063
翌朝、目が覚めた瞬間に、ペトラは体の異変を察知した。
頭がボーッとする。息が苦しい。そして、咳が止まらない。
「ペトラ! 大丈夫!?」
ペトラの部屋にニーナが駆け込んできた。
どんな時でもノックを欠かさなかった彼女が、ノックをせずに扉を開ける。
「ニーナ、ゲホッ、やったよ、ゲホッ、ゲホッ、貴族病、ゲホッ、罹った」
ペトラはベッドの上で身体を起こし、青白い顔で力なく微笑む。
貴族病に罹るかどうかは賭けだった。
生牡蠣がそうであるように、当たり外れが存在する。
罹らなければ、魔山羊のミルクの有効性を検証できない。
「待ってて! すぐにミルクを作るから!」
ニーナは大慌てで部屋を飛び出す。
一直線に牛舎へ駆け込み、魔山羊の乳を搾る。
「モォー!」「モォー!」
そこにいた魔牛達が喚く。
魔山羊よりも先に自分達の乳を搾れ、と。
「貴方達は後よ!」
ニーナがピシャリと言い放つ。
その気迫に気圧されて、魔牛達は大人しくなった。
緊急事態であることを把握したのかもしれない。
「あとはこれを……」
搾乳が終わると、ニーナは加工場へ向かう。
だが、加工場で問題が発生した。
牛乳機が動かないのだ。
「ちょっと、あれ、なんで!? 動いてよ!」
スイッチを何度も押すが反応しない。
牛乳機は完全に静まっていた。
これは機械が故障しているわけではなく、ニーナのミスだ。
牛乳機は最終工程まで完遂できる状態でなければ動かない。
ニーナは加工後のミルクを入れる容器をセットし忘れていた。
しかし、これはニーナだけのミスではない。
ペトラは牛乳機の説明をする際に、その話をしていなかったのだ。
今の慌てたニーナが気付かないのは無理もなかった。
「ここで故障? いや、そうと決めつけるのは早いわ。考えろ私」
ニーナは半ば強引に気持ちを落ち着かせる。
まずは自分の作業に漏れがないかを振り返った。
なにもない。
ペトラに教わったことを守っている。
では、ペトラはどうしていたか。
自分に教えていない作業を何かしていなかったか。
「容器のセットだ!」
ニーナは気付いた。
魔山羊のミルクを入れる為の空き瓶を牛乳機にセットする。
それからもう一度スイッチを押した。
ゴゴゴゴォ!
今度はしっかりと動く。
生乳が自動で加工されて、瓶の中に注がれていく。
そうして瓶の中がいっぱいになると、蓋を閉めて次の空き瓶へ。
「あとはこれを運ぶだけ!」
ニーナは魔山羊のミルクが入った瓶を持って館に駆け込む。
走り慣れていないせいで何度も転びかけた。
「ペトラ、持ってきたよ!」
部屋に入るなり、ニーナは瓶の蓋を開け、瓶をペトラに渡す。
ペトラはそれを受け取ると、ニーナにお礼を言ってから飲んだ。
「ゴボォ」
飲んでいる最中に咳が出て、瓶の中にミルクが逆流する。
ベッドにもいくらか飛び散った。
それでもペトラはしっかりと飲みきる。
「あー不味かったぁ」
うげぇと舌を出して顔を歪めるペトラ。
あまりの不味さに涙を浮かべている。
だが、咳は止まっていた。
「喉の痛みが消えた!」
ペトラが言う。
「他はどう?」
「大丈夫。頭もぼーっとしなくなったし、息苦しさもなくなったよ」
「じゃあ……!」
二人の目が輝く。
ペトラが声を弾ませた。
「このミルクで貴族病を治せるよ!」
◇
ペトラは牧場の護衛を担当する衛兵に頼み、ナッシュへ手紙を送った。
自分が立てた仮説や自らを人柱とした検証など、事の詳細に報告する。
ナッシュからの返事はなかった。
だが、手紙が届いていることは分かった。
1週間後、貴族病の発症者が全て回復したと新聞で報じられたからだ。
特効薬としてペトラ達が開発した魔山羊のミルクの情報が出ていた。
とはいえ、回復するまでの間に大半が亡くなった。
最終的に生き残ったのは4人。
王族は国王のみで、大臣も3人しか残っていない。
あとは特効薬を作っている段階で命を落としてしまった。
貴族病からの回復を新聞が報じた翌日。
ナッシュがペトラの牧場へやってきた。
今回は護衛の兵士を付けず、白馬に乗っての登場だ。
ペトラとナッシュ、それにニーナが牧場の敷地内で顔を合わせる。
「返事ができなくてすまなかった。バタバタしていてな」
馬から下りるなり、ナッシュは頭を下げた。
「気にしないで。仕方ないよ。私のほうこそ遅くなってごめん。一回目の段階で閃いていたら、もっと多くの人を救えたのに」
一回目の段階とは、王都へ戻る最中のナッシュに報告した時のこと。
あの時点でペトラが正解を閃いていたら、倍以上の人間が救われた。
「少しであろうと君の閃きで救われた人間がいるのは事実だ。一回目の段階で云々というのは結果論に過ぎない。君は自分の成果を誇るべきであって、そんな悔しそうに涙を浮かべるべきではない」
ナッシュは優しく微笑むと、指でペトラの涙を拭う。
「それはそうと、今回は父の使いとして此処へ来たのだ」
ナッシュが話題を変えた。
「使い? 勅使ってこと?」
「そうだ。君の閃きによって、魔山羊のミルクは治療薬としての効果があると分かった。それも回復魔法や解毒魔法では手の届かない分野に対する効果だ。これは世界の医療を大きく発展させることに繋がる。その功績を讃える為、我が父、いや、国王陛下が直々に会いたいとのことだ」
「すごい名誉なことじゃない! 流石はペトラね!」
ニーナが嬉しそうに手を叩く。
彼女は純粋にペトラのことを祝っていた。
「ありがとう」
そう言って微笑むペトラ。
「でも、これは私だけの功績じゃない」
「と言うと?」
ペトラの視線がナッシュからニーナに移る。
「私とニーナの功績よ」
「ペトラ、何を言っているの。特効薬の仮説を閃いたのは貴方だけでしょ。私は最初の段階までしか閃かなかった。なんの功績もないわよ」
「ううん。ニーナがいたからこそだよ。もしも私だけだったら、そもそも最初の閃きはなかった。生牡蠣で食あたりを引き起こした時に魔山羊のミルクを飲もうとは思わなかったもの。デミグラス牛乳だけで凌いでいたわ」
「そんなの嘘よ」
「本当よ」
ペトラは頑なに譲らない。
彼女はニーナに、それ以上の反論を許さなかった。
「だからナッシュ、これは私達の手柄なの。私だけのものじゃない。そういうことでいいよね?」
「分かった。ではそういうことにしよう」
「そう」
ペトラがニヤリと笑う。
それからこう言った。
「だったらここからが本題よ」