれはそれは貧相な森だったのよ」
皺一つ無い、つるっつるの肌を軽く高潮させつつ、鼻息荒く。右手の人差し指を立てて振りながら、講釈は続いた。
「たまたま『魔女狩り』やら何やら色々あって、その森に追い込まれた『ちょっと魔力の強い平凡な長寿エルフ』だった私は、そこにあった古い小屋に立てこもって騎士たちの追撃をかわしたけど、別に殺したりなんかはしてないわよ」
ちょ~っと魂もらっただけで、と冗談なんぞを言ってみるが、隣の『勇者』殿が思いっきり引く気配を感じて軽く肩をすくめて見せる。
「ま、それは冗談なんだけどね。で、流石に人間たちも私に恐れをなしたのか森に来なくなって。や~っと森が元の状態に再生してきたな~と思ったら、やけに魔物が増えてきちゃったのよね」
聴けば『魔王』が代替わりして、『三者の均衡』が崩れたって言うじゃない。
私には正直どうでも良かったんだけど。ていうか、何で私が、私を虐げてきた人間のために『魔王』と戦わなきゃいけないのよ。
(もし私のところに来たのがアナタじゃ無かったら、絶対に森なんか出なかったのに。)
ぶつくさぶつくさ言う『魔女』殿に、正直ツッコみたい『勇者』殿――ルイエ・マクガルデは、気づかれないようにため息を一つ。
まず、「ちょっと魔力が強い」というのは嘘だ。「ちょっと」どころではない。下手をすれば、世界を壊滅させてしまうほどの力を持っている。
次に、「平凡な長寿エルフ」というのも語弊がある。ちょっとどころではない魔力を有してる時点で、全然平凡ではない。
そしてそもそも「長寿エルフ」という種族自体、現在ではその存在が確認されていない――
と、森を出る前に本人に問い質したところ、「昔は集落をなすくらいには大勢いたのよ」と返された。
もしかしたら、今もこっそりと生きているのかも知れない。
彼女の言葉の中には正直、意味の分からない言葉もあった。
『魔王』の代替わりとか、『三者の均衡』とか。
彼女自身が何を考えているのかも正直よく分からない。何とか説き伏せて森から出て助力してもらえることすら、奇跡のようなもので。
しかし、ルイエにとってそんなことは些細でどうでも良いことだった。
(今自分がすべきことは、この『魔女』の助力を得て、父と妹の仇――『魔王』を倒すことなのだから。)
隣で、エルフ特有の腰まである銀色の髪をいじくっている『魔女』――ルカ・フォルトを見る。
ぞっとするほど整った無表情。髪と同じ色の切の長い目は伏せられていて、何やら思案に暮れている。
ルカはこちらの視線に気がつくと、まっすぐと目を合わせた上でニッコリと笑った。
「ま、仕方ないから少しの間だけアナタに利用されてあげるわ。隠してはいるようだけど、その荒んだ心根には多少同情の余地もあるし」
お見通しとはオソロシイ。さすがは伝説の『魔女』のおばあさん、とは心の中だけに留めておくことにした。
氷漬の放置プレイなんてのはゴメンである。