6-5. 常に見ていた
航輔おじさんが最後まで言う前に、桜木は答えをあたしたちに聞かせて、ホットミルクに口を付けた。カップを外すのに合わせて大きく息を吐く。あたしは何か憑き物が落ちたような、あるいは背負わされていた大きな荷物を下ろしたような。だけど、それでいてまた新しく違う荷物を背負い込んだような――桜木はそんな呼吸をしたように見えた。
こんなこと一度も聞いたことがなかったし、何より桜木本人がそれを言いたくなかっただろう。それをあたしたちには聞かせてくれた。いつかは、なぜこれを聞かせてくれたのか、その理由も聞いてみたいと思った。
「ちなみにだけど、今ってどの人格なの?」
「今は『ショーマ』だ」
「……え?」
耳を疑った。
「何でそこで疑うんだ? 言ったじゃん、『オレ、つまりショーマの別人格』って。だから今話してるのは『ショーマ』だぞ。まぁ、ここ何年も出てきてなかったんだけどな」
「だって、……あたしはてっきり、もうその人格を」
――とまで言って、言葉に詰まった。
そのままこれを口から出してしまうのは、いくら何でも憚られる。
そんな、『その人格を殺してしまったんじゃないか』――だなんて。
もちろん、実際にそれを言わなくて良かったとは思う。桜木自身、あたしがそう思っていることは察することなんて容易いだろう。
「……久々の娑婆の空気はウマいぜ」
やっぱり。そんな空気を察知してか、桜木は軽口を叩くように言った。
「まぁ、ともかくだ」
ぐいっとホットミルクを呷り、桜木は少し明るく言った。カップが空なのを見たおじさんがおかわりを注ぐと、桜木は微笑みで礼を返す。
「だから、さっきの通称名の話に戻ってくる。徐々に当時のオレは『翔馬』ではなく『壮馬』を名乗り始めていたのもあって、他の子も『ソーマ』と呼ぶようになってきた。未成年であれば3年から5年ほど使われていればその名前を公的に使うこともできるっていう話があった。だからオレは中学校から校区を変えて、名前も『桜木壮馬』にして、中学校生活を始めたってわけだ」
そうか、とひとつ腑に落ちる。この街には校区が異なる学校も選んで通学できるという制度がある。桜木がその制度を使ってあたしたちの校区に来ていることは割と知られていることだったが、その理由まで知っている人は生徒の中にはほぼゼロだったと思う。桜木自身がそれを公言していないのだから当たり前かもしれないが、どうやらこれが理由なのだろう。良い機会だったということなのだろう。
「だから、『優馬』の方は、実際にこうして使ったのは初めてですね」
「なるほど」
航輔おじさんはすんなりと納得しているようだった。とくに悲嘆するようなこともなければ、怒り出すようなこともない。凪のような心境に、あたしには見えた。
桜木はといえば、おじさん同じような表情だった。そういうものだ、と何かを悟っているようにも見える。それでいい、余計な憐憫は要らない――。そう言っているようにも見えてしまった。
「……だから、お前と同じなんだよ。栗沢」
だからこそ、なのかもしれない。
不意打ちのように名前を呼ばれて、あたしの肩は大きく跳ねた。
「な、にが?」
平静を装おうとして、失敗した。スムーズに言葉が出せなかった時点であたしの負けみたいなものだ。ほら、何かを確信したような――さっきあたしがしたような顔を、今桜木はあたしに向けてしてきた。因果応報ってヤツか。あーあ、締まらない。
だけど、そんな予感がしていたのもまた本当のことだった。時折桜木が見せてきた態度とか、『もしかして』と思わされるような部分が散見されていた。
「……何が言いたいのかしら?」
それでもあたしは改めて訊いてみる。それは自分の心を落ち着けるためでもあったし、桜木に質問を促すためでもあった。
「今のお前は『栗沢朝陽』。で、……だいたいあと1時間ちょっとくらいで、『栗沢美夜』になるんだろ」
「……」
――いざ言われると、なかなか来るものだった。予感なんて、今のあたしには無用の長物だったらしい。分かっていてもダメっていう話は、やっぱり存在するらしかった。
当然と言いたそうなくらいにまっすぐに、桜木は核心を突いてきた。
どう反応しようか迷う。ああ、なるほど、これが尋問を受ける側の心境か。こうして迷っている間にも、桜木は自信を確信に変えていくのだろう。何だか悔しい。
「いつから知ってたの?」
だからこそ、結局ちょっとでもマウントを取りに行くような言い方になった。どうせ無駄な悪あがきなのだろうけれど、それでもだ。せっかくだからそれくらいやらせて欲しい。
「今から言うことにはたぶん栗沢は怒ると思うが、それでもイイか?」
「何それ」
そんな前置きをしておいて、あたしが怒りの矛先をどこか違うところに向けるとでも?
バカな、切っ先を違えることはない。
そもそも、今更あたしが怒るようなことは無い。
そうまで見抜かれてしまっているならば、それはもう試験の答案を試験官に渡した後と同じ。後は淡々と答え合わせをして、その結果を確認することしかできないのだ。
「別に怒らないわよ、言ってみなよ」
「……そんなことを言いつつ、話を聞いたら怒るヤツをオレは知ってる」
「誰のことだか」
――きっとみんなそうだろう、それこそよく聞く話だ。
「じゃあもう良いわよ。怒るかもしれないし、怒らないかもしれない。ともかく聞きたいから教えて」
「正直でよろしい」
「うっさいわ」
「あっはは。その方が健康的だろ」
声を出して笑ってから、桜木は話し始めた。――たしかに、とあたしは思う。これが桜木壮馬であれば鼻で軽く笑って話し始めそうなモノだ。
「これもオレがさっき言った『栗沢が勘違いしていること』のひとつなんだけど、翔馬は『壮馬』と『優馬』がそれぞれ見たことも感じたことも認識できてるんだ」
――なに、それ。
「え? ……ってことは、まさか」
「だから、『朝陽』と『美夜』が意思疎通をするときにやってる『日記』みたいなことをする必要がない」
「……なるほどね、そういうこと」
やられた。これは盛大にやられた。
常に『壮馬』や『優馬』の後ろに『翔馬』が居るのなら、あたしたちは何を取り繕うとしてもコイツの前ではすべてがムダだったわけだ。いくら文字情報だけでそれぞれが見ている『桜木』の情報を伝えようとしても、アイツらが共有しうる情報量に敵うわけがなかった。まさしく百聞は一見に如かず。
そんなの、ズルい。




