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鬼の家  作者: 諸星悠
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人混み

 「家族」という言葉に行き当たると、たちまち視界が暗転し、私一人が、世界から切り離され、身体は切り刻まれ、やがてこのまますっと消えてしまう、そんな感覚に陥る。

 その感覚に、家の中でじっとしていることではとても耐えきれなくて、私は足しげく人混みに向かった。人混みの中は心地よく、それは一時的なものとは言え、私にとって束の間の安らぎになっていた。

 だからといって、あの感覚から完全に解放されるわけではない。実際、この日も、昼過ぎの澁谷で、信号待ちをしている間、早くもあの感覚に襲われた。きっかけは、私の前にいた、母親に抱かれた男の子と、私と同じぐらいの年頃の母親の会話だった。


「ねえママ、あれ、なあに?」

 舌足らずな男の子の問いかけに、重たそうな男の子を胸に抱いた母親が、顔を近づけた。

「どおれ?」

 母親に抱かれて思うように身体を動かせないからか、男の子は少し苛立った様子をみせると、もぞもぞと母親の腕の間から右手を出し、ビルとビルの間を指さした。母親は、そんな男の子を愛おしそうな眼差しで見つめてから、男の子が指さす方向に顔を向けた。


 母親の、内面から滲み出ている心の余裕を感じ取って、私は軽い反発を覚えながら、男の子が指さしているそれを見つめた。

 黄色い、風鈴のような形をしたアドバルーンが、代々木方面の空に浮かんでいた。生まれて初めてアドバルーンを目にした私は、嬉しいような悲しいような、何ともはっきりしない気持ちを味わった。軽い眠気がやって来ると同時に、瞳が潤むのを感じた。


「あれねえ、何て言ったかしら」と母親は少し考え込むように首をかしげると、男の子は、じらされていると勘違いしたのか、身体全体を揺すって母親に答えを促した。

 そんな男の子を愛おしそうに見つめると、母親はにこっと微笑んで、男の子の背をやさしくさすってから、ゆっくりと答えた。

「ア・ド・バ・ル・ー・ン、って言うのよ」


 初めて聞く言葉をうまく口に出来ない男の子に、自分の口の動きをよーく見せてやっていた母親だが、信号が青に変わると、周りの人の群れがどっと動き出すのに合わせて、私の前から遠ざかっていった。

 母親に抱かれた男の子と目が会った。私のことに気づいたのか、それとも気づいていないのかわからないが、私への興味は一切ないようで、その目はもはや何の感情も示していなかった。


 瞬く間に、母親も男の子も、歩いていくたくさんの人の背の中に消えてしまった。


 今や猛烈な眠気が私を襲っていた。身体全身の力が抜けていくような、立っているのも、目を開けているのも、全てをやめてしまいたい、そんな気分だった。大勢の見ず知らずの人に囲まれているのは心地よかった。人の流れに留まって、舌打ちされ、何かを言われ、肩を当てられ、背を押され、そういう状況の中で、私は自分が生きているということを確かに実感していた。


 信号が点滅を始める。私はますます、邪魔者になる。ますます肩や背に痛みを感じる。

 人混みは、私にとってすなわち暴力そのものだ。そして暴力こそ、私にとって安らぎなのだ。暴力に囲まれて育った私は、暴力から絶えず逃れようとし、逃れればまた、暴力を浴びる側に身を置かずにはいられなかった。


 暴力はいつでも、私の身近なところにあった。信号が赤に変わったとき、右肩に強い痛みが走った。目の前を駆けていくスーツ姿の男が、私に何か口走った。その横顔は怒っていた。私を憎み、敵視する目をしていた。父の目に似ていた。私は男に釘付けになった。


 反対側に渡り切った男は、私を睨んで、何か言ってから去っていった。口の動きで「死ね」と言われたのがわかった。

 肩に熱い痛みが残っている。これは(あざ)ができたな、と直感して、私は幸福だった。いつか、父に殴られた兄が、「こんなのできたよ」と言って見せてくれた右肩の痣。あの時の兄と同じ場所に痣ができたと思うと、兄の痛みそのものを私も味わえた気がした。


 そうして、また信号が青に変わりそうになり、周りの人が動き出そうとする気配を感じた私は、人の動きにかき消される前に、一言つぶやいた。

「私も同じだよ」


 これが今日はじめて私が口にした言葉だった。

 よく母が言っていた。「朝起きて、はじめて口にする言葉は特に言霊の力が強い。だから、神様の祈りに使いなさい」と。死んだ兄に届いたらいいのに、と思ったが、もう私には神様と呼べる存在はいない。そう考えると、胸の中いっぱいに、やり切れない思いが満ちあふれて、もうこのまま消えてしまいたい、と心底思うのだった。

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