電話練習
「も、もし、も、もしもし……」
鏡に向かって言ってみた。相手が自分なのに、もう緊張している。ぎこちない自分の顔が冷汗を流しながら口を開いているのが、まるでバカみたいだった。手の中の小さな紙切れも、手汗でじんわり湿っている、
私は今、春の休暇で祖母の家に来ていた。実家からだいぶ離れた田舎町。その町のさらに奥でひっそりと建つ洋館に、私はいる。
家族以外誰にも内緒で来ていたのに、お母さんったら、実家に訪ねてきた人に「今、あの子はおばあちゃんの家なのよ」って教えたあげく、ここの電話番号を教えたんだそう。それを知らせる電報を打ってきて、訪ねてきた人の名前と電話番号を私にも教えてきたんだ。
〈ジェニファー・アンダーソン 123‐0567……〉
その電報が私の手汗でぐっしょりヨレヨレしている。
ジェニファー・アンダーソンは同じ学校で一学年上の、演劇部の先輩だった。私は室内楽部にいるから、本来なら関わりがなかった。なのに、この冬、演劇部が室内楽部に演奏を依頼してきたことをきっかけに、交流を持つようになってしまった。
ジェニファーはそばかすの多い男の子で、明るくてちょっとおっちょこちょいな人だった。でも、華のある演技をやらせたら一番だった。だから、みんなそばかすのことや運動音痴のことは気にしないで、ジェニファーにちょっかいを出す。男の子も女の子も。
でも、私はそんなことしなかった。ジェニファーに興味がなかったから。
けれど、ジェニファーはそう思っていないのか、たびたび私に話しかけてきた。
「今の演奏、良かったよ!」とか。
「このシーンにこんな音楽を入れて欲しいかもしれない」とか。
私は室内楽部の副部長であって、部長じゃない。そういうのは部長に言って、と返すけれど、そのたびに「だってローズは話しやすいから」って答えるのよ。だから最近、部長のメアリーはちょっと不機嫌気味。私へのあたりもキツくなってきた。
勘弁してよ。私は関係ないわ。ことなかれ主義なのに、ジェニファーは気づいているのかいないのか、私に相変わらず声をかけてくる。演劇部と室内楽部のコラボショーも無事に終わったというのに。
春の休暇前も、ジェニファーは私に言った。
「一緒にどこか出かけない? そろそろバラが咲くころだし、一緒に」
私の名前がローズだから? 安直よ。ごめんだわ――とは言わなかったけれど、丁重にお断りした。ジェニファーはそれでも、めげずに私の家に遊びに行きたいと言った。だから「春の休暇中はおでかけなの」と言って、その場を走って去った。翌日から春の休暇がはじまって、私は朝いちで祖母の住むこの町まで汽車でやってきたのだった。
祖母は花の手入れが好きな人だった。一年中、いろんな花を咲かせている。この時期はバラが庭一面に咲いている。私はこの洋館でこの時期に生まれた。だからローズと名付けられたらしい。
「ローズ。電話は済んだのかい?」
つえを突いた祖母が、メイドを連れて私の部屋にやってきた。
「いえ……ええ、終わったわ」
私はスカートのポケットに電報をしまって、笑顔を見せた。
「なら、一緒にお茶でも飲むかい?」
「よろこんで」
メイドは静かに祖母をテーブルにつかせると、お茶を淹れ、部屋を出ていった。
「電報はあの子から?」
「お母さまからよ」
「何かあったのかい?」
「ちょっと、その、私の友だちの来訪があったらしくて」
「ボーイフレンドかい?」
私は思わずティーカップを滑らせてしまった。わずかに紅茶がソーサーにこぼれた。けれど祖母は気づかないようすで紅茶を飲んでいる。
「ち、ちがうわ。友だちよ、友だち」
「そう」
ぎこちない時間がゆっくりと流れていく。時計の針がカチッカチッと音を響かせている。
「ローズは父親似だね」
「え? お父さまに?」
「あの子ほど……お母さんほどおしゃべりじゃないってことさ」
「そうね。お母さんぐらいおしゃべりじゃなくて、良かったとも思っているけれど」
「そうだねえ。あの子はおしゃべりすぎるぐらいだよねえ」
ようやく私と祖母の間に笑顔が浮かんだ。
チリチリチリ――。
電話が鳴った。部屋のそばで控えていたメイドが先に電話に出た。そして数度うなずくと私の方を見た。ドキリと心臓が飛んだ。
「ローズさまにお電話です。アンダーソンさまから」
私は慌てて電話に飛びついた。
「も、もしもし」
〈やあ、ローズかい?〉
私は目をグルグルさせながら「はいっ」と勢いよく返事をしてしまった。
〈今、大丈夫?〉
「だ、だいじょうぶ……」
ちらりと祖母の方に目を向けると、何かを察したのか、メイドを連れて部屋を出ていってくれた。私は小さく息を吐くと、電話の受話器をギュッと握りしめた。
「お母さまから電報が届きました。家に来たって……」
〈ごめんね、キミのところの部長に、住所を教えてもらったんだ〉
ああ、休暇明け、部長が私のことを無視しませんように――と心の中で祈った。
「いきなり訪ねるなんて、失礼ですわ」
〈あはは、ごめんごめん〉
全然、あやまっているようには思えない。なのに、憎めないのがジェニファーの良いところなのかもしれない……いや、そんなことを考えている場合ではない。
「ご用はなあに?」
〈いつごろこっちに戻って来るのかなって〉
私はフフッと余裕の笑みをこぼした。
「休暇最終日までここにいる予定ですわ」
〈そっか〉
心なし残念そうなジェニファーの返答に胸が痛むが、気にしない。
「それでは――」
〈じゃあ、そっちの住所を教えてくれないか〉
「はあ?」
思わず本音が漏れてしまい、笑みも引いた。私は耳を疑って、ジェニファーに尋ねた。
「もしかして、こちらに来るつもり?」
〈迷惑ならその日のうちに帰るよ〉
「迷惑……」
迷惑ではない、と言いかけて、いや、迷惑じゃないか、と思い直した。しかし、私の口はジェニファーを拒む言葉を告げなかった。
「……部屋ならありますから、一泊ぐらいならどうぞ」
素っ気なくも、そう答えるのが精一杯だった。
「汽車に乗ることになりますけど」
〈大丈夫さ。なんて駅?〉
私は最寄りの駅名を答えた。
〈それで、キミの住所は?〉
「住所をあてにすると、迷子になります。なので――駅を降りたら、町はずれの洋館に来てください」
〈町はずれ? すぐに分かるかな〉
「ええ、分かるはずよ」
私は窓から外を見た。庭中に広がるバラの花々。
「だって、こんなにバラが咲き誇っている洋館、ここだけだもの」
〈バラの洋館……そこに、ローズがいるんだね〉
私は急に恥ずかしくなった。慌てて「ええ、だから目立つから、その、すぐに分かると思うの」と取り繕った。そんな私のようすがまるで見えているかのように、彼はフフッと笑みをこぼすのが耳もとに聞こえてきた。
〈明後日の金曜日に行くつもりだ――会えるのが楽しみだな〉
彼の言葉が耳に反響している間に、電話の切れる音がした。私はそっと受話器を戻して、イスに腰かけた。冷めた紅茶をグイッと飲み干す。それでもまだ緊張が解けない。
「ローズ」
コンコンと叩く窓の向こうから、祖母が顔をのぞかせていた。私は急いで窓を開けた。
「一緒にバラの手入れをしないか」
私はすぐ「うん」とうなずいた。駆けだした私の鼓動は、まだまだ早かった。