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鬼の家  作者: 諸星悠
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空気のような私

 シャワーを浴びている間、自分の浅はかな思い上がりに苛立(いらだ)ちが募っていた。私は蛇口を慎重に(ひね)り、これ以上は耐えられないと思う限界の温度まで調節した。壁のシャワーフックに掛けたシャワーから勢いよく出た熱いお湯が、頭のてっぺんから(もも)のあたりを打った。


 あまりの熱さに悲鳴が出そうになったが、悲鳴の代わりに、自分自身に対しての怒りを吐き出した。

(あざ)なんかできてないじゃないか!」

 私は膝から崩れ落ちるようにしてしゃがみこんだ。狭い浴室の、背後のドアに当たってはね返ったお湯が、責め立てるかのように今度は背中に当たった。


 スーツ姿の男に強くぶつけられた右肩の具合は、手のひらで押すとわずかに痛みを感じる程度だった。痣などちっともできていなかった。あの時感じた熱い痛みは、今のシャワーの温度とは比べるまでもなく、中途半端なものだった、と今だから思う。


「私っていったい何様なんだろう。お兄ちゃんの気持ちも、痛みも、これっぽちもわかってあげられない。何で、どうして今さら…」


 私は、自分が嫌で嫌でたまらなかった。私はいつでも、安全なところから、虐げられる兄を見て、子どもの癖に「自分は絶対こうなりたくない」、「お兄ちゃんのようにはなりたくない」と思っては、計略を練り、兄を(おとし)めるようなことばかりしてきた。


 頭、背、腕…、お湯を浴びる身体のあちこちがひりひりと痛み、時にかゆみも伴った。もうこれが限界だと思って、私はシャワーを止めた。ホースに腕を伸ばして(つか)まり、やせこけた、力の入らない足でどうにか立ち上がり、くもった鏡をぬぐった。真っ赤に腫れた顔から鎖骨のあたりにかけてが映った。肩が大きく上下している。心臓がバクバクと脈打っているのがわかった。鏡の中の、にやけた口元を見てハッとした。「やり過ぎだ…」。ここのところの、痛みを求めすぎる自分を、危なっかしい、と思った。


 どうして、こんなに自分を傷つけるようになってしまったのだろう。兄の死がきっかけだろうか。理由は何であれ、これまでの兄に対する私自身の仕打ちの埋め合わせにはならないということは、当の本人が一番よく知っていた。それでも、自分を傷つける他にどうという手段も思いつかず、兄が感じた痛みを全て味わいたい、そう思ってただひたすらに痛みを求めるのだった。


 私は、私の手で自分を痛みつけるタイミングを決められる。だが兄は違った。タイミングは、父が決めることだった。父が「もういい」と言えばそれまでだし、父の気が済まなければ、兄はいつまでも()たれていた。



 兄が中学三年生、私が小学五年生の頃のことだった。その頃の父と母の最大の関心は兄に注がれていた。私はまるで、この家にいてもいないような、空気のような存在に変わっていた。父と母の関心は、まったくといっていいほど、兄に奪われてしまった。幼いながらに私は家の中の変化に気づいていた。家の中は、窮屈(きゅうくつ)で、陰気で、息が詰まった。文字通り、息を殺して毎日を生きていた。それは兄も同じだったと思う。


 父は次のような台詞が口癖になっていた。

「勉強の調子はどうだ?ん?順調か?」

「試験まであと〇週間だな。しっかりやれよ」

「受験生に盆も正月もないからな。気合入れていけ」


 それは朝起きてから夜寝るまで続いた。ほんの少しでも、家の中で顔を合わせる時、例えば、兄が台所に立ち寄った時や、食事の最中はもちろん、その前後の時間など、もう生活の中のありとあらゆる場面で、父は「勉強はどうだ」、「順調か」、「しっかりやってるか」とこんな調子だった。


 兄はいつでも、「順調だよ」、「しっかりやっているよ」と父を安心させることを言った。父の機嫌が良い時は「そうか、それならよかった。期待してるぞ」と言って酒を飲んで顔をほころばせ、機嫌が悪い時は何かと兄の言葉尻を捕らえては、気が済むまで殴った。


 これまで父と母から、まるで人形のように扱われることに慣れていた私だったが、急に父と母の関心が兄に注がれたことに気づくと、強い嫉妬と激しい怒りに襲われた。兄に父と母を奪われた気がしてならなかったし、私だけ父と母から無視されているように感じた。殴られるのは無論いやだが、私に何もしてくれない父と母を(いぶか)しんだ。


 何とかして、父と母の関心を得たい、と私は強く思った。


 やがて、私は父に、兄についてあることないことを吹き込むようになった。

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