4-6. 油断
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塾を出たときにちらついていた雪はすっかり止んでいて、夜空には星がいくつかハッキリと浮かんでいるのが見えた。
冬の空は、割と好きな方だと思う。澄んでいる分、星もハッキリ見えるから。
もちろん外にいれば鼻や耳がだんだん痛くなってくるけれど、そこまで長居しなければ良いだけの話。しばし、天然の天体ショーを楽しむのも悪くないはずだ。
――そうすればきっと、さっきまで何となく感じていた妙な心のざわつきも消えて無くなってくれるはずだ。
いつまでもこういう態度ばかりでは駄目だという事くらい、頭の片隅では分かっているつもりだ。そう、分かっているつもり。あくまでもそのつもりという話。しっかりと分かっていて実のある行動に移せるのなら、人生イージーコースに決まっている。結局そうではないのだから、人生ハードモードなんて言われるのだ。
――場合によってはベリーハードかもしれないけれど、それは人それぞれということにしておきたい。
自分の人生、何も好き好んで難しくしたがる人なんて、きっとほとんどいないはずなのだから。
「……はぁ」
ため息に白い色がついて、そのまま暗闇へと溶けていく。
割と大きな通りに立っているはずが、街灯の数も少なく照度も小さく、さらには路肩の雪も多いせいで、とても寂れているように感じる。時間的に考えて自動車の通行量も多くはない。
夜の街はこんなにも淋しいモノだっただろうか。もう少しきらめいて見えていたのは気のせいだったのだろうか。
「はぁ」
結局もう一度ため息を吐いてしまう。こんな小さなため息すらもこの街全体に響き渡っていきそうな気がしてしまった。
――きしり。
不意に背後から雪を踏むような音がした。聞こえた感じはまだ遠くの方。薄らと私の耳に届いた程度だった。冷え込みが厳しくなってきているのだろう、キンと冷えた夜は地面の雪がよく鳴る。
きっとおじさんとの話を付けてきたユウマさんが外に――。
――いや、違う。
周囲をぐるぐると見渡していたから一瞬脳が混乱していたらしい。
今物音が聞こえてきたのは、さっきまで居た裏路地の方じゃない。
目抜き通り沿いの――。
「……え?」
通りの反対側に、その影を認める。
当然どこからどう見ても、ユウマさんではない。
そもそも立っている場所がおかしいことからも明らかだけれど、それ以外の要素もユウマさんとは似ても似つかない、ともすれば醜悪とさえ言い切れるようなモノに感じた。
まず、彼ならばもう少し姿勢が良いはずだ。実際に接客をしている姿を見たことはないが、何度かいつものカフェラテをユウマさんが持ってきてくれることがあった。その時の立ち姿はすっと真っ直ぐに背筋が伸びていた。あんなに姿勢が悪いことなんてない。
そもそも背格好が違う。あの人影は中肉中背よりももう少し肉の成分が多い印象。ユウマさんはほどよく筋肉のついている典型的なすらりとした体躯だ。ここも全く違う。
――まさか。
脳裏を過るのは、姉が言っていた『不審者』のこと。
その不審者の概要までは覚えていないけれど、何となく察する。こんな時間にわざわざ物陰からこちらを伺っていたのだろうか。
まるで、独りで居る何者かを狙っているかのような――。
「……っ」
身体が竦む。喉が軋む。
自分は大丈夫だろう。
何かあっても声を出せば良い。
さもなくば急いで立ち去れば良い。
そんな考えが甘かったことに、こんなタイミングで――どう考えても最悪のタイミングで気付いてしまった。
通りには車の影などない。
右からも左からも、ヘッドライトの気配は全く無かった。
「ぅあ」
目が合った――――わけではないと思いたかった。
でも、そんな楽観的な考えは一瞬にして消え去る。
向かいから、
その人影が、
通りを渡って、
近寄って――――――
「おい」
「っ!?」
真後ろから、とても低い声が聞こえた。
誰の声なのか一瞬分からなかった。
今までに聞いたことがないくらいの、威圧的な低音。
「きゃっ」
その直後、身体が一瞬後ろへと引き戻される。左腕を掴まれた、らしい。アイスバーン気味になっている歩道と車道の境目でバランスを崩しかけるが、『腕と身体』が私を抱きしめるようにしてそれを防いでくれたおかげで、私は体勢を崩しきらずに済んだ。
「え……?」
「どこのどいつかはまったく存じ上げませんが、なかなかイイ度胸をしていらっしゃるご様子ですねえ……?」
じっとりとした声音で正面から近付いてくる影を牽制する。どうにか穏便に済ませようとしているようだけれど、その節々からは高圧的な色が透けて見えるようなセリフだった。
――パシャッ。
明滅。
そして、残響。
直後には『ピポンっ』という軽やかな電子音。
一瞬何が起きたか分からなかったが、見上げたところにある彼の右手の中にあったスマートフォンを見てすべてを察した。
もっとも、すべてを察したのは私だけではなかった。近付いてきていたその人影も、思わぬフラッシュに対して反射的に腕で顔を隠し、私と同じように一瞬だけ怯んだようだったが、直ぐさま慌てたように元いた側の歩道へと逃げていった。
窮地は、脱したようです。




