6-3. 名前の理由
「理由は訊いても、大丈夫なのかい?」
「この場に居るのが栗沢とマスターなら、別に問題ないです」
おじさんがあたしの代わりに訊いてくれて、桜木はそれに丁寧に答えてくれた。その様子に何か吹っ切れたような雰囲気を感じて、あたしは何故か少しだけ心配になってしまった。
だから、訊きそびれてしまった。――おじさんはともかく、『どうしてあたしに聞かれるのは問題無いのか』を。
「それに、栗沢が今日オレをここに連れてきた時点で、このことを話そうって決めたから」
「そう、……なんだ」
あたしが力無く答えると、桜木はそこまで気にした様子もなく微笑む。そして、思い出したようにカフェラテに口を付けた。あたしもそれを見てマグカップを手にする。すっかり冷めてしまったカフェラテは、妙にいつもよりも苦く感じた。
喉を潤して、大きく息を吐く。何かを決意したように、桜木は再び口を開いた。
「……『駒園』はいわゆる母方の苗字ってヤツだ」
「ってことは『桜木』は父方の」
「違う」
――え?
瞬間的に否定されて、思わず喉が凍ったようになる。いきなり目の前に刃物のような物が飛んできたような感じだ。
そんなあたしの状況を知ってか知らずか、桜木は淡々と続ける。
「それは、親戚筋の苗字だ。そっちのは知らない」
「……え」
桜木は吐き捨てるように言う。本当は水で流し込むべき錠剤を間違って噛み砕いてしまったような、そんな顔にも見えて、あたしは次に告げるべき言葉をまた失った。
「……その理由も訊いても良いのかい?」
あたしの顔を見たのか、代わりにおじさんが訊ねてくれる。だけど明らかに、容易い気持ちで触れて良さそうな話題には思えない。当然話す・話さないを決める権利は桜木にある。どうするのだろうかと思えば、桜木は静かに目を閉じて、そして頷いた。
「最初は、父親から虐待を受けていた……らしい」
頭のどこかでは『もしかして』と思わなかったわけではない。直接的にあたしの言葉を遮ろうとしてきたからだろう。だからなのか、桜木の言葉に拒否反応を示すようなことは無かった。とはいえ、当然何も感じないわけでもない。
「詳しいことは知らない。今現在俺を育ててくれている人たちの話を聞いて、俺がそう理解している、という感じだ。……そりゃあな、乳飲み子に何が理解できるか、って話なわけで」
かける言葉が、思い付かない。
「全くその時の記憶がないと言ったら、嘘になるけどな。……今でもまだ夢に見ることはある」
あたしには無言でいる以外の手段が思い付かなかった。
「まぁ、その毒親とは間もなくして離れることはできた」
――その毒親、とは……?
「その言い方から察するに、まさか」
「次は……、いわゆるネグレクトです」
「……っ!?」
――何という。思わず息を飲み込む変な音が出てしまった。おじさんがすぐにあたしの背中をさすってくれた。
「……不可抗力みたいなモンなんだろうけどな」
「え……」
乾いた笑みを遺しながら言う桜木に、思わず声が漏れた。何かを悟っているみたいな雰囲気のせいだろう。――恨んだりはしていないのだろうか。
「……そりゃあそうだ。コドモにばっかり手を上げるヤツじゃなかったって話で、俺の本当の母親も被害者だったわけだ。当然、オレが今も生きているってことは、凶悪的で暴力的なモノからは守ってくれてたってことだ。……で、いざそこから解放されたとて、精神的なダメージは年端もいかない赤子より、オトナの方が大きかったという話」
違う。そういうことだ。その理由はあまりにも悲愴的だった。
「あとは……まぁ、アレだ。……親戚たちは何も言わなかったけど、たぶん、オレに流れている血の半分は『アレ』だ、と思ったんだろうさ」
「そんな……!」
「朝陽ちゃん……」
思わず立ち上がりそうになったあたしをおじさんが制する。膝に、力が入らない。そのままふらりと椅子に戻る。
たしかに、桜木は肉親のこと――とくに母親を恨んではいないのかもしれない。それはそうかもしれないが、桜木が実の母親に抱いているのは、ただの諦めなのかもしれなかった。期待などしない、諦めているヒトに対して、怒りの感情など抱きようが無い、と――そういうことなのだろうか。
「それでも母親はそういうのを気取られないようにしてはいたらしいんだが、今のオレの養父母にあたる人たちにとうとうバレて、晴れてオレは……毒親から離れることができた、ってわけだ」
父親の話のときとは違って、母親に対してはいくらかの逡巡が見られた。悪し様に言うこともない。それはやはり、辛うじてではあっても母親に対してはまだ少しばかりの情が残っているのだろうか。
「でも、それがどうして『壮馬』とか『優馬』とかっていう名前に繋がるのよ……」
ただ、そこまでの説明でも、やはりまだわからないところはある。もちろん桜木の説明はまだ途中なのだろうけど、話の全容がまだ見えてこない。底が知れないとでも言うべきなのだろうか。どこまで深い話になっていくのかが掴めなかった。
「……『そのふたり』は、『オレの兄弟』みたいなモンだ」
――兄弟のようなモノ。そのフレーズに思わず唇を噛んでしまう。
「まずは、今の養父母に引き取られてから間もなく、オレは寝込んだらしい。ざっと2週間くらい」
それは、そうだろう。同年代の子と比較して明らかに体重が軽いというレベルか、もしかしたら羸痩などと言われる程度まで進んでいたのか。ネグレクトと表現されたそれがどこまでのレベルだったかはわからないが、桜木自身が語りたくないのであればその話をする必要もない。
「それまで数日は元気だったらしい。閉じ込められてたような状態から出てきたんだから、相当楽しかったんだろうな。だから、その反動で疲れが出たんだと、周りの人たちはそう思っていたらしい」
ああ、やっぱりそう思うのが妥当だよね――。
そう思ってしまって、眉間に皺が寄る。よく『スイッチが急に切れたように眠る』なんて言われ方をすることもあるが、小さな子どもは得てしてそういうモノだ。
当然、桜木の背景に潜んだ闇を知らないのであれば、という前提が必要だが。
「で、眠りから覚めたオレは、殊更によくしゃべるようになって、よくいたずらもして、……わりとやりすぎることもあったらしいが」
「……今のアンタじゃないの」
「さすが、察しがイイな」
「は?」
さすが、って。
――……コイツ。




