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「私、もう、執事辞めたい」とドリーがこぼす。
「えっ?」と一瞬、メイメイは耳を疑った。
「もう執事でいることに疲れたよ」と小声で言う。
それはまるで打ちのめされたボクサーのようである。
なんで………。
その言葉の意味をメイメイはまったく理解できずにいた。
完璧な執事のはずのドリー。
メイメイにとってドリーは憧れであり、理想の執事像なのだ。
それはレッドは執事長だから、当然素敵なんだけど、私の推しはやっぱりピンクなのだ。
ピンク色になってさらにドリーの魅力はマシマシである。
最高を通り越して最強なのだ。
そんな最強執事のドリーがなぜ執事をやめたいと言うのか。
何が原因なんだろう………。
「すでに執事として完璧なのでございますの、わたくしは」とメイメイは勝手な妄想を始める。
「すでに執事長のレッド様から何一つも学ぶことはありませんのことよ。ホホホホホ………………………。世界最強のメイドに昇りつめましたわ、わたくし。これ以上、わたくしに何をお求めになられるのでしょうか………」
「お嬢様にお仕えする完璧すぎるわたくし」とドリーはボーグの表紙のようなポーズをきめる。
それはインスタ映えするイケてる写真。
「わたくし、執事という職業を極めてしまいましたわ」とポーズをきめる。
「もう、私の手の届かないところへ昇りつめたんですね」とメイメイは手を差し伸べる。
ああ、こんなことならもっと早く告白しておけばよかったとメイメイはそのままひれ伏す。
「タイム」の世界に最も影響力のある執事ベスト10の中にドリーの名がある。
「ねえ、メイメイ」とドリーは言葉を発する。
ああ、遂にあなたは世界のトップ執事に名を連ねるのですね………とメイメイは思わず手を星空に向かって差し伸べる。
「ねえ、聞いて!」とドリー。
あまりにもフレンドリーなドリーの物言いに戸惑う間もなく、
「グリーンのやつ、最近レッドばかりが目立ちすぎてるだとか悪口ばかり」
愚痴ってる………、私の憧れのドリー様が………、人間みたいに愚痴を言っている。
今まで一度として見せたことのない普通の女子みたいな態度。
いつも凛として人の悪口なんか言ったことのない憧れのドリー様が………、今、目の前で崩壊していく………。
「もう嫌なの、レッドは独りよがりだし、みんなの不満が溜まってて爆発寸前になっているし」
何という人間の女の子みたいな反応だろう。
そうだ、これが普通なのだ。
偶像化していたのは私のせいだ。
「私しかいないの、みんなを冷静にまとめることが出来るのが………」とドリーはこぼす。
そうだ、責任感の強い人なのだ。
「もう執事に嫌気がさしたの」
争いを好まない平和主義者。
たった一人で重責を背負い込んでいる。
「元々女なんだし………、メイドになるのが普通だし………、それにメイドグループの方が盛り上がってて楽しそうだし………」と、ドリーはメイメイに向かって笑いかける。
で、逃げ出そうとしている。
争いごとから目をそらし、全てを放棄しようとしてる。
それが理性を保つための唯一の方法。
私のドリー様がそんな無責任なことをしようとしている。
過度な期待と偶像崇拝。
「そもそも男たちの中にいることが辛かったのよね」
それは理解できる。
ずっとドリーを見てきたし、男が苦手なのは知り抜いている。
「男社会なんだし………。男たちの競い合いって、見栄の張り合いって言うか、女子の私には少し不可解………」
それは多分間違っている。
女だって見栄の張り合いをしている。
今ドリーはいっぱいいっぱいになっているだけなのだ。
冷静な分析ができていない。
「大体、私は普通に執事業を極めたかっただけだし、今みたいな浮ついた執事を目指してたわけじゃないんだし………」
これが本心に違いない。
私が思う執事像があるように、ドリーにも理想とする執事のスタイルがあるはずである。
それがあまりにもかけ離れているのだろう。
確かにアニメなんかの黒執事とはずいぶんかけ離れている。
ダークヒーローみたいな印象はすっかり皆無だ。
「私、執事をやめて、メイドになってもいいかな?」とドリーが言う。
「執事ってやつに疲れたの。だからメイメイ、お願い」と手を合わせ懇願する。
それを見て、メイメイはショックをうける。
そんな姿、見たくなかった。
私に向かってお願いするような弱弱しい姿を見せないで。
私を失望させないで。
「ねえ、メイメイの力で私をメイドグループに入れてよ。お願い」とドリーは泣き出しそうな顔でメイメイを見つめた。
「パッシーン‼」と音が鳴り響く。
頬を抑えるドリー。
メイメイは思わずドリーの頬っぺたを叩いたのだ。
叩いた後、じっとドリーの顔を見つめ、そして涙ぐみ、グッと涙をのみ込んだ後、メイメイはドリーを置き去りにして走り出した。
そして後ろを振り向きもしないで、あふれる涙を拭っていた。
そんな………、執事を辞めたいなんて、愚痴………、ピンクの口から聞きたくなかった。
メイメイにしてみればピンクは常に憧れの存在であり、その想いは今もちゃんと生きている。
メイド長にメイメイがなってメイド改革を断行したのも、なおも輝き続けるピンクに追いつくためだったのだ。
メイメイのあとをただ追いかけてきた日々。
そんな目標であるドリーが執事を辞めたいというのだ。
しかも執事を辞めてメイドになりたいというのだ。
そんな裏切りがあるだろうか。
メイメイにはドリーの悩みを受け入れる余裕などなかった。
それほどドリーはメイメイにとって完ぺきな存在であり、完璧であるがゆえに弱みを見せてほしくはなかったのだ。
メイメイにはドリーの悩みを理解することはできなかった。
それゆえに思わずドリーの頬を叩いたのであった。
そして涙があふれてどうしようもなかったのである。