佐伯君の第三世界
「やっぱり、僕は神様なんだ」
ホームルームが終わるなり、隣の席で変な事を呟く佐伯君。「何でそう思ったの」と尋ねるついでに横顔をそっと覗き見る。……気持ち悪い。佐伯君の横顔は口が突き出ていて魚みたいだ。
「だって、そうとしか考えられないじゃないか」
佐伯君がこっちを向いて、カエルみたいに不細工な顔になった。そのままじっと見つめていたら、少し目を逸らされる。やっと良い角度になって、嘘みたいにカッコいい佐伯君になった。頭がぼうっとして、胸がドキドキしてくる。……私はこの角度の佐伯君がずっと好きだった。少しだけ斜め横で、少しだけ俯いたこの角度。無邪気な子供っぽい瞳が物憂げに輝いていて、見えるか見えないかの鼻の穴が可愛らしくて、肉感のある唇が大人っぽい。長い髪も綺麗で、キリスト様のような高潔な雰囲気を漂わせている。この角度の佐伯君は本当に素敵だ。もしかしたら正面顔や横顔が好きじゃないからこそ、ギャップでこの角度の佐伯君が好きになったのかも知れない。浮かれ気分でずっと見つめていると、佐伯君が低い声でボソボソと呟く。
「同じクラスになってから……ずっと思ってたんだけど……」
「なに?」
「……小森さんは……よく……僕の事をじっと見ているよね」
「ごめん。嫌だった?」
「別に……そんな事はないけど……」
佐伯君が俯きすぎてエイリアンみたいに気持ち悪くなってしまった。カッコよくなくなってしまった。私はガッカリして中島さんのグループが鞄を手に集まっているのをぼんやり眺めていた。
「これではっきりした……やっぱり……僕は神様なんだ……」
「なんでそう思ったの?」
また目が合う。ずっと見つめ続ける。するとうまい具合に佐伯君が目を逸らしてくれて、顔が丁度いい角度になってくれた。良かった。このままもう二度と動かないで欲しい。
「あの……あっ……」
「なに?」
「す……好きな人と……」
「うん」
「好きな人と隣の席になりたいって願っていたら……それが本当になったんだ……だから……」
佐伯君、私の事を好きだったんだ。複雑な気持ち。今の角度の佐伯君に好かれているのは嬉しいけど、今の角度以外の佐伯君に好かれているのは正直気持ち悪い。
「……本当に……隣になれたんだ……だから僕は……僕はね……神様なんだ……」
「でもただの偶然かも知れないよ」
「証拠は……他にもある」
「なに?」
「見せるから……今日……ぼ……僕の家に……来てくれ……」
「いいけど」
佐伯君の家は古びた平屋で、ちょっとカビ臭かった。
「証拠は?」
「証拠……?」
「佐伯君が神様だっていう証拠」
「あ……ああ……ちょっと待ってて」
佐伯君が机の奥から取り出したのは青い大学ノートだった。
黒マジックの綺麗な字で「第三世界の書」と書いてある。
「これはね……僕だけの世界を形にしたものだよ……第三世界っていうんだ……」
「第三世界?」
「この世界が第一世界で、天国とか地獄とか呼ばれている世界が第二世界。そして……誰にも邪魔されない……僕と僕が認めた者だけが入れる理想世界が第三世界だ。この第三世界だけが真の世界なんだ」
「でも、第三世界って本当にあるの?」
「そもそもこの第一世界が本当にあるって確証はどこにある?」
「確証も何も……現にあるから、あるんじゃない?」
「ある筈が無いよ……こんな世界! こんな世界ある訳が無い! この世界は……間違っている! 何もかもが!」
「…………」
「どいつもこいつも馬鹿ばかりだ! この世界の奴らは……! 馬鹿の癖にこの僕を……馬鹿にしやがって……! 僕は神様なのに……! クソ馬鹿どもが……! ……死ぬ時に散々苦しみながら自分の馬鹿さ加減を思い知ればいいんだ! ……ああ……違うんだ小森さん! もちろん小森さんは馬鹿じゃないよ! 僕は小森さん以外の連中の事を言っているんだ!」
佐伯君の顔の角度が変だったら、鼻で笑っていたかもしれない。でも佐伯君の角度は完璧だった。
美しくてカッコイイ佐伯君が、たった一人ですごく苦しんでいる。可哀想。だから、もしかしたら、佐伯君は本当に神様なのかも知れない。そう思えたし、そう思いたかった。
「信じるよ。佐伯君は神様なんだね」
「……ありがとう! ……小森さん! ……ありがとう!」
感極まったらしい佐伯君が立ち上がったせいで、角度が最悪になってしまった。途端に嫌悪感が湧き上がってくる。醜い、怖い、気持ち悪い。しかも頭がおかしい。どうしてこんな人の家に来てしまったんだろう。
「止めて」
「えっ?」
「一回座って」
「うん」
「そのまま。あんまり動かないで」
「……え?」
「手はいいから。顔はそのまま。……そう。そのまま動かないで。信じるから動かないで」
「う……うん」
佐伯君は怪訝そうにしながらも、ちゃんとした角度になってくれた。
「そのまま動かないで。そのままでもっと教えて。佐伯君が神様だっていう証拠。信じるから」
「分かったよ……」
言葉を選んでいるのだろうか。眉を潜めたまま佐伯君の美貌が固まっている。時計の針が鳴り続けていた。
「……僕はね……山から下りない唯一の聖者なんだ」
「どういう事?」
「キリストもブッダも、確かに聖者かも知れない。……でも奴らはとんでもない過ちを犯してしまった……それが山から下りるって事なんだ。一人で神聖な山にずっと籠っていればいいのに、奴らは山を下りて愚民どもに教え諭す道を選んでしまった! 僕はそんな愚かな事はしない! あんな馬鹿ども、放っておけばいいんだ! 愚民は愚民のまま、愚民として干からびていけばいいんだ! 本当の神聖は誰にも知られたらいけないんだ! その点、僕は誰にも自分が神である事を明かす気はない! 山を下りるような馬鹿な事もしない! そしてこんな孤高に耐えられる人間は僕の他には誰も居ないんだ! それが僕が神である何よりの証拠だ!」
佐伯君と同じような事を考える人は他にもいそうだけど、私は黙っておくことにした。それより気になる事があった。
「私はいいの?」
「え?」
「誰にも自分が神様である事を言う気が無いんだよね」
「うん」
「私には言っていいの?」
「……いいんだ。小森さんは愚民どもとは違うからね」
私は他の人とどう違うんだろう。私はそんなに顔がいい訳でもないし、勉強もスポーツもできない。友達もほとんどいない。自分の事を特別だと思った事なんかない。
でも今の角度の佐伯君に熱い瞳を向けられていると、自分が特別な存在のような気がしてくる。こんなカッコいい人に好かれてるなんて、私は本当はものすごく可愛いのかもしれない。そう考えると、ニヤニヤしそうになってしまう。誤魔化す為に唇を結び直して青いノートに目を投げた。第三世界の書。この中に、佐伯君の本当の世界がある。
「このノートには何が書いてあるの?」
「この本には全てが書いてある。この世界において、この本だけが真実なんだ」
「このノートが第三世界なの?」
「違うよ、第三世界は僕の中にある。この本は……聖遺物みたいなものさ」
「読んでもいい?」
「……それは」
「読みたい」
「……それは……例え君でも駄目だ」
「何で?」
「駄目だ」
「もし佐伯君が死んだら、見せてくれる?」
「そうなったら見せたくても見せられないよ。神である僕が死んだらこの第一世界は即座に崩壊するからね」
「じゃあもし崩壊しなかったら読んでいい?」
「…………」
「どうしても読みたいの」
「……分かったよ。もし僕が死んでも世界が崩壊しなかったら、好きにすればいい。そんなことはあり得ないけどね」
私は佐伯君を殺す事にした。
「……ところで佐伯君。今日……親はいつ帰って来るの?」
「え……母はいなくて……父は……今……出張で」
「じゃあ、セックスしよっか」
「え?」
「セックスしよ」
「…………」
「私も佐伯君の事ずっと好きだったから」
「……小森さん!」
目を閉じると、佐伯君はすぐに獣になった。私はずっと目を閉じ続けていた。「小森さん! 小森さん! ……小森さん!」目を閉じて理想の角度の佐伯君を思い浮かべる。「やっぱり……僕は神なんだ……やっぱりだ……!」目を開けると、どこまでも醜悪な獣が映りそうで恐ろしかった。「小森さん……第三世界に行こう……! 二人で一緒に……! いつでも行けるんだ! もう何も恐れる事はないんだ……! これからはずっと二人きりだ……!」「里奈……好きだ……ずっとこうしていたかった……好きだ……好きだ……!」私はずっと、目をぎゅっと閉じていた。
……何時間もそうしていて、私はやっと目を開いた。佐伯君はベッドに素っ裸のまま丸まって、最悪の角度でぐっすり眠りこけている。私は幻滅しながらも制服を着直して道具を探していった。ガムテープとビニールひもとハサミ。起こさない様に気を付けながらビニールひもで手足を縛って、ガムテープを巻いて補強していく。最後に首にビニールひもを巻いて、背中側から思い切り締め付けた。佐伯君はすぐに目を覚まして、折り畳まれた手足でジタバタと痙攣していた。そんな仕草が可愛らしくて、雄々しいうめき声がカッコよくて、愛しくなって抱き締めるようにもっと締め付けた。
「ごめんね……私……ノートの中身が……気になっちゃって……読んだら……信じられる気がするの……佐伯君が……神様だって……だから……ちょっと……我慢してね。……でも佐伯君は……この世界には興味ないみたいだし……別にいいよね。……これが……終わったら……第三世界で一緒に暮らそうね……その時は……ちゃんとした……角度の……ままでいてね」
やがて佐伯君は動かなくなった。しかし……
「……なんで?」
佐伯君が死んだのに、世界はそこにあった。
もしかしたら佐伯君はまだ生きているのかもしれない。きっとそうだ。
胸に手を当ててみる。心臓が止まっている。口元に手を置いてみる。呼吸が止まっている。瞳孔も開いている。明らかに、死んでいる。なのに世界が終わっていない。なのに佐伯君が死んでいる。なのに時計の針の音は変わらず鳴り続けている。蛍光灯は毒々しい光を放ち続けている。いつまでたっても、何一つ崩壊する気配が無い。……やっぱり佐伯君は神様では無かった。私は騙されていたんだ。
「酷いよ……佐伯君……」
どうして男の人ってみんな嘘つきなんだろう。涙に滲む視界の中、私は「第三世界の書」を開いてみた。そこには小説が書かれていた。登場人物は私と佐伯君だけで、他には何もなかった。ただただ二人だけの幸せな生活が描かれている。それだけの小説だった。私はこの小説に強烈な違和感を覚えていた。……この小説の私は、私じゃない。私は「生まれた時からずっと好きだったよ」なんて言わない。「頭なでなでしてー」なんて絶対言わない。こんなこと言う女は、私じゃない。
ああ……この気持ちが嫉妬か。佐伯君が想い描いた私に私が嫉妬するなんて、変な感じ。でもこれで分かった。結局、佐伯君は私の事なんか見ていなかった。誰でも良かったんだ。だから佐伯君は私を騙して捨てるような事をしたんだ。
幾重にも悔しい気持ちを噛み締めながらも、佐伯君の見開いた目を閉ざしてあげた。佐伯君の首元に枕と布団を重ねて、いい感じの角度を作り出してあげた。やっぱり……カッコいい。長い睫毛を半月のように伏せて静かに眠る佐伯君は、息をのむ程の美しさだった。酷い目にあったけど……騙されたけど……それでもやっぱり私は佐伯君が好きだった。それだけは嘘じゃなくて、本当の事なんだ。
「佐伯君……さよなら。この本は、私が誰にも見せずに燃やしてあげるから」
電灯が続く夜の住宅街。「第三世界の書」をそっと抱きしめ私は歩いていく。
私の心の中には、佐伯君の青白い死に顔がお月様みたいにずっと浮かびあがっていた。




