5-10. 試験当日の朝
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当然のように真っ白な息が、当然のような顔をした青空に溶けていく。そんな公立高校受験の朝。
――寒い、めちゃめちゃに寒い。
昨日見ていた天気予報の時点で嫌な予感はしていた。冬に綺麗な星空が見えたならば、その翌朝にめちゃめちゃ冷える。放射冷却というやつだ。
これでもそれなりに厚着はしているつもりだけれど、ガードできるのはカラダ本体。さすがに四肢の方まではガード性能が追いついていない。靴だって結構厚いモノを選んでいるはずなのにこの有様だ。
見れば他の人も同じようなことを感じているらしく、手袋を持たない学生はポケットに手を突っ込んでいるし、スマホをイジろうとしている女子高生も手がかじかんでいてまともにタップ操作ができていない。指先が動かなさすぎて、そのままスマホを落としそうになっているくらいだ。
とりあえず、ガチ北国の寒気に浸された状態でスマホの操作をするのは全くもって薦められない。恐らくもうすぐ寒さのせいで電源が遮断され――たらしい。ご愁傷様。
そんなことを上から目線で思っているあたしも、さっきから小刻みに揺れながらものすごく小さな足踏みを繰り返している。こうでもしないと気が紛れないし、寒さもごまかせない。せめて少しでも動いていれば違うのだ。
「ぃよっす」
「……あ、おはよ」
そんなタイミングで声をかけてきたのは、やはり桜木壮馬だった。コイツにしては珍しくマフラーなんか巻いて、結構完全防備に近い状態だった。さすがに冬将軍にガチられると日頃のまったく付いていないカッコツケもする余裕がないのだろう。知らんけど。
「寒くね?」
「寒い。あり得ない。帰りたい」
「お? 別に帰ってくれてもいいぞ? 合格枠がひとつ空くから」
言いながら桜木はにやりと笑う。マフラーで隠された口元はきっとこれでもかと言わんばかりに小憎たらしく歪んでいるのだろう。
だけれどそれは、あたしが合格ボーダーラインの遙か上に居る、ということを暗に示しているようにしか聞こえないのだが。
「アンタ、随分あたしのこと買ってくれてるじゃん?」
「え、冗談真に受けちゃう派?」
「は?」
目だけで脅す。手は出さない。ここで手首でも痛めて筆記試験に影響が出たら良くない。冷静な判断が出来ている。素晴らしい、あたし。褒めて。
「まぁまぁ。俺たちならイケるべ、って話でさ」
「余裕綽々じゃん。何。明日って真夏日に天気予報変わってたりするの?」
「は?」
「は?」
謎の『は?』の応酬。そんなことをしている間に電車がやってきて、あたしたちは揃って滑り込む。ラッキーなことに列車のつなぎ目近くに余裕があったので、そこに陣取ることにした。
「話戻すけど」
「おう」
「余裕だね、すっっごい」
こういう日に神経を逆撫でしてくるというのは、新手のメンタル攻撃なのだろうか。メンタリストとかに向いているんじゃないだろうか。知らんけど。
「俺からしたら、お前の方が余程余裕に見えるけどなぁ」
「んなわけないでしょ」
こちとら、昨夜の記憶が吹き飛んでそうなレベルで頭が真っ白になっているのに。そりゃあまぁ、生死に関わるって話でもない。さすがにそれは言い過ぎだとは思う。とはいえ、一応人生はかかっているわけだから。
「だって、……じゃあ訊くけどさ、お前今、単語帳とか開こうとか思ってる?」
「全然」
「ほら」
「いや、痴漢防止ってことだけど」
「……あ、そう。そういうこと」
こういう不特定多数のニンゲンが密集している場で、無防備に何かへ没頭する気には全くならない。下見のときはまだ人口密度が低かったが、今日は違う。受験生だけが乗っている車内はかなり混んでいる。あたしたちは『普段』を知らないからそう思っているだけで、本当に普段から電車を使っている側からしてみれば、あたしたち受験生というイレギュラーのせいで混雑しているのかもしれない――なんてことを思ってみる。
「だったら、俺がいるから安心だな」
「……は」
乾いた笑いが口からナチュラルに出て行った。桜木からは『何でやねん』とでも言いたそうな顔を向けられる。
「何でやねん」
実際に言われた。いやぁ、何でも何もあったモンじゃなくて。
「それこそ、何でやねん、でしょうよ」
「いやいや、男子が側に居たらそうはならないんじゃね?」
あたしの数倍は自信満々な態度で言い切る桜木を、あたしは下から上へと舐め回すように見てやる。――何か腹立つな、こいつ。
「アンタ自身が痴漢っていう設定をあたしは疑ってないから」
「何でやねーん。っていうか、設定って何」
スペースがそこまで広くはないのに、わざとらしくズルっと滑る演技もしてくれる。ノリがイイのは結構だけれど、あまり視線を集めるようなことをしないでもらいたい。幸い今このあたしたちの周りでは、こんなくだらない会話を耳に入れさせられてもなお笑ってくれてる人が多いからマシだけど。
「ああ、そっか。ごめんごめん。アンタは痴漢じゃなくて変態か」
「おお、もうそれでいいわ。健康的な男子なんぞ、どいつもこいつも変態だわ」
「うーわ、うーわ。コイツに変態呼ばわりされる他の男子、カワイソー」
「うっさいうっさい」
これ以上イジるなら俺は無視するからな、とでも言いたげに、桜木はカバンの中から英単語の暗記帳を取り出した。意外にもお手製だ。全部手書きだし、しかも結構使い込んでいるのか、紙の端っこは折れているところもある。
「何だよ」
視線を感じたらしい桜木がジト目で言ってきた。
「見ぃせぇてー」
「……別にいいぞ」
「マジ? ありがと」
身長差をカバーするように単語帳をあたしの視線に合わせてくれる。
「その配慮、褒めてつかわす」
「ンだよそれ。姫なのか女王なのかハッキリしろぃ」
「ウソウソ。ありがとね」
「おぅ」
あたしと桜木が文字を見てそれを頭に入れていくペースは意外にも近いらしく、桜木が何気なくめくっていく指に全く違和感は無かった。そして、桜木が実は本当にしっかりと良からぬ視線からあたしを遮っていたことにも違和感は持てなかった。結局それに気が付いたのは、電車を降り、試験会場に着き、そこでの試験の全日程を終えた後、桜木に教えてもらうまで気が付くことはなかった。
全国の受験生、がんばって。




