009婚約
俺はこわごわ、緊迫した空気の中につま先から侵入した。
「やめろ、二人とも。見苦しい」
アクジョと広院がものすごい眼光を放ってこちらを向く。俺はすぐさま足を引っ込めた。情けないけど、恐ろしいものは恐ろしい。
プレイヤーキャラクターである妹は、また目の前のライバルに敵意を叩きつけた。勝利の未来が約束されているだけあって強気だ。
「あたしもカイザ王子殿下の食事会に招かれているんですが、ご存知でしたか?」
アクジョは知らなかったのだろう、意表を突かれた様子で青ざめる。
「嘘よ。王子様は、婚約者の私をご学友に披露なされるために食事会を提案してくださったのよ。何であなたみたいなメス猫がしゃしゃり出て来れるのよ」
広院は得意げに胸をそらし、勝ったと言わんばかりに余裕の笑みを作った。
「昨夜の舞踏会であたしを怪我させちゃったおわびにと、傷の治療の際に誘ってくれたの。嬉しかったなあ。あれ、婚約者なのにご存知なかったんですか?」
我が妹ながら、ずいぶんと腹立たしくなる口調だった。アクジョはあからさまに悔しがっている。
「う、うるさいわね! ……帰るわよ、ヒロ!」
彼女は俺の手首をつかみ、強引に店を出た。敗走とはこのことだ。広院と勇者について話し合いたかったし、冒険者ギルドものぞいてみたかったが、それはまた今度の機会となった。
「カイザ王子様……何で……」
帰宅の馬車内で、アクジョは雄弁なため息をついた。俺はせっかく来た街から連れ戻され、あんまり気分が良くない。
「婚約者なんだろ? もっと自信持てよ」
適当になぐさめた。将来婚約を破棄され捨てられると決まっている彼女。だが広院が攻略をあきらめればその運命は途中でストップする。その可能性もなくはないのだ。
アクジョは左手の薬指に輝く婚約指輪を眺めて、ふさぎ込んだ気持ちの清浄化をこころみている。俺はふと尋ねた。
「アクジョはいつカイザ王子と出会ったんだ? どうやって婚約までこぎつけたんだ? 良ければ聞かせてほしいんだけど」
彼女は指輪の宝石を見つめつつ語り出す。
「あれは私が8歳の頃よ。私には両親が定めた許嫁がいたの。名をイナーズと言って、地方貴族の次男だったわ。商家の両親は一人娘の私を使って、特権階級と家族関係を持ちたがっていた。貴族の方も多額の金が転がり込む契機になることから、大賛成で早々と婚約を決めてしまったの」
政略結婚というやつか。俺の住んでた日本では絶滅しかかっている方式だが……
「それで将来の結婚を見すえて、私はその貴族の元に数週間ほど逗留することになったわ。その時よ。カイザ王子様と出会ったのは……」
アクジョの横顔がなごみ、はるか昔を懐かしむ気配が生じた。
「カイザ王子様は私より一つ年上の9歳だった。勉学のためにイナーズの館に留学していたの。私は彼の知性、品格、容姿に驚かされたわ。王家の血筋を誇りに思い、みずからを律してやまないカイザ王子様は、たちまち私の憧れとなった。カイザ王子様、イナーズ、私の3人は、よく学んでよく遊んだわ。そうして数週間が過ぎ去った……」
しばしの沈黙は当時の幸福を思い返していたからか。ややあって続ける。
「私はいったんこの王都に戻ったわ。カイザ王子様もまた、留学を終えて王城に帰還したの。それから6年が経ち、私がいよいよイナーズの元に嫁ぐとなった際、突然生じた展開に私は驚いたわ」
アクジョは俺の方を向いて肩をつかんできた。色あせない興奮がぶり返してきたらしい。
「何と王子様が、私と私の財閥のことを思い出して、結婚できないものだろうかと持ちかけてきたの! 彼は当時15歳。騎士叙勲を授かって、独り立ちしようって時だったから、きっとそんなことを言い出したのね」
「と言うと?」
「ゼイタク王国国王シャシ三世は、台頭する貴族や大商人の突き上げに苦しまれていたわ。借金こそないものの、いずれ強力な後ろ盾は必要だったの。つまりカイザ王子様は私をめとることで、私の財閥の助力を得たいと考えたの」
「それじゃ、イナーズと婚約したのと同じ、政略結婚じゃないか?」
アクジョは激しく首を振った。
「似たような財閥、似たような令嬢ならごまんといるわ。でもカイザ王子様は、幼き日のあの数週間だけ共に過ごした私を、相手に選んでくださったのよ! ねえ分からない? 彼もずっと私を好いていてくださったのよ!」
まるで夢見る乙女のように、アクジョは自己陶酔した。
「イナーズの親は相手が王家だけに、私との許嫁を解消したわ。そうして話はトントン拍子に進んで、1年前、私はカイザ王子様より婚約指輪をいただいたの。それがこれよ。ねえ分かるでしょ?」
俺は目の前に薬指を突き出され、じっくり鑑賞させられた。相当高価そうだとは、俺でも理解できる。
「以来、私とカイザ王子様は食事会や舞踏会、騎馬槍試合や各種式典で、心ゆくまで楽しい会話を積み上げてきたわ。そうよ、私とカイザ王子様との間には、他人が割り込めない歴史があるのよ」
正面に向き直ったアクジョは、自分に言い聞かせるようにブツブツとつぶやく。
「そうよ、そうに決まってる。たかがメス猫1匹のために崩されるような、そんなもろい関係じゃないわ、私たちは。うん。何だ、心配して損した」
まくし立てているうち、自分で自分の機嫌を直したらしい。女というのはよく分からん生き物だ。
「……というわけよ。それが私とカイザ王子様の絆なの。さ、家に着いたし、夕食まで本でも読んでようかしら」