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空中遊泳


 大学一年生のときの僕は、とても真面目だったと思う。レポートもちゃんと出していたし、授業を欠席したことさえなかった。なのに、二年生になってゴールデンウイーク明け、めずらしく風邪をひいて三日立て続けに授業を休んだのを境に、本当に好きな科目にしか出席しなくなってしまった。じゃあ、何をしているのかと言えば、大学の中にある広場でぼんやりと空を見上げていることだった。

 僕の横を駆け抜けていく男子学生がいた。その男子学生は「あれ?」とふり返ると、いそいそと戻ってきて僕の顔をのぞきこんだ。

「やっぱり、タチバナじゃん。なに、今日もサボり?」

「一限は出たよ」

「そう? でももう、昼休み終わるよ?」

「知ってる」

 僕はちらっと彼を一瞥するだけで、また空を見上げてぼおっとしていた。彼も呆れたように「じゃあな」とため息まじりに告げると、リュックを背負いなおして駆けていってしまった。彼の名前は――なんだっけ?

 僕は目をこする。そして上半身を起こして少しだけ周囲を見回してみた。だれもいない。そりゃそうだ、今は午後の授業がはじまったばかりなのだから。サボっている僕のような人間以外、この辺にはいないだろう。

 まくら代わりにしていたカバンからシャボン玉を取り出した。百円ショップとかで買える、普通のシャボン玉液と、それにストロー。ストローをシャボン玉液に浸して、ふーっと息を吐く。僕の息が泡になって宙に浮いていく。青空に向かって飛んでいくのもあれば、すぐにパチンと割れていくのもある。キレイだとか儚いだとか表現のしようがあるのだろうけど、僕にはそうは思えなかった。ただ、うらやましいな、と。羽もないのに空を飛べるのが――宙を舞えるのが、うらやましいな、と。

「あー、水族館いきたいな」

 大学をサボるようになってからバイトもやめてしまった僕は、現在、結構な金欠だ。お昼代をケチっておにぎり一個や二個で済ませてでも、水族館にひんぱんに通っていたから。

「でも、今日は休館日……」

 生きものたちのお引っ越しがあるとかないとか。だから今日は、いつも行く水族館には行けない。となりの市にも水族館はあるけれど、小さいのに高くて、金欠マンの僕には手が出ない。なにより、行きつけの水族館にはクラゲの館、というのがあるけれど、となりの市の水族館は幅数メートルのひとコーナー分しかクラゲはいない。クラゲを見るのが目的の僕には、行っても仕方がなかった。

 シャボン玉は風に揺られて右往左往している。流されるままのシャボン玉すら、僕にはうらやましい。

 まくら代わりにしていたカバンからシャボン玉を取り出した。百円ショップとかで買える、普通のシャボン玉液と、それにストロー。ストローをシャボン玉液に浸して、ふーっと息を吐く。僕の息が泡になって宙に浮いていく。青空に向かって飛んでいくのもあれば、すぐにパチンと割れていくのもある。キレイだとか儚いだとか表現のしようがあるのだろうけど、僕にはそうは思えなかった。ただ、うらやましいな、と。羽もないのに空を飛べるのが――宙を舞えるのが、うらやましいな、と。

「あー、水族館いきたいな」

 大学をサボるようになってからバイトもやめてしまった僕は、現在、結構な金欠だ。お昼代をケチっておにぎり一個や二個で済ませてでも、水族館にひんぱんに通っていたから。

「でも、今日は休館日……」

 生きものたちのお引っ越しがあるとかないとか。だから今日は、いつも行く水族館には行けない。となりの市にも水族館はあるけれど、小さいのに高くて、金欠マンの僕には手が出ない。なにより、行きつけの水族館にはクラゲの館、というのがあるけれど、となりの市の水族館は幅数メートルのひとコーナー分しかクラゲはいない。クラゲを見るのが目的の僕には、行っても仕方がなかった。

 シャボン玉は風に揺られて右往左往している。流されるままのシャボン玉すら、僕にはうらやましい。


「あれ、タチバナじゃん」

 今日はよく声を掛けられる日だ。うつろな目で声の主を見上げる。女学生……顔に見覚えはあるけれど、名前がパッと浮かばない。

「どなたですか」

「殴るぞ」

「あ……」

 殴られる前に思いだした。

「シャチ」

「サチだって! もう、このやり取り四回目なんだけど?」

「だってシャチと会うのは、いつも何年ぶり? って時だし」

「でも、前回会った時から一年も経ってないぞ?」

 トートバックを肩に掛け、ピタッとしたジーンズに踵の高いサンダル。ショートヘアーの女学生。ツリ目でにらむように僕を見るけれど、それは彼女の視力が悪いからだった、とやっと思いだすころ、シャチはおもむろに僕の横に座った。

「シャボン玉とかなつっ。ってか、むしろやったことないかも」

「じゃあ、やる?」

「やる!」

 シャチ用にもう一本ストローを出そうとカバンを開けている間にも、彼女はシャボン玉を僕の手からひったくって、シャボン玉を吹いていた。

「さすがアメリカ育ちは……」

「うん? どういう意味?」

 僕は新しいストローを指先で弄りながら「気にしないで」と首を横に振った。

 シャチは僕の幼稚園の同級生だった。小学校に上がるときに家族でアメリカへ渡り、高校卒業と同時にこっちへ戻ってきたらしい。僕はすっかり彼女のことを忘れていたけれど、彼女は僕のことを覚えていた、と再会したときに言っていた。なぜ? 僕が他人だったら〈タチバナ〉なんて陰気で存在感のない男、忘れてそうだけど。

「シャチもサボり?」

「そうだよ。タチバナがサボってるって、オオタキに聞いたから」

「あー、あいつ、オオタキって名前だったなあ」

「タチバナは本当に他人に興味がないんだな」

 シャチが笑いながらそう言うから、僕もつられて笑った。

「笑いごとじゃないだろーが」

 笑いごとじゃない――そんな時ほど僕は顔がニヤケてしまう。それで何度イヤな目にあったことか。

「ま、そこがタチバナらしいってことなんだろうけどさ」

 シャチはシャボン玉を僕に返した。

「水族館に通ってるんだろ? なにを見てんの」

「クラゲ」

「へえ……っていうか、やっぱりっていうか」

「そう?」

「タチバナ、なんていうか、やっと自由になったんだな」

「自由?」

 どういう意味? と僕は問い返すけど、シャチは「別に……」とめずらしく濁した。

「行きつけの水族館に、シャチっている?」

「いたかなあ」

「覚えてないのかよ」

 シャチは笑ってスマホを取り出した。画面にカレンダーが映し出される。

「来週の月曜も水族館行く?」

「行くけど」

「じゃあ、私にクラゲの魅力を教えてよ」

 シャチは僕の答えも聞かずに、来週の月曜日のところに「タチバナ」「水族館」と入力した。

「え、でも金欠で今、週三しか行ってなくて」

「それぐらいおごってあげよう、この私が」

「シャチって実は良いヤツ?」

「今さら?」

 シャチは僕のカバンからのぞいていた筆箱を奪うと、中から油性マーカーを抜き取った。何をするんだろうとぼんやりしているうちに、シャチは僕の左うでを強く掴んだ。

「十七日、午後二時、ここで集合。水族館までの案内ぐらいはしろよな」

 シャチは一言一句違わず、今の言葉を僕のうでに書いていった。油性マーカーで。

「え、これ消えなくない? 長袖まだ押入れの奥で眠ってるんだけど」

「タトゥーだと思って」

 シャチは笑いをこらえるように立ち上がると、油性マーカーを放り投げた。僕は慌ててキャッチする。

「じゃ、またな。授業もちゃんと出ないと、留年するぞ」

 彼女はそう言って手を振りながら去っていった。僕はアホみたいに口をポカンと開けて、彼女の後ろすがたを見えなくなるまで見送った。

「え、水族館にシャチといくの? ウソだろ……」

 水族館に癒されに行くはずが、これでは疲れに行くだけになってしまう。でも、おごってもらえるのはうれしい。うれしいと憂う気持ちとがせめぎ合う。

「とにかく、このうでをなんとかしたい……」

 僕はうでの黒々とした文字を指でこすってみた。すこし滲んだかもしれない。気のせいかもしれない。まさか太い方のペン先で書かれるとは。金欠になってからシャワーで済ませるようになったけれど、これは湯船に浸かってお湯で落とさないといけないかもしれない。

「はあ。もう今日は帰ろう」

 僕はそう言ってもう一度だけシャボン玉を吹いた。気持ちを吐き出すように強く。細かいシャボン玉がブワワワと空へ向かって上がっていった。

「ま、どうでもいいか」

 シャボン玉液のふたを閉めてから、ストローを見て、僕は小さく「あっ」とつぶやいてしまった。シャチの使ったストローを替えないで使ってしまった。

 僕は慌てて校内のゴミ捨て場を探してシャボン玉液ごとストローを捨てた。

「ったく。これだから夏はキライだ」

 頭が熱い気がする。これはつまんない授業でも出て、頭を冷やそう。

 この後、オオタキに再会して指摘されるまで、うでのタトゥーのことは忘れていた。


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