056
「私……生きてる」
翌朝、目を覚ますと同時にニーナは呟いた。
昨夜食べた生牡蠣によって死を覚悟していたが、そんなことはない。
体調はなんら変わりなかった。
「おっはよー!」
タイミングを見計らったかのようにペトラが飛び込んでくる。
「ペトラ……ノックくらいしなさいな」
「もー! そんなニーナみたいなことを言って! あ、今のニーナは」
「大親友のニーナ・パピクルスのこと、でしょ?」
「そうそう! そのとーり!」
ペトラは笑顔でニーナに近づくと、ベッドの掛け布団を掻っ払った。
「お仕事の時間だよ!」
「まだ日が昇りきっていないよ」
「魔物牧場の朝は早いのだ!」
「だからってこれは早すぎない?」
「私達しかいないからね! さ、起きた起きた!」
半ば強引にベッドから出されるニーナ。
(ペトラも元気そう。私の何倍もの量の生牡蠣を食べていたのに。なんだ、牡蠣って生で食べても問題ないんじゃない。生の方が遙かに美味しいし、今まで生で食べていなかったことが勿体ないと思えるわね)
嬉しそうなペトラを見て、ニーナは頬を緩めた。
◇
これまで数々の酒場をクビになってきたニーナ。
しかし、魔物牧場では最低限の仕事をこなすことができた。
「これでいいの?」
「うん! 簡単でしょ!」
「たしかに」
ニーナの仕事は魔鶏と魔山羊の世話をすること。
それと、採取した魔鶏の卵を加工場で加工するのも彼女の仕事だ。
「魔山羊のミルクは加工しないの?」
加工場に着くと、ニーナが尋ねた。
ペトラは牛乳機に魔牛の生乳を流し込みながら答える。
「どうしようか悩んでいるのよね」
「悩む? どうして?」
「加工すると同じ味になっちゃうの。なんかお薬のような不味い味。餌とか飼育法を変えて色々と試してはいるのだけど、どうやっても味が同じになる。でも、牛乳機で加工していない状態だと、ほんの少しだけ味が異なるのよね」
「えっ!? もしかして生乳を飲んだの!?」
「ちょっとだけね。飲み過ぎるのは危険だけど、ちょっとなら大丈夫」
「いやいやいや、ちょっとでも駄目でしょ。魔物のミルクなんだから」
ニーナは心配になった。
魔物の生乳は、場合によっては強い毒性を持っている場合がある。
よく今まで死なずに済んでいるな、と驚きの目でペトラを見つめた。
「大袈裟だなぁ。大丈夫大丈夫! 人間国宝が言うから間違いない!」
「だといいけど、危険なことはしたら駄目だよ」
ペトラはニッコリしながら「はーい」と軽い調子で言った。
それから表情を引き締めて、「そんなわけで」と話を進める。
「牛乳機で加工するのは迷うところなんだよね。加工するにしても別の方法で加工できたらもっと美味しくなるのかなぁー、なんて思うの」
「別の方法って、どんな方法?」
「それは…………今のところ不明!」
「だったら今日は牛乳機で加工するべきじゃない? 魔物のミルクって、早く加工しないと腐っちゃうでしょ?」
「おー、よく知ってるね! 普通の人はそこまで魔物の畜産物について知らないものなんだけど」
ニーナはギクッと体を震わせた。
ニーナ・キーリスという人間なら知らないはずの知識である。
彼女が知っていたのは、ペトラに対抗して魔物牧場を経営したためだ。
「なんかそんな話を聞いたことがある気がして」
「そうなんだ!」
あっさりと信じるペトラ。
彼女は基本的に裏を読むことをしない。
「たしかに生乳のままだとすぐに腐っちゃうし、使い道もないからねぇ。一応、牛乳機で加工だけしよっか」
「奇跡的に今回のミルクは美味しいかもしれないし」
「だね! なにせ生牡蠣を食べさせたのだから!」
昨夜、ペトラの閃きで、魔山羊に生牡蠣を与えた。
私の大好物なら革命が起きるかも、というぶっ飛んだ理由だ。
「これでよし!」
魔牛の生乳を加工し終えると、魔山羊のミルクも加工した。
それらの作業が終わった頃、見計らったかのように男がやってきた。
卸売業者のトムワーカー・ジョンソンエンドソン――通称「トム」だ。
「おや? 美女が二人になっているじゃないか!」
トムは荷台が空の馬車を加工場の前に停める。
「彼女はニーナ。今日からウチで働いてくれるの!」
「おおー。ナッシュ様の後釜ってわけかい」
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。俺のことはトムって呼んでくれ」
ニーナが「はい」と頭をペコリ。
ペトラ以外の相手と話すことに抵抗があった。
変な緊張感が湧き上がる。
「そうそう、トムさん! これ、今日の魔山羊のミルク! 味見して!」
ペトラが出来たてほやほやのミルクを試飲用のジョッキに注ぐ。
「えー、またかよぉ」
トムはうんざりしたような顔。
「私のおかげでたくさん稼いでいるんだから!」
「だからって俺に味見させるのは勘弁してくれよー。ニーナだっけ? お嬢ちゃん、このミルク、飲んだことあるか?」
トムはペトラから受け取ったジョッキをニーナに見せる。
ニーナは「いえ」と首を振った。
「信じられない不味さだぜ。ただ不味いだけじゃない。後味が最悪なんだ。昼頃まで舌に余韻が残る。どれだけゆすいでも味が消えねぇんだ」
「そんなに酷いんですか?」
「最悪だよ。ペトラもそれが分かっているから俺に飲ませるんだ」
トムが「だよな?」とペトラを見る。
ペトラは「えへへ」と舌を出して笑い、目を逸らした。
そう、魔山羊のミルクはペトラですら飲みたくない不味さなのだ。
だから彼女は、ここしばらくはトムに味見をさせている。
「ま、俺はこの牧場と専属契約を結ばせてもらっているからな。たらふく稼がせてもらっているのは紛れもない事実さ。だから飲めと言われたら飲まざるを得ないわけだ」
トムはジョッキのミルクを一気飲みした。
目をギュッと瞑り、空いている手で鼻を摘まみながら。
「うっげぇ、今日も最高に不味いなおい!」
「やっぱり駄目かぁー! また明日リベンジだね!」
「もう勘弁してくれぇ」
トムが悲鳴を上げた。