057
牧場仕事の最後は魔牛の放牧だ。
ペトラは適当な魔牛に跨がり、他の魔牛達とじゃれあう。
鬼ごっこをしたり、競争をしたり、遊び方はその日によって異なる。
その間、ニーナは魔鶏と魔山羊の世話をしていた。
特に力を入れているのは魔山羊だ。
(どうにかして美味しいミルクにならないかしら)
ニーナは魔山羊のミルクを改善したいと考えていた。
デミグラス牛乳ほどの画期的な味になる必要はない。
一般的な山羊のミルクと同等の味になればそれでいいのだ。
魔山羊は一頭しかおらず、魔牛と同じく牛舎で飼われている。
魔牛が放牧中の今、牛舎には魔山羊とニーナしかいない。
「美味しくなーれ、美味しくなーれ」
ニーナは愛情を込めて何度も撫で回した。
魔山羊は嬉しそうに鳴き、ニーナに体を擦りつける。
(魔物と触れあうなんて、昔だったら考えられないわね)
パピクルス家の令嬢だった頃、ニーナは魔物を嫌っていた。
まるで汚物を見るかのような目を魔物に向けていたのだ。
(どのくらい不味いのか確かめておけばよかったなぁ……)
ニーナは魔山羊のミルクを味見していない。
だから、不味さの度合いが分からなかった。
ただ、相当な不味さであることは間違いない。
なんたってあのペトラが飲むのを嫌がるのだから。
「それにしても……」
ニーナが牛舎の外に目を向ける。
少し前に増設した業務用の巨大冷蔵庫が見えた。
その冷蔵庫には、魔山羊のミルクばかり蓄えられていた。
今回作った魔山羊のミルクもそこに収納されている。
破棄はしたくないが飲みたくもない、というペトラの意思の表れだ。
「いずれは処分しないといけないのに、蓄えてどうするのかしら。ペトラのことだから、きっと後のことは何も考えていないのだろうなぁ。そこがペトラらしいのだけれど」
ニーナはクスッと笑った。
◇
夕食の時間。
今日はペトラが一人で夕食を作っている。
ニーナが「考え事をしたい」と言って自室に篭もったからだ。
「これ以上は耐えられないわ……」
ニーナは罪悪感から死にそうになっていた。
牧場で作業をしている時は、忙しさから考えずにいられた。
しかし作業が終わると、途端に強烈な罪悪感がこみ上げてくる。
ペトラに全てを話し、全力の土下座をもって謝罪したい。
そして、すっきりした気持ちでペトラとこの牧場で過ごしたい。
「――なんて、あまりに都合の良すぎる考えだわ」
自分が逆の立場だったら許さないどころの話では済まない。
怒りの余り殺してしまうかもしれない。
ただ、相手はペトラだ。
ペトラが怒り狂って人を殺すとは考えられない。
おそらく追放されるだろう、とニーナは考えていた。
「でも、ここを追い出されたら生きていけない……」
罪悪感と同じくらい、死にたくないという気持ちがある。
牧場を追い出された場合、彼女に行くあてはなかった。
それに、今の生活は本当に楽しいものだ。
この生活を手放したくはなかった。
「もしも全てを話して許してもらえたら、きっとすごく幸せな時間を過ごせるに違いない。今以上に、心からここでの生活を楽しめるわ。でも、そんなことはあり得ないし……」
ニーナは両手で髪の毛をクシャクシャにする。
「かといって黙ったままなのも辛すぎる……。この調子だと1週間もしない間に胃に穴が空いて死んでしまうわ……」
まさに進むも地獄、退くも地獄といった状況だ。
「それでも……言うべきよね」
ニーナは覚悟を強めていく。
ペトラに嘘をつき続ける人生に終止符を打とう。
誠心誠意の謝罪をして駄目なら受け入れるしかない。
――そう思った時のことだった。
「なっ! こ、これは……!」
突如、とんでもない激痛がニーナを襲ったのだ。
痛みの箇所は腹。
これまでの人生で体験したことのない痛みだった。
まるで体の内側から剣でズタズタに切り刻まれているかのよう。
「ヴォエ……ッ!」
同時に吐き気も催す。
全身からさーっと血の気が引いていく。
(まずいまずいまずい)
ニーナは慌てて部屋を出て、トイレに駆け込んだ。
「ヴォェエエエエエエエ!」
便器に向かって盛大に嘔吐する。
それから休むことなく、今度は腹痛の処理だ。
完全に液状化した下痢が解き放たれた。
「なに……これ……」
ニーナは現状が把握できなかった。
つい先ほどまで元気だったのに、今では死にそうだ。
必死に思考を巡らし、なにがどうなっているのかを考える。
「もしかして……!」
思い当たる節があった。
それと同時に廊下を駆け抜ける音が聞こえる。
目の前にある扉のドアノブがガタガタと激しく動く。
ペトラがトイレに駆け込もうとしたのだ。
「ニーナ、中にいるの!?」
「うん、ペトラ、もしかして貴方も……?」
「ええ、そうよ」
ペトラは死にそうな声で叫んだ。
「これが生牡蠣による食当たりよ!」
ニーナの顔がますます青ざめる。
「今まで平気だったのにどうして!?」
「そういうものなのよ! 生牡蠣にあたると約24時間から48時間後に発症するの! ニーナ、しばらく地獄が続くからそこにいなさい!」
ペトラの足音が離れていく。
彼女は別のトイレに駆け込んだのだ。
大きな館であるが故に、複数のトイレがある。
それが館の衛生環境を救った。
「ヴォェェエ!」
断続的な嘔吐と下痢がニーナを襲う。
ペトラに言われるまでもなく、ニーナはトイレから出られなかった。
便器にしがみついてでもこの場に留まりたいくらいだ。
「ニーナ……」
しばらくしてペトラが戻ってきた。
「ペトラ……私達、死ぬの……?」
「死なない。死なないけど、今日と明日はこんな状態よ」
「そんな……ヴォェエェ!」
再度の嘔吐。
「ニーナ、生牡蠣にあたったらとにかく水分補給が大事よ。このままだと私達、脱水症になっちゃう。厨房に行って水を飲むわよ」
「う、うん」
ニーナがトイレの水を流そうとして、レバーを動かす。
すると次の瞬間――トイレの電気が消えた。水も流れない。
「なんでこんなタイミングで!」
ペトラの苛立つ声。
「なに? どうしたの? トイレが動かないし、電気も消えたけど」
「……魔力切れよ」