022婚約破棄
ややあってウーザイが大きなため息をつく。怒りに満ちていた。
「王子の野郎、アクジョというものがありながら、別の少女とキスだと? ふざけやがって」
俺は一部同調した。今回の件では、一歩間違えればアクジョが広院を刺殺していたかもしれないのだ。さすがに実の妹を殺されかけたとなると、全面的にアクジョを支持するわけにいかなかった。
そこで扉が開いた。カイザ王子がキャンドルを手に、深刻な表情で入室してくる。後ろ手に縛られているアクジョは、婚約者の登場に元気を取り戻した。
「カイザ王子様!」
この期に及んでも、まだ彼女は王子を信じていた。自分の罪が許されると思い込んでいた。すがるように椅子から立ち上がろうとするところを、しかし挙手で制せられる。
「座ったままでいい、アクジョ」
凍土に吹き付ける雪風のように、その口調は冷たかった。まるでお前は赤の他人だと言わんばかりに。
アクジョは笑顔を強張らせ、また腰を下ろす。
「カイザ王子様、怒ってらっしゃるの?」
「当然だろう」
俺は内心反発した。アクジョの話が本当なら、王子にはいきどおる資格がない。
と、ここで王子は俺とウーザイに顔を向けた。
「扉を守っている衛士に聞いたよ。君たち、アクジョから何か言われたかな?」
ウーザイが巨躯を起こす。たちまち影が天井に広がった。
「ああ。あんたがヒロイとキスしてたってことをな」
王子は渋面を作りつつ認める。
「そのことは他言無用だ。そうすれば今夜の無断侵入は許そう」
「何……」
「アクジョ」
拘束されている婚約者に、再び冷徹な目線を投じる。
「衆人環視のホールでヒロイを襲ったのはまずかった。もうごまかしは効かない。たとえ莫大な金のあるフゴー家財閥といえど、一国の王子が狂人と結婚するわけにはいかない……」
俺はアクジョの顔から血の気が引いていくのを見た。王子が自分の婚約指輪を抜き取って机に置くと、彼女の顔貌は白蠟そのものとなる。
「え、待って、カイザ王子様。それって、どういう……」
「分からないかい? 君との婚約を破棄させてもらう。そういうことだ。さよなら、アクジョ」
俺は王子がきびすを返して立ち去ろうとするのを、あわてて止めた。
「待ってください、王子!」
「何かね、ヒロ」
どんな要求も断ろうとするかたくなな態度が透けて見えた。アクジョとの縁談はもはや終わったのだ。それを本人より早く受け入れた俺は、自分の都合を優先した。
「冒険者ギルドで勇者の試験を受けてくださいませんか?」
これにはカイザ王子も面食らったらしい。
「何だ、藪から棒に」
「きっと王子なら勇者になれるはずです! お……私は今日、それを具申しに来たんです! どうか、どうか!」
カイザ王子は無下に断った。
「僕はこのゼイタク王国を継ぐ者だ。勇者になれるとしても、なろうとは思わないよ。……失礼する」
そうして彼は扉を通過しながら、警備中の兵士に耳打ちした。兵士はうなずき、入れ替わりに数名が部屋に入ってくる。
「アクジョ様、ご帰宅の馬車をご用意しました。今乗せてさしあげます。……お前ら、お連れしろ」
「はっ」
椅子に座ったまま王子の残影を凝視していたアクジョが、このときブチ切れた。
「うあぁっ! あーっ!」
金色のツインテールを振り乱し、錯乱したように暴れ回る。あまりのショックで何も見えず、聞こえず、ただただ椅子の上でもがいているようだ。兵士たちは押さえつけるのに苦労していた。
一方、ウーザイはカイザ王子を殴りに追いかける、などといったことはしなかった。破談大歓迎、といった様子で、机の上に置き去りにされた指輪をこっそりと懐中におさめる。そして暴れるアクジョの頭を背後からなで始めた。
俺は勇者になる可能性があった人材をあきらめざるを得ず、ここまで来たかいがないというものだった。ただアクジョの狂態を前に、そんな落胆をしている暇はない。
「アクジョ、落ち着け! 衝撃なのは分かるが……」
守衛たちは無理矢理アクジョを引きずっていく。彼女は「あー」だの「うー」だのわめきながら、焦点の定まらない瞳をあらぬ方向へ向けていた。
いつか広院が勝利すると分かっていた、サブクエスト・カイザ王子との結婚。だがその輝かしい栄光の裏で、悪役令嬢アクジョはみじめで情けなかった。
俺とウーザイはアクジョの狂乱を必死でなだめつつ、兵士たちと共に宮殿出口へと向かう。今宵はここまでか……
と思っていたら。
「何だ?」
何か黒く巨大な生物が、稲光に照らされて夜空に浮かび上がった。とてつもなく大きい。それはこちらへとみるみる近づき、かっと口を開けた。
俺は叫んだ。
「ドラゴンだ!」
竜。龍とも書く。ツノを生やした巨躯の蛇で、背中にはコウモリの羽を生やし、四つ足で鋭い爪を有している。剣山のような牙と共に、触れたものを八つ裂きにすること請け合いだった。俺の現実世界におけるテレビゲームではメジャーな魔物だ。
その喉奥から光がまたたいた。と思う間もなく真っ赤な炎がほとばしり出て、宮殿の屋根に叩きつけられる。ドラゴンは火災を植え付けるといったん上昇した。
「ま、魔物だ!」
「なんてでかさだ!」
「ひええっ、死にたくないっ!」
兵士たちは燃え盛る屋根の下、散り散りに逃げていく。アクジョはまだ絶望の淵にいるらしく、ウーザイの腕の中で現実逃避していた。
「何の騒ぎだ!」
カイザ王子が部下を引き連れて玄関に現れた。今度はステンドグラスが竜の爪で叩き割られ、中の人々に存在を知らしめる。
パニックが起こった。




