061
ペトラは予期していた。
貴族病による死亡件数が加速度的に増加することを。
だから彼女は、最大限のリスクを冒すことにした。
ニーナの提案する生牡蠣を使った臨床実験をパスする。
そして――。
「私がバーチェスコウモリの肉を食べて貴族病に罹る」
初っ端から貴族病で効果を確かめることにしたのだ。
被験者となるのはペトラ自身である。
「そんなの駄目よ!」
ニーナが怒声を放つ。
「もしも貴方の仮説が外れていたらどうするの? 貴方は貴族病から回復できないままになるのよ。そうなったら貴方の命だって」
「覚悟の上よ」
ペトラはコウモリの肉の調理に取りかかる。
晩餐会で国王や王子達が食べたのは、コンフィと呼ばれる調理法の料理。
コンフィとは、油に浸して低温でじっくり煮るものだ。
ペトラはそれを再現した。
「待って、それなら私が食べる」
ニーナは説得の方向を変えることにした。
ペトラの性格上、調理をやめさせることは不可能だ。
だから、人柱になる人間を変える方向で調整する。
「駄目。ニーナには食べさせない。これは私の仮説なんだから。自分の仮説を証明するのに他人を犠牲にするなんてありえない」
もちろん、ペトラはニーナの提案を認めない。
ニーナもこの流れは予想できていた。
「そうね、たしかに貴方ならそう言うでしょう」
ニーナは真っ直ぐにペトラを見る。
ペトラも調理の手を止め、体をニーナに向けた。
「でも、ここは私に食べさせて。それが私の貴方に対する贖罪だから」
「贖罪……?」
ペトラは首を傾げた。
「実は私、貴方にずっと隠していたことがあるの」
「隠していたことって?」
「貴方が大親友だと言ったニーナ・パピクルス。それは私なのよ」
「ちょっと、何を言って……」
「それに貴方が大親友だと思っていた私は、陰で貴方にとても酷いことばかりしてきた。それを今から全て話すわ」
これまでとは違い、ニーナに躊躇いはなかった。
◇
それからニーナは、真実を話した。
自身の行ってきた悪事の全てを包み隠さずに。
未遂に終わったものまでさらけ出す。
話している最中、ニーナは何度も泣きかけた。
しかし、その気持ちを必死に堪えて泣かなかった。
ここで泣くのはずるいと思ったのだ。
それに泣きたいのはペトラのほうだ。
ペトラは終始、無言で聞き続けていた。
口をポカンと開け、その場で固まっていた。
「――で、今に至るというわけ」
ニーナが話し終えても、ペトラはしばらく動かなかった。
目をぱちくりさせるだけで、完全に停止している。
「分かったでしょ? 私は本当に酷い女なのよ。酷いなんてものじゃない。貴方の人生をズタズタにぶち壊した。本当なら貴方はルーク様と結婚して幸せだったはずなのに、それを私が台無しにした。だからバーチェスコウモリの肉は私が食べる。それで罪を贖いきれるとは思わないけれど、ほんの少しは贖罪になるでしょ」
ここでようやくペトラが動き出した。
おもむろに開かれた彼女の口から発せられた言葉、それは。
「そっか」
この一言だった。
そこからまたしばらくの沈黙が訪れる。
その間も、鍋に入ったコウモリの肉は弱火で煮込まれている。
完成するのも時間の問題だった。
「ちょっと、いや、ちょっとじゃないや、かなり驚いちゃった」
色々な気持ちがこみ上げて、何故か笑顔になるペトラ。
笑いたくて笑っているのではない。
あらゆる感情が混ざった結果、歪んだ笑顔になったのだ。
「とんでもない話だったけど……今の話が嘘じゃないってことは分かる。私とパピクルス家のニーナしか知らない話もあったから。でも、まさか自分が唯一無二の大親友だと思っていた人が、実は自分のことを嫌っていたなんてね」
「たぶんだけど、嫌っていたというより嫉妬が強かったのだと思う。ニーナ・パピクルスとして貴方と接している時、最初から腹黒い気持ちで近づいていたのに、一緒に過ごす時間自体は楽しく思えた。だから、多少の好意はあったのかもしれない。でも、それ以上に、私は嫉妬していた」
「なるほどね……。今もその気持ちは変わらない?」
「そんなわけないじゃない。もし今もどす黒い感情を抱いているなら、貴方に真実を話そうとはしていないわ。それに自分が人柱になるとも言わない。利用するだけ利用してやろうって考えるはず」
「じゃあ、今は純粋に仲間として見ているの?」
「私はね……。でも、貴方に同じ気持ちを抱いてほしいとは言えない。言う資格なんてないし、言っても無理なのは分かってる。私が貴方の立場なら絶対に許せないから」
「そっか」
ペトラの歪んだ笑いが消えた。
いつになく真剣な目でニーナを見る。
「たしかに贖罪は必要よね」
「でしょ。だから」
次の瞬間、ニーナの顔の向きが変わった。
真っ直ぐに捉えていたはずのペトラが視界から消える。
目にも止まらぬ速さでペトラに頬をぶたれたのだ。
「おしまいよ」
ペトラの震えた声が聞こえる。
ニーナが視線を戻すと、ペトラは泣いていた。
「これで貴方の贖罪はおしまい!」
「えっ? たった一度のビンタでおしまい?」
「そう。私の人生初にして最後となるビンタでおしまい!」
「そんな……。そんなので許されないでしょ」
「私が許すって決めたの!」
ペトラが怒鳴るように言った。
「たしかにニーナ・パピクルスは私に酷いことをした。でもそれは過去の貴方がしでかしたことだから。今の貴方はニーナ・キーリスでしょ。名前も、顔も、心まで変わった。だからこれで許す!」
「そんな無茶苦茶な」
「反論は聞かない! 私がそう決めたらそうなの!」
ペトラは涙を拭い、ニッと笑った。
「バーチェスコウモリの肉は私が食べる。これは譲れない。貴方の贖罪はさっきのビンタで済んだからね。それに、今までのことを反省していると言うのなら、行動をもって誠意を示してちょうだい」
「行動をもって誠意を示す……?」
「もしも魔山羊のミルクが効かなくて私が倒れたら、この牧場は貴方が引き継ぐのよ。どういうわけかデミグラス牛乳は私しか作れないから、貴方は別の畜産物で牧場を維持することになる。自分で言うのもなんだけど、人間国宝である私の後を継ぐのは生半可なことじゃないからね」
ペトラが右手をニーナの肩に置く。
「信じているからね、ニーナ」
ニーナがその場に崩れる。
我慢が限界を超え、彼女は盛大に泣きじゃくった。