052
(早く逃げなければ……!)
ココイロタウンに着くまでの間、ニーナはそれだけを考えていた。
だが、馬車は常に疾走していて、飛び降りる隙を与えてくれなかった。
飛び降りたら重傷は免れない。
打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。
それに、飛び降りた場所がどこになるかも分からない。
結果、彼女は荷台に隠れ続けることになった。
唯一あったチャンスは関所に到着した時。
これまで疾走していた馬車が初めて停まったのだ。
しかし、関所には大量の兵士がいる。
その目を掻い潜って逃げ切れる自信はなかった。
ニーナにとって幸いだったのは、馬車の行き先がココイロタウンだったこと。
バーランド王国との間にある関所では、基本的に荷物の検査が行われない。
そのおかげで、彼女は関所を無事にやり過ごすことができた。
――そして今に至る。
「おいおいお嬢ちゃん、ウチのネタをつまみ食いするとはいい度胸をしてるじゃねぇか」
クライスが右の拳を左の掌に打ち付けながらニーナに近づく。
ニーナは「ひぃぃ」と顔を青くした。
「現行犯で逮捕する!」
近くにいた衛兵が駆け寄ってくる。
衛兵は行商人の護衛と交代してニーナを捕縛した。
「ごめんなさい! 許してください! もう二度としませんから!」
ニーナは涙を流しながら許しを乞う。
町の人々は遠巻きにその様子を眺めていた。
(あの人……昔の私みたい……)
ペトラはニーナの姿に過去の自分を重ねていた。
ポロネイア王国から追放された時の自分だ。
(ポンドさんに拾ってもらわなかったら、私もああなっていたのかな)
そんなことを思うと、助けてあげたい気持ちになった。
自分がポンドにしてもらったように、自分もあの人を助けよう。
「待ってください」
ペトラは、ニーナを連行しようとする衛兵を止めた。
「その人と話をさせてください」
「それはかまいませんが……」
衛兵は困惑した様子。
「おいおい、ペトラ、何言ってるんだよ」
「すみません、クライスさん。少しだけお時間をください」
「まぁいいけどよ」
「ありがとうございます」
ペトラは馬車を下り、ニーナに近づいた。
ニーナは後ろ手に縛られた状態で、虚ろな目をペトラに向ける。
(ペトラとまた会うなんて……。それより、彼女はこうして立派に成長しているというのに、私はなんてザマなのかしら。情けないという他ないわね)
ペトラはニーナのすぐ前で足を止めた。
「ペトラ……」
呟くニーナ。
「私を知っているの?」
「あっ……」
ニーナは思い出した。
自分の姿が賢者ハリソンによって変えられたことを。
今の彼女は、ペトラの知るニーナ・パピクルスとは違う顔をしている。
「その、貴方は、有名人だから」
このニーナの説明に、「なるほど」とペトラは納得する。
ペトラの名は今やポロネイア王国でも知れ渡っている。
彼女がポナンザ家の人間であることも周知の事実だ。
だから、ニーナの説明には疑いの余地がなかった。
「貴方のお名前を教えてもらえる?」
「私は……ニーナ。ニーナ・キーリス」
「ニーナ! 私の親友と同じ名前ね!」
「親友……」
ニーナはペトラから目を逸らす。
今まで抱いたことのなかった気持ちがこみ上げてきたのだ。
それは――罪悪感。
ニーナはもはやペトラのことを敵視していない。
勝手な敵対心も、貶めようという悪意も持ち合わせていない。
罪悪感がこみ上げてきたことが、彼女の心境の変化を物語っていた。
「ニーナ・パピクルス。知ってるでしょ? パピクルス家の令嬢。私の大親友なの。今は奇病に罹って意識不明らしいけど、昔はよく一緒に遊んだのよ」
ペトラの声が弾む。
話が脱線しつつあることに気がついていない。
ニーナ・パピクルスのことを話せるのが嬉しかった。
彼女にとって、ニーナ・パピクルスは今でも最高の親友なのだ。
「ペトラ、話が脱線していないか」
クライスが横から突っ込む。
ペトラは表情をハッとさせた後、舌を出して苦笑いで謝った。
「それでニーナ、貴方はお金がなくてこんなことをしたのよね?」
「は、はい、そうです」
「だったら、私のところで働かない?」
「「「えっ」」」
ニーナとクライス、それに衛兵が同時に驚く。
「たしか法律が変わって誰でもこの国で働けるようになりましたよね?」
「それはそうだが……」とクライス。
「だったら!」
ペトラの目がニーナに向かう。
「ちょうどウチの牧場では人手が不足しているの。貴方がウチで働いてくれたらとーっても助かる。休みは少ない……というか基本的にないけれど、その代わり衣食住は保証するわ。もちろん給料も払う。それに今回の件で発生する罰金だって私が立て替えてあげる」
「えっと、それは……」
ニーナが言葉に詰まる。
ペトラの提案は、彼女にとってこの上ないものだ。
本来であれば手放しで承諾したい。
しかし相手はペトラだ。
これまで自分が勝手に敵意を抱き、密かに攻撃していた存在。
そして今は、そのことに対して果てしない罪悪感を抱いている。
二つ返事で「お願いします」と言うのは難しかった。
「わた、私、私は……」
ニーナの目に涙が浮かぶ。
色々な気持ちが同時にこみ上げてくる。
頭の中が混乱して考えをまとめることができない。
「素直に『お願いします』でいいじゃねぇかよ」
そう言ったのはクライスだ。
「悩むことないだろ。ペトラの提案を受けなかったら、お前は連行されて相応の処罰を受けることになる。だが、提案を受ければ全てチャラだ。仮にペトラの牧場で働くのが苦痛になったなら逃げ出せばいい。ただ逃げ出すだけなら何の処罰もくだらねぇ。そうだろ?」
「それは……たしかに……そうですが……」
「どうして逃げ出す前提になるのですか」
ペトラは苦笑いでクライスを見る。
「だってお前の牧場はブラック過ぎるだろ。休みがないとかどうかしてるぜ。ウチですら週に二日は休日を設けている。料理長クラスですら週に一回は休むぞ」
「ぐぬぬ……!」
ペトラが反論できずに黙ると、クライスはニーナを見た。
「お前はさっき『二度としないから許してくれ』と言っていた。許してほしいならペトラの提案を受けるしかない。簡単な話だろ?」
その通りだ。
ニーナも同じ結論に至っていた。
「じゃ、じゃあ……」
ニーナがペトラを見る。
目が泳いでしまい、直視するのが難しい。
それでも、どうにかペトラに顔を向けて言った。
「お願いします」
「やった! これで決まり!」
ペトラは両手を叩いて小さくジャンプした。