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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作者: ノイジョン


 手からなにかがこぼれ落ちる感覚だけがあった。


 反射的に瞼を開いていた。少し遅れて、硬い音。缶がコンクリートの床にぶつかる音だと思い当たって慌てて立ち上がると、その拍子に爪先が缶の横腹を叩いていた。

 やってしまった。

 中身がまだ半分くらいは残っていたようで、ビールの缶は盛大にその中身をまき散らしながら転がっていく。おそらくスーツの裾や鞄は無惨な状態だろうと足下を見下ろす。スーツの裾は案の定だったが、鞄などどこにも見当たらない。いかん、どこかに忘れてきたのか。記憶を辿ろうとするが、上手くいかなかった。会社を出たあと、どこかの店に一人で入ったところまでは覚えている――。

 そもそも、ここはどこだろう。

 駅のホーム。それくらいは見ればわかる。ただ、見覚えがない。自宅や会社の最寄り駅ではないし、何度か降りたことのある駅ならわかりそうなものだが。軽く周囲を見回すが、薄暗いホームには駅名の表示さえ見当たらなかった。

 どっか、とベンチに再び腰を下ろす。慌てても仕方がないさ、と自分に言い聞かせる。

 なんとなく状況は飲み込めた。どこかの店で閉店まで飲んだ挙げ句、缶ビール片手に電車に乗り込み、酔った頭でよくわからない駅で降りてしまったのだろう。ベンチに座って次の電車を待っている間に眠りこけてしまった。きっと、そんなところだ。

 アルコールを摂取しすぎた自分がどうなってしまうのかを、この年齢になって初めて知った。公共の場で酒を呑んで醜態を見せる、最も嫌いな人種に成り下がった自分の姿を思い浮かべると、不思議と笑いがこみ上げてくる。

 なにやってんだ。


 ◆◆◆


「離婚してください」

 目の前に置かれた紙がなんなのかわからなかった。無機質な紙と、同じくらい表情のない妻の顔とを何度も見比べ、それでも、いまいったいなにを言われたのかが理解できない。

「なんだ、これは」

 ようやく絞り出した言葉だった。

「離婚してください」

 妻は再度同じ言葉を繰り返した。これは決定事項なので、あなたは黙って署名しなさい、と言外に言っているようだった。

「なんだこれはっ!」

 もうすぐ定年じゃないか。もう四十年近く、家族のために働いてきた。その結果がこれか。たしかに、家のこと、子供のこと全部お前にまかせきりだったかもしれない。けれど、それだって家族を養っていくために必死で働いていたからじゃないか。これからは二人でゆっくり過ごせる。たまには旅行なんかも行って、お前との時間がもてる。そう思ってたのに――。

 頭の中に溢れた思いは、一つも言葉にならなかった。

「……そうか」

 口から出たのは、たったそれだけ。なぜかはわからない、わからないが、ただ一つわかったのは、私たち夫婦はいままでもずっとこうだった、ということだ。気持ちや考えを相手に伝える、ということを怠ってきた。娘がいた頃も、娘が結婚して家を出てからも、ずっと。そのことに私は無頓着で、妻は我慢ならなかった。そういうことなのかもしれない。


 ◆◆◆


 薄暗いホームに電車が入ってきた。

 車両のひとつが目の前で、まるで迎えにきたと言わんばかりに口を開けている。車内は満員ではないが空席などなく、つり革を握ったり、壁にもたれかかっている人もちらほらと目につく。皆一様に表情がない。

 無表情の妻の顔を思い出す。娘のところに行っただろうか。それとも今夜はまだ家にいるのか。できれば顔を合わせたくはないが、家に帰って誰もいない、というのも現実を突きつけられるようでつらい。

 帰りたくないな。

 煌々と光を垂れ流す車両をベンチに座ったまま眺めていると、小さな人影が私の横を追い越していった。まだ幼い少女のように見えた。ぼさぼさの髪は肩より少し下で不揃いに風になびいている。その手に十センチほどのパッチワークのような人形を持っていた。

 いつからいたのだろうと不思議に思った矢先、少女の姿は突然私の視界から消えた。

 少女は車両の入り口へ向かって駆けていった。そう、ちょうどホームから電車内に移ろうというところで、少女の頭の位置が一気に下がって……。

 まさか、落ちたのか? いや、まさか。いくら子供で痩せているからといって、人が落ちるほどの隙間があるようには見えない。

 私が立ち上がるのと、車両のドアが閉まるのがほぼ同時だった。半ば無意識に車両に向かって歩いていた。半信半疑の頭が、駆け寄ろうとする身体にブレーキをかける。本当にホームと電車の間に落ちていたのだとしたら、危ない。が、そんなことが有り得るのだろうか。そもそもそんな女の子が本当に存在したのだろうか。酔った頭が作り出した幻覚ではーー。

 迷っている間に、電車は走り出した。ぶしぅ、というような奇妙な音を聞いたような気がした。

 電車の走り去ったあとの線路を見下ろしてみたが、暗くてよく見えない。そもそもこの駅はいま時めずらしいくらいに明かりが足りていないのだ。うっすらと線路が見て取れるので、人が倒れているなどということはないだろう。そう自分に言い聞かせる。やはり少女などはじめから存在しなかったのだ。

 まだ酒が抜けきっていないらしい。少し歩いただけなのに身体がふらつく。まるで力が入らない。

 座って一旦落ち着こうと思いベンチのほうに向き直ると、そこには小さな女の子が座っていた。




 私もいい大人だ。心底おどろいたが、さすがに声を上げたりはしない。

 しかし、これでほぼ決まりだ。目の前の少女は幻覚に違いない。やはり、飲み過ぎは身体に毒だと思った。

 少女はというと、こちらを気にする素振りもなく、薄汚れた人形の顔をじっと見つめて、なにか話しかけているようだった。そばに寄っても聞こえないくらい小さな声で、なにを言っているのかはまったく聞き取れない。きっと少女とその人形だけの特別な言語で会話をしているのだろう。

 少し間を空けて座ることにした。いまは人形とのおしゃべりに夢中なのか、少女がこちらを気にする様子はない。

 やはりどう見ても、さっきの少女だ。ぼさぼさの髪に汚れた人形、間違いようがない。なにかこう、家庭環境が心配になるような風体だ。

 そもそもこんな遅くに駅に少女がひとりでいるというのはどうなのだろう。見たところ四、五歳といったところだがーー。反射的に腕時計を見ていた。十一時四十二分。親はいっしょじゃないのかと、辺りを見回すが少女以外に人影はない。

 いやいや、この子は幻覚なのだから親なんているわけがないじゃないか。再度そう言い聞かせるが、目の前の少女は酔いが見せている幻覚にしては妙に生々しい。

 幻覚、じゃないのか?

 現実に存在しているのかもしれない。そう考え出すと、だんだん心配になってきた。まだ小さい頃の娘の姿を重ねてしまったのかもしれない。迷子か家出か。いずれにせよ、親御さんは心配しているだろう。なにか力になれないものかと、声をかけようとした矢先、

「また乗れなかった」

 少女がぽつりと呟いた。小さな声だったが、今度ははっきりと聞こえた。

 その一言で背筋に冷たいものが走る。少女はやはりさっきの電車に乗ろうとしていたのだ。そう思うと、隙間に落ちていったように見えたことまで本当らしく思えてしまう。けれど、そんなはずはないのだ。だとしたら、少女はなぜここに座っていて、のんきに人形とおしゃべりしているのだ。

 不意に、少女がこちらを振り向く。咄嗟のことで、身動きひとつとれずに目が合ってしまった。

 少女は薄汚れた印象ではあったがおよそ恐ろしげな様子はなく、曇りのない目でこちらを見上げてくる。

「おじさんは?」

 少女の質問の意味がわからずかたまっていると、少女はそれを察したらしい。

「おじさんはどうして乗らなかったの?」

「どうして、って……」

 どうして。そう聞かれると難しい。定年退職や熟年離婚のことなど、子供に話してわかるだろうかと思うし、わざわざ話すようなこととも思わない。しかし、小さな子供の澄んだ目で問いかけられると、質問にはどうにか誠実に応えねばという気にさせられる。どうしたものかと悩んだ挙げ句、

「なんとなく、家に帰りたくない気分なんだよ」

 と、なんとも曖昧な答えが口をついた。

 少女は首をかしげる。

 そうだよな。いまのじゃわからんよな。

「電車に乗っても、おうちには帰れないんだよ?」

 またもや少女の言っている意味が、よくわからない。

 だったら、なぜ君は電車を待っているんだと聞きたくなる。ちょっと付き合っていられない気分になって、強引に話題を変えることにした。

「パパやママは? いっしょじゃないの?」

 少女は首を振る。

「おうちは? この近く?」

 首をかしげる。

 警察に相談すべきかとも思ったが、スマホはいつも鞄の中に入れていたから、手元にない。だとしたらここの駅員を探したほうが手っ取り早い。

「おじさんといっしょに駅員さんのとこ、行こうか」

 頑張って笑顔を作りながら言うが、少女は首をかしげたまま。

「駅員さん、いないよ」

「いない?」

 そんなはずはないだろう。

 この駅のことはよく知らないが、どこかに駅員室はあるはずだし、駅に駅員不在なんてことがあるだろうか。そう思い、探しに行こうと立ち上がると、ワイシャツの袖をつかまれた。

 振り向くと少女がいやいやをするように首を振る。

「電車」

「どこの駅で降りるのかは? わかる?」

 少女は首をかしげる。

 やっぱり。それでは、電車に乗ったところで帰れる保証はないじゃないか。

「やっぱり駅員さんのとこに行こう。で、おまわりさん呼んでもらって……」

「いないのっ」

 どうしてここまで頑ななのか理解に苦しむ。警察にまかせたほうが安心だろうに。警察になにか嫌な思い出でもあるのか。しかし、ここまで嫌がっているのを無理矢理に、というのもどうにも気がひけた。

「おじさんは、乗りたくないの?」

 乗りたくないとまでは言わないが、気が乗らないのはたしかだった。

「……いらないなら、もらってもいい?」

 少女がどこか遠慮がちに、そう聞いてきた。もらう? なにを?

「乗車券……」

 切符のことか。やけに難しい言い方をするな、と思った。なくしたのか、そもそも持っていなかったのか。だから、駅員のところに行きたくなかったのだろうか。

 ポケットに手を入れながら、よく考えるとここ数年の間、切符というものを買っていないことに気がついた。定期やICカードなら持っているはずだが、譲るわけにはいかないし。やはり一度改札を出てこの子の分の切符を買ってくるべきか。

「ごめんね。おじさんも切符持ってないからちょっと買いに……」

 ポケットの奥に、厚みのない硬い感触があった。つまんだその手を目の前に翳すと、既視感のある小さな型紙にただ”乗車券”とだけ印字された違和感の塊のような代物が現れた。

 少女は期待のこもった眼差しで、その”乗車券”をじっと見つめていた。

 なんだ、これは。


 なんの冗談だ。どっきりか? 辺りを見回すが、ドッキリ大成功の看板を持った人物は現れない。

 ということは、目の前の少女の仕込みか? それにしては切符の完成度が高すぎる。やはりこれは、ここで起きていることのすべてが幻覚か、夢を見ているかのどちらかとしか思えない。

「これ、あげようか」

 なにやら馬鹿馬鹿しく思えてきた。半ば投げ遣りな気持ちで、少女に”乗車券”を差し出す。少女はそれに手を伸ばしかけて……またしても首を振った。

 今度はなんなんだ。

「あのね、おかあさんのこと心配なの。おうちかえりたい、って思っちゃうの。でもね、それだとダメなの。電車、乗れないの」

 さすがに夢だ。どんどん支離滅裂になっていく。もうそろそろ目が覚めてくれればいいのに、と思いながらも目の前の少女を無視はできなかった。やっていられない気持ちをため息とともに吐き出すと、なんとか笑顔を作り出す。

「わかった。明日、おじさんがちゃんとお嬢ちゃんの家に様子を見に行く。お嬢ちゃんはなんにも心配しなくていいから、これ持って電車に乗りなさい。ね」

 そう言って、少女の小さな手に”乗車券”を握らせる。

 しばらく私の顔と”乗車券”を見比べていた少女は、ようやく笑顔でうなずいた。

「ありがとう」

 そう言うやいなや、少女は人形の手を引いて駆けだした。いつの間にか次の電車がホームに入ってきていた。”乗車券”を握った少女は今度は電車にしっかりと乗り込んだ。ぶんぶんと手を振る少女につられて手を振り返している間に、またしても電車に乗り損ねたことに気がついた。

 腕時計を見る。十一時四十二分。大丈夫、終電までにはまだ時間がある。

 しばらく待っていると、次の電車がホームに到着する。車両に乗り込もうと、入り口のドアが開くのを待ってから一歩踏み出した私の足は、そのまま車両の床を突き抜けた。驚く間もなく、バランスを崩して落下した私の身体は無様に線路の上に横たわっていた。

 なんだ、これは。

 いったい、なにが起きた?

 高いところからなにやら楽しげな発車メロディが聞こえてくる。いやだ。待ってくれ。ドアの閉まる音。ここに人がいるんだ。いやだ。やめてくれ。たのむ。待って。

 すぐそばで、ぶしぅ、とすさまじい音がした。




 瞼を開いた。薄暗い駅のホーム。気がつくとベンチに座っていた。


 やはり、これでいい気がしてきたので、今作の修正はやめて別の作品でも書こうかと思います。

 最後までお読みくださりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 感想返信ありがとうございました。 申し訳ありません、鞄と靴を読み間違えておりました(汗)
[良い点] 何とも言えない後味で、とても面白かったです。 主人公がやけになり、人生で初めて深酒をして羽目を外した結果、生死の境目を外れてしまったのでしょうか。 一度読んでから読み返すと靴が無かった、と…
[良い点] 夏のホラー2019で読ませていただいた時、丁寧な文章が印象に残りました。 今度の作品も、序盤の家庭不和のただ中で疲れ切った男の心情から、謎の少女や奇怪な現状で不安感の増す中盤、そして取り返…
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