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プロローグ 軽音部にまつわるエトセトラ

みゆが事故に会う直前、ガストに来て、さんざん愚痴を聞いてもらった。

「どうして最初っから小編成の話をしてくれなかったのよ」とひとみはかき氷を一口で丸のみにする。

「全国優勝が狙えるんだったら、あんな啖呵を切らないよ」

 みゆはただ黙って話を聞いてくれた。

「うーん…。でもどっちにしてもだめだ。竜ケ崎もテナーだし…」とひとみはボソボソと話をする。

 そのおかげでひとみの考えがまとまったのだ。

 吹奏楽部には戻らない。

 テナーサックス枠は1枠である。

 そこに天才の竜ケ崎先輩がいるのだ。

 三年のブランクがあるとはいえ、竜ケ崎の音にはまだ届いてはいない。

 もし自分が全国優勝を望むなら、別の楽器に変更する必要があるだろう。

 しかしひとみはサックスにしか興味がない。

 全国優勝という甘い蜜に誘われて、空いている楽器を一から始めるのは気が進まない。

 時間的にはまだ間に合うかもしれないのだが、そんな綱渡りをする気にはなれない。

 それなら可能性のありそうな道を進むべきだ。

 何も吹奏楽だけが私を全国に導いてくれるわけじゃない。

 私は万能の天才なのだ。

 可能性は無限大なのだ。

 

「数学のオリンピックか…」とひとみはカルメ焼きを食べながら考える。

 中学時代は数学のジュニアオリンピックで銀メダルを取っている。

ただ高校生になると、数学のオリンピックに変わる。

 そういう意味では違う大会である。

 数学のオリンピックに出ることは決まってる。

 数の子先生が勝手に申し込みをすましているのだ。

 参加しないわけにはいくまい。

 ただどうも気が乗らない。

 と言うのも、数学への偏見である。

 特に女子が数学が得意と言うと、兎角偏見の目で見られがちである。

「数学なんて何が面白いの?」

「数学って将来使うことあるの?」

 そんなことは日常茶飯事。

 理系女子という言葉が存在することじたい異質なもの扱いされているからであろう。

 ベレー帽をかぶるとジャイ子と言われるのと同じで、理系女子と言えばインテリ眼鏡みたいなイメージがある。

 それだけじゃない。

 気が強くて、我を押し通し、言いたいことをいう扱いにくい女性に見られがちである。

 それは自分たちが数学が苦手だからといった嫉妬とは別のものである。

 そもそもみんな数学ができる人を羨ましいとは思っていないのだ。

 きっといろんなことを理論で押し切ろうとする嫌な奴という印象を持っている。

 しかし世の中にとって数学がどれほど重要な学問であるかを多くの人は理解していない。

数学のオリンピックで銀賞という話をしても、すごいのねと言われるだけだ。

みんなの頭の中に「だから…?」という疑問符が浮かんでる。

例えば甲子園で準優勝とか言うと、「すごいね」とか、プロになるのとか大騒ぎになるのに、数学のオリンピックの場合、「なんで数学?」とか、せいぜい頭がいいのねと言った感じでしかない。

世の中のIT企業が一番欲しがるのは数学の天才たちで、金融会社も一流の数学者を大金で雇用している。

単純に数学は金になると言うのが、数学のメリットと言えなくもない。

しかしそんな下世話な話では言い表せないほど世の中は数字に支配されている。

気が付かないだけで数学は世の中の役に立っている。

コンピューター、AI、すべて高度な計算のなせる業なのだ。

ひとみが小学生だった頃、宇宙で迷子になったハヤブサが地球に戻ってくる時の計算式をクラスメイト達にノートに書いて説明しても誰も理解してくれない。

これほど面白い謎解きに誰一人関心すら持たないのだ。

脱出ゲームには夢中になるのに、なぜ?とひとみは思った。

ひとみがその前夜眠れないほど夢中で解いた式に誰一人興味すら持たないのだ。

その夜算数の家庭教師に話しするとやっと誉めてくれた。

ところが次の日算数の先生が別の先生に変わっていた。

理由は未だにわからない。

ただ、「僕には教える自信がありません」と先生が喋っていた声だけは聴こえた。



小学校で、「昨日、面白いなぞなぞ解いたんだ?」とクラスメイトに話した時に、クラス中の生徒が、「何、何?教えて」と集まってきた。

ちょうどその頃謎解きブームみたいのが流行っていて、屋外型の脱出ゲームを家族で楽しんだという話を聞かされていたからだ。

ボイジャー1号と2号が太陽系を脱出する時の軌道計算の違いやスイングバイの計算式なんかを熱く語ったのに、誰もが無反応なのだ。

「それってなぞなぞなの?」と言われ、ひとみは高校生クイズなのかと疑問を持った。

気が付くと算数の話をすると、担任の先生ですら扱いにくい生徒のような態度をとるようになった。

山彦が戻ってこない山のように算数の話には反応がないのだ。


さすがにひとみも算数の話はしてはいけない話に違いないと感じるようになった。

中学生になり、算数が数学に変わっても事態は変わらない。

数式を羅列すればするほど、熱く語れば語るほど、みんなとの心の距離が遠くなっていく。

数学の話をすれば学校で浮いた存在になる。

まるでハヤブサではないか。

無重力で宇宙を彷徨うようなものである。

ひとみは算数とは一人で楽しむものだと子供の頃に学んだ。

数学とは理解できない者たちにとってはただの奇妙な世界なのだ。

だからひとみは数学のオリンピックの話は誰にもしたことがない。

数学の話をすれば友達が離れていく。

数学はひとみにとっては趣味の一つでしかなくなっていた。


しかも家庭教師が辞めた後父親が「数学は麻薬だ」と言うようになった。

「お前も悪魔に憑りつかれる気が」と父に迫られた。

「普通の小学生なら、人形遊びをしたり、ダンスやピアノを習うものだろう」と。

数学はいけない学問なのかとひとみは思った。

 父が数学に夢中になってる姿を見たことはない。

 しかし麻薬のように取りつかれたことがあるのかもしれない。

 ただ言葉とは裏腹に新しい算数の家庭教師が来て、いろんななぞなぞを出してくるようになった。

 微分学、積分学、解析幾何学、明らかに算数とは違う世界。

 全てがワクワクする時間であった。

 中学生になったある日、父親が「足利家のために数学を極めてくれ」と言った。

 そこで学校では数学の話は一切せずに、家に帰ると黙々と高等数学というなぞなぞを解く日々が続いた。

中学二年生の頃になると、今の家庭教師であるナゾラー先生に変わった。

ナゾラー先生は男の先生である。

いつも緑のスーツを着てるので、父がそう呼んでいたが、本名はわからない。

抽象代数学、関数論。

世の中にはどれほど難解で楽しみななぞなぞが存在しているのだろう。

それを考えるだけでひとみはワクワクしてしまう。

 だからこそ数の子先生の行動は迷惑以外の何ものでもなかった。

 数学はひとみにとっては秘かな楽しみの一つでしかないのだ。

金賞をとればきっと騒がれる。

行きたくもないパーティに呼ばれ、なぞなぞを解く時間を割かれるかもしれない。

そんな無意味な時間を過ごすくらいなら、数式を解いていたい。

AIが進歩し、計算そのものは人間がしなくてもいい時代だ。

だからと言ってコンピューターが何を計算しているのか分からないではしょうがないではないか。

それに計算こそが楽しいのだ。

そんな楽しみをコンピューターに奪われていいはずはない。

じゃあそもそも釣りをする時間は無駄ではないのかと言われそうだが、それこそが大いなる勘違いである。

無駄にも二種類存在するのだ。

必要な無駄と不必要な無駄。

魚釣りは言ってみれば瞑想に近い。

音楽も心を整える行動の一つ。

そして達成感も満たされる。

それに比べて表彰式や、校長との対話。新聞記者とか、市長なんかに会ったりする時間のなんと無駄なことか。

自分で選択できない時間とは人生の無駄使いなのだ。

金賞を取ったからと言ってけして優越感は満たされない。

世界にはまだ解かなければいけない難題がいっぱい残されているのだ。

それらをすべて解くまではきっと終わりは来ないのだ。

逆算しても人生とはなんと短いのだろうか。

私には暇がないのだ。

もし私にゆとりの時間が訪れるとすれば、それは数学というなぞなぞを解くことが嫌になった時であろう。

だから数学のオリンピックには心が躍らない。

騒がれれば変な目で見られるに決まってる。

それも気乗りしない要因の一つである

ひとみが数学の愚痴を人体模型にすると、この話題に関しては人体模型はやたらとうなづくことが多い気がした。

うなづいているから理解しているのかと思うが、どうも違うようである。

喋りこそしないがいつも横にいてくれる人体模型にすっかり癒されるようになっていた。

拒否反応を示しているのかもしれない。

人体模型だから何でも話を聞いてくれる。

それに甘えてしまっている。

数学が嫌いならごめんなさい。

「ねえ、みゆ」と人体模型にひとみは声をかける。

ひとみは無意識で人体模型のことを、「みゆ」と呼んでいることが多かった。

たまにそれに気が付いて、「ごめん、ごめん」と人体模型に謝るのだが、いつも返事はない。

 ただたまに感じることがある。

人体模型と話をしているのに、みゆと話をしているような錯覚に陥ることがあるのだ。

そして気が付くと目から涙がこぼれてる。

みゆ…。

目頭が熱くなる。

よそう、考えるのは…。

死んだ人は小説みたいに生まれ変わらないのだ。

輪廻転生は残された者の悲しみの妄想なのだ。

生まれ変わりを信じることで死ぬことへの恐怖を和らげようとしたのかもしれない。

全てが人間の弱さが創り上げた幻想ではないか。

宗教があることで人が悪いことをすることを抑制したり、報われない人生を送った人が来世で救われると希望を持てたりと、存在の意味を否定するつもりはない。

でも科学的な観点で宗教は非現実的だとひとみは思っている。

ただ多くの科学者が最後の最後に神の存在を信じるようになることに何らかの大いなる意志みたいなものがあるのかもしれないとも思う。

数学がなぜあんなにもきれいな公式で世界を創り上げているのか。

そこに神の存在を感じたとしても何ら疑う余地はない。

自分が産まれてきた意味を考えることじたい神の力に導かれているのかもしれない。

数式を解いていく中で神に近づきたいと願うものもいたはずだ。

数学は神が与えた謎解きなのだ。

結局神様を信じいるのだろうか。

違う。

神様の存在を確認したいために数式を解いてるわけじゃない。

数式を解くのはそれが自分に与えられた使命だからだ。

父の言葉がふと浮かぶ。

「数学は麻薬だ。お前も悪魔に憑りつかれる気か」

私を待っているのは神様ではなく悪魔なのかもしれない。


「みゆ」と呼んだあと、人体模型を見て我に返る。

みゆは死んだんだっけとそのたびに暗い気持ちになる。

ひとみはみゆのことは考えないようにしている。

みゆがこんなに可愛くないはずがない。

「やっぱり君は人体模型君だね」

人体模型はうなづく。

だからって忘れたわけじゃないからね。

みゆのこと忘れるわけがない。

毎日こうしてランチタイムを過ごしたのだ。

それの記憶を消し去ることはできはしない。

 もうみゆはいないのだと人体模型を見ながら思う。

 人体模型にみゆと名前をつけたら、みゆは嫌がるだろうか…。

「なんで私がこんなに気持ち悪いの」とみゆが怒る。

 そんなはずはない。

 みゆはきっと何も言わずそれを受け入れるに違いない。

「ごめんね、みゆ」とひとみが人体模型に話しかける。

 しかし人体模型はじっとひとみを見つめたまま黙っている。

「やっぱりみゆじゃないや。ごめんね、みゆ、気持ち悪い妄想をしちゃって…」とひとみは空に向かって謝る。

 すると人体模型はうなづいている。

「君のことを今日から人体君と呼ぶよ」とひとみは言った。

すると人体模型は首を横にひねった。


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