人魚という名の魔女
僕の趣味は水族館を周ること。お気に入りの水族館があって、週に一度から三度は通っている。土日だと子どもが多くて混雑するから平日にくる。仕事はしていないのかって? あいにく僕は大学生で、授業を最低限出席したら、実は暇人だったりする。その暇をバイトに使うのか友だち付き合いに費やすのか、あるいは恋人とのいちゃこらで潰すのかは個人の自由だ。
タチバナの勝手でしょー、なんてね。
僕が水族館に通う一番の理由は、クラゲに癒されたいから。
毒があるとか、そんなことはガラスの向こうのことだから、僕には関係ない。海に行って本物のクラゲを見る勇気もない。水族館で暗い照明の下で雰囲気がある中、僕とクラゲだけの世界を堪能できれば、それでいい。僕はそのために生きているんだ、今は。
水族館通いを見かねた幼馴染が、僕の誕生日プレゼントに年間パスをくれた。購入日から一年間、年間パスを提示すれば、入館料が一割で済む。年間パスのかわいらしいラミネートカードには僕の名前が丸っこい字で書かれていた。これはプレゼントしてくれた幼馴染が書いた文字。ありがたいけれど、可愛らしい文字だから、まるで女子中学生のもののようだ。
クジラのカードホルダー(これも幼馴染が年間パスと一緒にプレゼントしてくれた。これなら失くさないでしょ、だと)に入れたままの、年間パスを受付で提示する。そしてワンコインの入館料を支払い、僕は鼻歌交じりで館内を真っすぐに歩いて行った。
今の僕にはイワシの群れもペンギンたちの泳ぎも興味ない。ただクラゲに会いたいだけ。そう思って歩いていたら、ひとりのお姉さんとすれ違った。
「あ、紙谷さん。こんにちは」
「タチバナくん、こんにちは」
おっとりとした紙谷さんは、僕の方に小さく手をかかげて近づいてきた。
「紙谷さん、今日は紙芝居の方ですか?」
「ええ。幼稚園の遠足が午前中にあって、そのために今日は呼ばれたの」
紙谷さんは、この水族館の資料室で働いている職員で、同時に子どもたち向けの紙芝居を不定期開催している、紙芝居のお姉さんでもあった。僕も二、三度、紙谷さんの紙芝居を見たことがあるけれど、まるで舞台を見ているようにステキだった。大げさだって思われるかもしれないけれど、紙谷さんの紙芝居は一つの舞台作品と同じぐらい価値があっておすすめだ。別に音響があるとか、照明をいじっているとか、そういうことはしていない。
水族館内の小さな図書室で、くつを脱いで上がる子ども用のスペースで、少ないときは四、五人の子ども、多いと二十人ぐらいの子どもに囲まれた紙谷さんが、よく通るその声で紙芝居を読む。ここが水族館だからか、読むお話はどれも海や川が出てくるお話。桃太郎とか人魚姫。他にも浦島太郎などを読むのだという。
「タチバナくん、今日もクラゲさんだけ見て、帰るの?」
「ええ、まあそのつもりですけど」
「閉館までいる?」
「はい、別にこのあと予定はないので」
「なら、新作の紙芝居を見に来てくれない?」
「新作、ですか?」
「ええ、新作」
紙谷さんはそれ以上言わないで、僕の返事を待っていた。
「あー、じゃあ、ぜひ」
僕が「いきます、よろしくお願いします」と答えると、紙谷さんは両手を顔の前でうれしそうに合わせた。
「うれしい。じゃあ、四時に図書室へ来てちょうだい」
「はい」
僕はうで時計を確認する。今は二時半、一時間ちょっとクラゲを見たら、図書室に行こう――そう思ってふと顔を上げると、もう紙谷さんのすがたは無くなっていた。
気づけば四時五分前になっていた。クラゲスペースを離れた僕は、駆け足で図書室へ向かった。息を切らして図書室に入れば、紙谷さんがテーブルに突っ伏して僕を待っていた。うつろながら目は開いていた。
「すみません、待たせてしまって」
「いいの、待つのは慣れているから」
紙谷さんは長い髪を背中に流すと、トートバッグから紙芝居を取り出した。
「人魚という名の魔女」
僕は正面のイスに座って、その紙芝居を見ていた。
むかしむかし、人魚という魔女がいて、好きな人間の男の人がいたけれど、魔法で自分のことを好きになってもらおうとしていた。でもすんでのところで思い直して、素直に自分の気持ちをぶつけたけれど、男は人間ではない魔女を拒絶した。海底のすみかに沈んで引きこもってしまった魔女をみかねた、魔女の姉が、男を真珠貝に変えてしまう。男は後悔の涙をこぼすごとに真珠を生みだし、魔女に奉納しているのだ、と……。
「どう?」
「どう、と言われましても……」
僕は曖昧な笑顔を浮かべた。
「怖いなあ、って」
「あら、そう?」
紙谷さんは意外そうな顔を見せた。僕はなんと答えようか考えつつ話した。
「だって、ふり向いてもらえなかったから、男を真珠貝にしちゃうって。男は何もしていないのに、残酷じゃないですか?」
「自ら人魚と出会い、人魚をたぶらかしたのよ」
「そうなんですか?」
「……そうか、そこのところをもっと書いた方が良かったわね。男のひどさが伝わらないってことが分かったわ」
紙谷さんは胸ポケットにしまっているボールペンを取り出して、メモ帳に何かを書く。
「ありがとう。はじめての手作り紙芝居だったけど、反応が見れてよかった」
「あ、新作ってそういう意味だったんですね! 手作りってすごいなあ」
紙芝居の絵の出来とか、物語とか、そういうことに疎い僕は思わず拍手した。紙谷さんは照れもせずに「そうかしら?」と答える。
「だって、人魚のことをこんなに想像力膨らませて書くなんて、すごいですよ」
「想像力……」
紙谷さんは不敵に笑った。その笑みに僕はヘラリと笑い返した。
「だってそうでしょう? ほら、この間だって人魚のミイラは作り物だってニュースでやってましたし」
「まあ、あれはナシよね。あからさまな作りものだもの」
「あれは? じゃあ、違う人魚もいる、とか? はは、紙谷さんったら意外と子どもっぽいんだから」
すると、閉館を知らせるアナウンスが流れ出した。紙谷さんは紙芝居をバッグにしまって立ち上がる。
「スタッフ専用の出入り口まで送るわ。もう一般ゲートは閉まってしまうから」
「あ、ありがとうございます」
僕は紙谷さんに並んで歩きだした。
「タチバナくんは、人魚はいない派?」
「いない派もなにも、人魚って存在がもう、ファンタジーでしょ?」
「あらあら、キミって意外とつまらない子ね。クラゲが好きなクセに」
「クラゲが好きなのと人魚を信じるかは、また別の話でしょ?」
「人魚はね、いるのよ」
図書室の鍵を閉めて、電気を消す。薄暗い廊下のなかで、紙谷さんの笑みはキレイだった。だからだろうか、怖い、とも思った。
「だれも見たことがないだけで、いないとは限らないんじゃない? 私はそう思っているのだけど」
「それを言ったら、UFOもUMAも妖怪も、なんでもアリになりますね」
「全部が全部、ウソだとも思えないのよ、私は」
紙谷さんは館内スタッフ用の重たい出入り口扉を開けようとした。急いで僕がその扉を押し開ける。
「ありがとう……ところで私、いくつに見える?」
「え?」
重たい扉を必死に支えていた非力な僕は、とても間抜けな顔をしていたと思う。
「……こっちからまっすぐに歩けば、バス通りよ。それじゃあ、また」
紙谷さんはそう言って、うす暗い館内のどこかへと消えていった。まだ仕事があるのだろうか? 僕は言われた通りにバス通りへ出て、停留所でバスを待ちながらふと紙谷さんの年齢を考えていた。年上には見えるけど、二十四とか二十五ぐらいかな、と思う。
僕はスマホを取り出した。バスの時刻を確認してから、ふと気になって人魚のこと調べ出した。すると人魚の肉を食べた八百比丘尼という伝説がヒットした。他にも、海底・海中は地上と時の流れがちがう、とか。だから人魚は人間より長寿だ、とか。
年齢不詳な紙谷さんが、実は人魚だった――と、あの人は僕に思わせたかったのかな? なんて思うと、僕は「まさかね」とつぶやいて首を横に振った。紙谷さんは意外とおちゃめなんだな。ヘラッと笑っていると、遠くからバスのライトが僕を照らしていた。