032
握手したまま、ペトラはぎこちなく尋ねた。
「ええっと、王子様はどうしてウチの牧場で働きたいとお考えになられ……」
「おいおい、今さら敬語なんてよしてくれ」
「で、ですが……」
「他人にペコペコされたいならもっと貴族の作法に則っているよ。使者を送ってから馬車で来ていただろう」
「たしかに」
かつて公爵令嬢だったペトラも、貴族の作法を熟知している。
彼女も敬語で話されるのが苦手だった。
「王子であることを明かしたのは、身元を偽るのが失礼だからに過ぎない。だからどうか気にしないでもらいたい。ここではただのナッシュ・バーランドという19歳の男として接してもらえると助かる」
「ま、まぁ、そう言うなら……。ただ、時と場合によっては敬語で話すかもしれないよ。それは許してね」
ナッシュは「うむ」と頷き、視線を動かす。
長々と握手を続けている手を見つめながら言った。
「では、とりあえずこの手を離そうか」
彼の掌には、ペトラの手から溢れた汗がべったりと付着している。
そのことにペトラも気付いた。
「ふぇっ?! あ、ああああ! ごめんなさい!」
慌てて手を離すペトラ。
ナッシュは「気にするでない」と笑った。
「や、館の中を案内するね。それからやってほしい仕事も教えるから」
「心得た」
ペトラとナッシュには、互いに訊きたいことがあった。
だが、今はそれを切り出すタイミングではない。
2人はそそくさと館に入っていく。
魔牛達もひとしきり楽しむと、勝手に牛舎へ戻った。
◇
「今日は無人だけど、普段は柵の外が人で溢れているの。ナッシュはそれの警備をお願い。とにかく柵を乗り越えようとする人がいたら止めて。魔牛って危険だからね。あ、でも、暴力的な方法は駄目だよ。他の人に怪我を負わせるとかは御法度だからね」
牧場を囲む柵の前でペトラが説明する。
「えらくざっくりとした説明だな。それに、俺はてっきり家畜の世話をさせてもらえると思っていたのだが」
ナッシュの目は牛舎を捉えていた。
「世話もしたいならしてくれていいけど、魔牛はダメだよ」
「どうして? デミグラス牛乳の秘密がバレるとか?」
「あはは、貴方も私が何か秘密を隠していると思っているクチなのね」
「違うのかい? 新聞によると他の酪農家は再現できないらしいが」
「そうみたいだけど、私にも分からないのよね。ちなみに秘密なんかないよ。なんなら私が魔牛の世話をしているところ、最初から最後まで観てくれたってかまわない。他の酪農家にも見せているし。隠したところで覗かれるから」
「じゃあ、どうして魔牛の世話はダメなんだ?」
「私にも分からないからよ。私にだけデミグラス牛乳が作れる仕組みが」
ペトラの表情に真剣味が増す。
「どういうことだ?」
「今、デミグラス牛乳はこの牧場の要になっているの。トムさん……私がお世話になっている業者さんに卸す価格は、最高級牛乳の数十倍になる。ナッシュが手伝ったことでデミグラス牛乳が作れなくなった場合、牧場の収支は一気に悪くなってしまう。だから不安なのよね」
「なるほど、仕組みが分からないからこその悩みというわけか」
「ごめんね、意欲的なのに」
「かまわないさ」
「これで説明は以上よ。何か質問ある?」
ナッシュは「いいや」と首を横に振る。
「今受けた説明に対する質問はないよ」
「というと、それ以外に質問が?」
「まぁね」
「何かな? 使用人を雇っていない理由でも知りたいのかな?」
「いや、知りたいのは君自身のことだよ」
「えっ、私?」
「そうさ。君はポンドさんの養女になる前、どこかの貴族の娘だったのではないか。例えばそう、ポロネイア王国の公爵家……いや、今は伯爵に落ちたらしいから、元公爵家と言ったほうが正しいか」
ペトラに衝撃が走る。
ナッシュは自分がポナンザ家の人間だと気付いているのだ。
「貴方とは初めて会うはずだけど、よく分かったね」
ペトラは素直に認めた。
相手がナッシュだと、遅かれ早かれバレるのは時間の問題だ。
もしも他の王子や国王が来れば、一瞬でポナンザ家の人間だと発覚する。
ナッシュが尋ねずとも近いうちに話すつもりでいた。
「地味な格好をしていても元々の美しさを隠しきれていないからね」
「ふふっ、ありがと。お世辞でも嬉しいわ」
「本気さ」
「どうだか」
ペトラが空を見る。
昼が終わり、夕方に差し掛かっていた。
「そろそろ夕飯にしよっか」
「そういえば、ここには使用人がいないよな。誰が料理を作るんだ?」
「もちろん私よ?」
「軽く教わっただけで〈アレサンドロ〉のデミグラスソースを再現したり、本当に多才だな」
「好奇心は強い方だからね。でも、所詮は趣味の範疇だよ。多才って言われる程のことでもないよ」
「とかいいつつ、まんざらでもない表情だが?」
ナッシュがニヤリと笑いながらペトラを見る。
彼の言う通り、ペトラはまんざらでもない表情を浮かべていた。
他人に料理を振る舞うのが久々で嬉しいのだ。
他人と食事を共にするのも久々のことである。
「調理にはナッシュも加わってもらうからね。王子様だからって座っているだけなのは認めないよ」
「任せろ。調理スタッフとして働いていた経験がある」
「流石は放浪王子。変わってるわね」
「君もたいがいだと思うけどな」
2人は笑いながら館に戻っていく。
(まさか初めての従業員が王子様だなんてね、ヘンな気分)
こうして、ペトラの牧場にナッシュが加わることとなった。













