062
その日、ペトラはバーチェスコウモリのコンフィを食べた。
牧場で飼っている魔山羊にも同じ物を食べさせる。
「半日もすれば発症するらしいから、明日の朝には咳と高熱にうなされているはず。ニーナ、もしもの時は頼むわよ」
「任せて」
「それじゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
各々の部屋に入るペトラとニーナ。
「ニーナが隠し事をしているのは分かっていたけど、あんなに大きな爆弾を隠していたなんてね……」
ベッドに横たわって呟くペトラ。
「まさか本当にニーナとニーナが同一人物だったなんて」
ニーナ・キーリスとニーナ・パピクルスが同一人物。
通常ならありえないことだが、ペトラはそんな予感がしていた。
予感といっても、まさかね、と笑って流す程度のもの。
おそらくそうだろう、という程の強い確信はなかった。
ペトラがそんな予感を抱いたのは、ニーナの立ち振る舞いだ。
所作の一つ一つに、貴族を彷彿とさせる優美さがあった。
馬車に忍び込むような人間には似つかわしくない動きだ。
他にも些細な違和感がいくつもあった。
例えば考え事をするときに顎を摘まむ癖がそうだ。
だからペトラは、通常ならありえない予感を抱いていた。
「明日が楽しみだなぁ」
ふふっ、とニヤけるペトラ。
彼女は既にショックを乗り越えていた。
過去にこだわらない彼女の性格によるものだ。
今のニーナは改心しているので何も問題ない。
そんな風に考えて、ペトラは心地よく眠るのだった。
◇
ペトラがぐっすり眠っている頃、ニーナは――。
(優しすぎるよ、ペトラ……)
――枕に顔を埋めて泣いていた。
ペトラが許してくれても、自分で自分が許せなかった。
今までの行いを振り返れば振り返る程に反吐が出る。
とはいえ、今日は安眠できそうだ。
全てを話したことによって、胸中のもやもやが消えていた。
罪悪感がもたらす胃に穴が空きそうな感覚もなくなっている。
「見損なったぞ、ニーナ」
扉の付近から男の声。
ニーナは飛び起きて、声のする方向へ目を向けた。
そこにいたのは――賢者に憑依されたハリソンだ。
「貴方、どうして此処に……?」
「お前がペトラの牧場で働いていると知ったから様子を見に来たのだ。するとなんだあのザマは。すっかり別人になったじゃないか」
「見ていたのね、厨房でのやり取り」
「我が輩の知っているお前は歪んだ感情で燃えていた。それがお前の魅力だったというのに。顔が変わったことで心まで変わってしまったか」
「貴方には関係ないわ」
「たしかに我が輩には関係ない」
「分かっているなら出て行ってちょうだい」
「まぁそう邪険にするな」
ハリソンはベッドの前まで移動し、ニーナを見下ろす。
「ニーナ、もう一度我が輩と組まないか?」
「なんですって?」
「これはかねてよりお前が願っていたチャンスだろう。ペトラは自ら貴族病になる道を選んだ。お前の匙加減によっては簡単に殺せる。それも罪に問われない形でだ」
「……」
「だが、我が輩と組めばもっと良い道がある。お前の容姿をペトラにして、ペトラの容姿をお前にするのだ。そして、死んだのはニーナ・キーリスということにする。お前はペトラ・カーペンタリアとして生きていけるわけだ。先日開かれたポロネイア王国の祝宴で、ルークはペトラをまだ愛していると言っていた。お前がペトラに成り代われば、あやつの愛はお前に向くわけだ」
「……」
「もはやニーナとしてルークをモノにするのは不可能だ。それはお前だって分かっているだろう。だが、ペトラとしてなら可能だ。この際、それでもかまわないだろう。お前はルークをモノにできるのだから」
「……」
饒舌なハリソンに対して、ニーナは無言だ。
「どうした? 何か言わないか」
ハリソンが苛立ちの言葉をぶつける。
「言いたいことはそれだけ?」
「なんだと?」
「そんな話に私が乗るわけないでしょ」
「どうしてだ? 魅力的な提案だろう」
「たしかに過去の私だったら魅力に思うかもね。最終手段としてペトラになりきるという手を考えたこともあるから」
「だったらどうして」
「変わったのよ、私は」
「なんだと?」
「貴方の言う通り、顔が変わって心まで変わったの」
「馬鹿なことを言うな。目を覚ませ。我が輩をもっと楽しませろ」
「諦めてちょうだい。私はもう、ペトラに対して一欠片の悪意も持ち合わせていない。それに、ルーク様と結ばれたいとも考えていないの。それらは全て過去の話なのよ。ニーナ・パピクルスはもういない。私はニーナ・キーリスなのよ」
「なんと愚かな……」
「貴方には感謝しているわ、ハリソン。貴方のおかげで、私はどこまでも黒く染まれた。奈落の底まで落ちることができた。それによって自分を見つめることができたし、こうして生まれ変わることができた。でも、もうおしまいよ」
ニーナは力強い眼差しでハリソンを睨む。
「二度と私の、いいえ、私達の前に現れないでちょうだい」
「……よかろう」
ハリソンはニーナに背を向け、ゆっくりと歩いていく。
「一つ訊かせてちょうだい」
ニーナの言葉でハリソンが足を止める。
「貴族病も貴方の仕業?」
「そんなわけなかろう」
ハリソンはニーナに背を向けたまま答える。
「我が輩ならもっと派手な死に方をさせるさ」
「それもそっか」
ハリソンは「ふっ」と笑った。
「さらばだ、ニーナ」
「さようなら」
ハリソンは扉を開けることなく、その場から忽然と姿を消した。