033
ナッシュを雇った翌日の夕方。
ひとしきりの作業を終えた時、ペトラは思った。
――ナッシュを雇って良かった、と。
「はーい、今日の作業はおしまい! 解散してくださーい!」
ナッシュがそう言うと、ギャラリーは静かに散っていく。
いや、静かに、というのは間違いがあった。
「ナッシュ様が言っている通りにしなさい!」
「ほら、帰った帰った!」
「牧場の人を、いえ、ナッシュ様を困らせるんじゃないの!」
ナッシュの追っかけである女性陣が派手に頑張っているのだ。
ナッシュ親衛隊――とペトラが命名した彼女らは、無給でナッシュに尽くす。
これによって、ギャラリーが柵を越えることは皆無となった。
もしも柵を越えようものなら相手が女子供でも容赦しない。
それがナッシュ親衛隊だ。
「ほんと君達はどこから現れるんだい、いつもいつも」
ナッシュは呆れ半分といった様子で親衛隊に感謝する。
親衛隊の隊員達は、それだけで甲高い声を上げて喜んでいた。
「ナッシュ、そろそろ晩ご飯の支度をするよ」
そこにペトラが近づき、ナッシュに声を掛ける。
すると親衛隊の顔が鬼の形相となり、視線をペトラに集中させた。
(おー、こわ。頼もしいけど、彼女らの前でナッシュに絡むのはよしたほうがいいみたいね……)
ペトラは引きつった笑いを浮かべると、足早に館へ戻っていく。
親衛隊と軽く話した後、ナッシュはその後を追った。
◇
ナッシュの雇用以降、ペトラの体調は随分と良くなっていた。
少し前まで過労死寸前だったのに、今では牧場の拡大を考えている。
「どうしてもっと拡大させないんだ?」
晩ご飯の時、ナッシュが尋ねた。
向かいの席に座っているペトラが食事の手を止める。
そして、ナッシュの目を見て答えた。
「そこまで稼ぎたいって気持ちが強いわけじゃないからね。ポンドさんに頼まれたのは牧場の維持であって、他よりも大きな牧場にすることじゃないし」
「でも、多少は拡大させるんだよね?」
「デミグラス牛乳の供給量を増やしてあげたいからね」
デミグラス牛乳は今でも品薄状態だ。
一般家庭に広く普及するほどには至っていない。
デミグラス牛乳を味わいたい場合、それなりの料理店に行く必要がある。
ペトラとしてはもっと大衆的な扱いになってほしい。
醤油や塩胡椒と同じで、どの家庭にもおいてあるような存在に。
〈アレサンドロ〉の創業者であるクライスも同じ考えだ。
「ペトラがもっと逞しい商魂を持っていたらなぁ。今頃、牧場の規模は数十倍になっていたと思うよ。デミグラス牛乳にはそれだけの価値がある」
「あはは、よく言われるよ。大手の酪農家から買収や資本提携の話も持ちかけられるからね。全部断ってるけど」
「ほんと変わった女性だ。一般人でも変わっているというのに、それが元は貴族だというのだから尚更に変わっている」
「前世の記憶が影響しているのかもね」
「前世の記憶?」
「んーん、なんでもない」
ペトラは食事を再開した。
◇
その頃、ポロネイア王国のパピクルス邸では――。
「ああもう! 腹立つ!」
伯爵令嬢から公爵令嬢に昇格したニーナが荒ぶっていた。
花瓶を壁に投げつけて割り、地面に散乱した花を踏みにじる。
ベッドに掛けられた高価なシーツはビリビリに引き裂いた。
「もう半年よ! 半年!」
自分しかいない部屋で、ニーナは苛立ちの言葉を口にする。
「いい加減に忘れてもいいじゃない!」
ニーナが苛立っている原因はルークだ。
ポロネイア王国の第1王子であり、次期国王の座が確定している男。
かつてペトラと婚約関係にあった王国を代表するイケメンだ。
異彩を放つ黒髪が特徴的だったが、それは過去の話。
今は黒髪ではなく白髪である。
ルークは未だにペトラのことを引きずっていた。
魂を抜き取られたかのように、いつでもペトラのことを考えている。
振られたショックにより、髪の色が1ヶ月で真っ白に変わった。
「流石にこれは計算外だわ……」
ルークがしばらく引きずることはニーナの想定内だった。
しかし、半年経っても立ち直れないとは思っていなかった。
「かといって、ルーク様にできることは何もないし……」
この半年、ニーナはありとあらゆる手を尽くしてきた。
食事に誘い、可能な限り話しかけ、ある時には共に一夜を過ごした。
もちろん、一夜を過ごしたというのは、ただ一緒に夜を明かしただけ。
ニーナの望む肉体的な関係には発展せずに終わった。
可能な限り頑張ったのに、ニーナの苦労は報われていない。
ルークが彼女を見ることはただの一度たりともなかった。
脳に何かしらの欠陥が生じているのではないか。
そう考えたニーナは、国で最高の名医にルークを調べさせた。
彼は食欲不振が続いて痩せこけている為、国王もそれを後押しした。
が、結果は何もなし。至って健康であり、異常は見られなかった。
「このままでは20歳になってしまう……」
ポロネイア王国の貴族は10代後半で結婚するのが一般的だ。
20になっても未婚のままだと、魅力のない女だと思われてしまう。
ニーナは19歳。
タイムリミットの20歳まで1年を切っている。
他の追随を許さぬ圧倒的な焦燥感に駆られていた。
「また荒れておるのか……」
ニーナの部屋に1人の男が入ってくる。
彼女の父ザイード・パピクルスだ。
ペトラの実父ゲンドウと入れ替わりで公爵になった男。
「いい加減に切り替えたらどうだ。王子は壊れたのだ」
地面に散乱する花瓶の破片を見ながら、ザイードは呆れたように言った。
「お父様は上手く成り上がったものだからいい気分ですわね」
ニーナの八つ当たりを、ザイードは右から左に流す。
「なんにしろ期限はあと3ヶ月だ。いいな?」
「……分かっておりますわ」
「だったらかまわない。好きにしろ」
ザイードは使用人を呼び、ニーナの部屋を掃除するよう命じる。
そして、自身は執務室へと消えていった。
「3ヶ月……きついわね……」
3ヶ月というのは、ニーナがルークにアタックできる期間だ。
それを過ぎると、ザイードが用意した相手と結婚させられる。
当然ながら政略結婚であり、そこに愛はない。
ザイードはかつて、ニーナを後継者にしようと考えていた。
政略結婚で収まるような器ではない、と。
ただ、ルークに対するニーナの動向を見ていて考えが変わった。
今は、彼女だけに家を任せるのは不安だと思っている。
ニーナも政略結婚の話を承諾していた。
それほどまでに、20歳を未婚で迎えるのは恥ずかしいことなのだ。
貴族の娘にとっては。
それになにより、彼女には拒否権がなかった。
「正攻法じゃ埒があかないし、かといってルーク様を幻術でコントロールするのは無理がある。こうなったら……」
なりふり構っていられないニーナは、とんでもない考えに至った。
「ペトラを殺すしかないわね」