6-9. 『入れ替わった』その後で
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目を開けて数秒。意識は徐々に覚醒。その間に今現在自分が置かれている状況というのは比較的すんなりと理解できた。見慣れた天井。触り慣れているソファ。この時間帯ですでに喫茶店にいるというのは、恐らくは初めての経験だった。珍しい。どう考えたって『今から数時間前あたりから何かが起きていた』ことが明らかだった。
周りを見れば、少し心配そうに私を見つめているおじさんと、そして同じように心配そうな顔を作ろうとしている男の子の姿があった。
もしかしたらと思うことはいくつかある。いつものように日記を読んで確認することはできないが、ここ数日間考えていたことを総動員すればどうにかなりそうだという確信もあった。
ここはしばらく様子を見てみようか。でも、向こうもきっと、こちらの様子を伺っていたいのだとは思う。それはチラリと薄目で確認できたその表情でも明白だった。
もう少しポーカーフェイスの作り方を学んだ方がいいと思う。
――もしも、これからも、誰にもそれを見破られたくないのならば。
「……ふぅ」
ソファから身体を起こせば、ふたりがすっと小さく息を飲む音が聞こえた。そこまで警戒しなくても良いのに。むしろ、粗方解っているはずではないかとも思ってしまう。いつもなら少しくらいはイジワルをしても良いだろうとも思えるのだが、今日は既に疲れている感じはあった。今日は公立高校の入学試験の日だ。朝から夕方の直前までテストを受け、その前後には電車移動で揉まれている。その時点でいつもより疲労が溜っているのは明らかだった。
そして恐らくは、朝陽が――。
「……おはよう、美夜ちゃん」
先に口を開いたのはおじさんだった。
「おはようございます、夕方過ぎてますけどね」
「ははは……」
弱い笑い声。探るようなことを言ってくるからです、おじさん。もう少し自信持ってください。
「やぁ、お疲れさま、……美夜ちゃん」
「……どうも」
やはり同じように探りを入れるような言い方をしてきた彼に対して、敢えて、その名前は告げないで答える。
「あー、……美夜ちゃん」
「……何ですか?」
腫れ物に触るような言い方はやめて欲しい。が、まだ泳がせておく。おじさんが慎重に言葉を繋げようとしているのだから、聞いてあげるのが筋だろう。
「こちらの彼は、お姉ちゃんの同級生の……」
「桜木壮馬です」
――そうか、そう来たか。
私はそう思いながらソファからしっかりと立ち上がる。横になっていたのは数秒のことだろう。腰はそれほどでもないが、ずっと似たような姿勢をとっていたせいか肩周りが固まっている気はした。ついでなので店内の中央まで出て、少し大きめの伸びをして、出入り口のドアを背にして敢えておじさんと彼を向かえるような位置に立った。
「……おふたりとも、こうして入れ替わるところを実際に見るのは、初めてですよね」
そんなことを言ってみれば、ふたりは思わずと言った具合に顔を見合わせた。『どうする?』とでも訊きたそうに片眉を上げるおじさんと、どこか観念したように眉をハの字にする彼。眉毛で会話をする芸当なんて、この人たちは何時の間に身につけたのだろうか。
「マスター、これは……」
「本当のことを言うべきだろうね、うん」
そうして、そのまま男同士のひそひそ話が始まった。何だ、あれは。この期に及んで「そもそも怒らせると後が怖いから」とか言っている人がいる。私にそういう怒り方をさせるあなた方――というかおじさんが諸悪の根源だと思うのだが、違うのだろうか。
「……美夜ちゃん、ひとつ訂正がある」
「何でしょうか?」
極力平たい声で返す。
「こちら、桜木翔馬くんと言って」
――へえ。
「……ユウマさんって、そういうお名前だったんですね」
「え」「え?」
おじさんの絶句と彼の疑問符が重なった。
「ハッキリと確信したのは最近ですよ。私がいつもこの時間帯に見ている『ユウマさん』と、朝陽の日記に出てくる『壮馬』が同じ人なんじゃないかってことまでですが。そのお名前を知らなかったことも事実ですけど」
「……そうだったんだ」
「心配して損したというか、……何というか」
拍子抜けしたような、あるいはホッとしたような顔をするふたり。なるほど、美夜が突然こういう状況に現れて混乱しないようにと配慮していたということなのか。――アレで。配慮としては陳腐だし、わかりづらいことこの上なかったような気もしてしまう。けれど、ふたりの不器用なりの気遣いだったという風に思えば、かわいらしくも感じる。ここは何も言わないでおいてあげよう。
「……とはいえ、私もそこまで状況が飲み込めてるわけじゃないので、さっきまでしてた話もちょっとは混ぜて下さいね」
「ああ、それはもう」
おじさんに向かって言えば、やさしく頷いてくれた。
「それと……、翔馬さん? ……と言って良いんですか?」
「うん、大丈夫」
「話し方とかがもし違っているなら、いちばん楽な話し方で良いですからね」
「了解。……というか、それならいちばん楽じゃない話し方をしてるのって」
「私のことは結構です」
「……ウッス」
――なるほど、そういうノリか。実は至って普通の学生ということか。
§
10分ほどかけて、彼――桜木翔馬にまつわる話を聞いた。幾分かこちらで察することが出来ていた部分などは適宜カットしてもらうことで、短時間に収めてもらった分はある。
あの落ち着いた口調は、そういう経緯があって生まれてきたのか。当時幼稚園児だった少年にしてはTPOを弁えすぎていたのかもしれないが、それが彼なりに導き出した処世術のようなものだったのだろう。誰もそれを責めることはできない。
もちろん、彼が通っていた幼稚園の先生たちも責めることはできない。彼が『桜木壮馬』としてのびのびと過ごせていたのは、周りの友達はもちろん、先生たちにも恵まれていたということだろう。
「ところで……」
「何?」
自分と同い年であることが確認されたためか、彼の口調もある程度砕けたモノになっていた。それにともなって私も同じように先輩に対する話し方を止めた。
昨日までは疑惑の域を出なかったし、当然向こうはその口調を改める気は無かったわけで、特にこれと言って直す必要も無いと思っていたが、彼としては楽に話をしたいということだったのでその提案を飲んだ。
「栗沢は、いつ気付いたんだ?」
呼び方も『栗沢』に代わった。最初は名前で呼ぼうとしてきたが、それは私が固辞した結果だった。
「昨日の帰りにチラッとだけ見えた、あなたの住んでいるところの近くにあった地図で気付いた」
「……あぁ、そういえばこの辺ってまだそういうの在ったなぁ」
おじさんが納得する。
「それにしても栗沢、視力良すぎじゃない?」
「生憎、目だけは健康に出来ているみたいで」
「左様ですか」
そう言って苦笑いをする彼。その言動にはまだ少しだけ違和感はある。どうしてもユウマさんの反応がちらつくせいだろう。
「……というのは嘘で。丁度おじさんが車を停めたところに、その掲示板があったってだけです」
「ああ、そう……。運が良いんだか悪いんだか」
「私としては、間違いなく運が良かったけど」
これは本当に、私にとっては最高に運が良かっただけの話で、彼にとっては最高に運が悪かっただけの話。おじさんがたまたまあそこに車を付けてくれたからこそ、私が私なりの結論を出せただけのことだった。
「まぁ、たぶん日頃の行いが良いから」
「……あー、うん。なるほどな」
てっきり不機嫌になるかと思いきや、彼は薄く笑い飛ばした。
「何?」
「いや。こういう言い方するのは良くないとは思うんだけど」
愉快さを隠そうとして、明らかに失敗している。何だろう。そこまで面白いことを言った覚えは無いのだけれど。
「『ああ、栗沢だな』って思っただけ」
――どういうことだろう、解らない。
何がどう彼の中で作用した結果、私が栗沢美夜であると再確認するに至ったのか。




