020傷害
「何があったんですか?」
俺は近くの貴族に聞いた。灰色の髪に口ヒゲで中肉中背のその男は、俺の濡れそぼった格好に一瞬息を飲んだ後、教えてくれる。
「カイザ王子の婚約者でありフゴー家の娘でもあるアクジョ嬢――あの押さえ込まれてる娘なんだが、彼女が何か知らんがヒロイ嬢に突っかかってね。その肩を短剣で切りつけたんだ」
俺とウーザイは凍りついたように動けない。アクジョは短剣を取り上げられると、広院に向けてほとばしるような眼光を放った。
「このメス猫……! 泥棒猫……! 離して!」
もがく彼女は無理矢理後ろ手に縛り上げられる。広院のかたわらにいたカイザ王子は、ハンカチを彼女の負傷箇所に当てていた。その両眼は狂態をさらす婚約者を憎々しげに見つめている。
「アクジョ、君がこんなことをするなんて思いもよらなかった。確かに僕も軽率だったが、それでヒロイ嬢を傷つけて良いわけじゃない」
何だ? 3人の間で何が起こったんだ? 彼らを取り巻いて遠くから眺める貴族たちは、騒然として、ことの推移を見守っている。
カイザ王子が厳しい声で兵士に命じた。
「アクジョ嬢を控え室へお連れしろ。まずは興奮している彼女を落ち着かせるんだ。僕も後から行く」
打って変わって、俺の妹・広院に優しく声をかける。
「ヒロイ、しっかりするんだ。傷は痛むだろうが、『治癒の法術』は朝まで使えないから、それまで応急手当てで我慢してくれ。包帯を巻くために別室へ行こう。立てるかい?」
「は、はい。王子殿下」
ようやく目が覚めたとばかり、広院は王子の手にすがりついて体を起こした。苦痛に顔がゆがんでいる。現実世界において、あいつがこんな傷を負ったことはなかった。まあそれを言うなら、無頼漢の棍棒で額を切った、先日の俺もそうだけど。痛さは分かる。
アクジョが凶器の短剣と共に、兵士たちの手でホールから連れ出された。遅れてカイザ王子と広院が、医者や従者と一緒に後に続く。王子は姿が廊下に隠れる前、大声を発した。
「皆さんすみません、しばらく失礼します。さあ楽団よ、曲を演奏したまえ!」
広場に再び音楽が流れ、貴族たちはダンスを再開した。しかしその数は少なく、ほとんどは今しがた見たアクジョの凶行をさかなに話し込んでいる。
ウーザイが震えているのは寒さのせいだけではない。
「アクジョ……何で……」
俺は彼の服をつまんで引っ張り、カイザ王子たちが消えた廊下へと足早に移動した。ともかく事態を確認せねば。
嵐はますます強くなり、木の雨戸が風に乱打され騒々しい。壁にかけられたたいまつの火が揺らぎ、俺やウーザイや衛兵たちの影を、不安定に床に描く。
「カイザ王子殿下!」
俺は白いマントの青年――まだ19歳なのだ――である、王子の背に呼びかけた。彼は振り向き、俺の濡れそぼった姿に驚いた。
「どうしたんだ、ヒロ。びしょ濡れじゃないか」
勇者の試験を受けてほしい――と頼みたいところだったが、今はそれどころじゃない。俺は質問した。
「アクジョ……様はどうしてあんな行為をしたのですか?」
王子はにべもなかった。
「きっと何かのせいで錯乱したんだろう。僕には分からないな」
嘘だ。さっき、自分の口で『確かに僕も軽率だった』と述べていたではないか。
広院が俺を一瞥する。今日は薄黄色のドレスだったが、右肩からの出血で台なしになっていた。
「行きましょう、カイザ王子殿下」
「ああ、そうだな」
彼女らは従者たちと共に別室へと引き取った。俺はウーザイを連れて、アクジョの怒号と悲鳴が聞こえる方へと走った。
たどり着いてみると、悪役令嬢は極度の興奮状態で、今まさに控え室へと押し込まれるところだった。
「離して! カイザ王子様に会わせて! 私は泥棒猫を駆除しようとしただけよ! 私が正義だわ!」
暴れるアクジョの狂乱の瞳が、俺とウーザイに向けられる。助けが来たとばかりに、その表情がゆるんだ。
「ああ、ヒロ! ウーザイ! 私を助けて! 話を聞いて!」
年配の守衛が俺たちを見とがめる。厳しく詰問してきた。
「どなた方です、あなたたちは。そのずぶ濡れの格好、不審者としか思えませんが」
ここは正面突破しかない。俺は胸を張って言い返した。
「そのアクジョ様の親戚です。もし疑いあるならカイザ王子殿下にご確認ください。……ちょっとアクジョ様と話させていただけませんか?」
兵士たちは顔を見かわしたが、年配の男は仕方なしにうなずいた。
「分かりました。それでは室内でご相談ください」
俺とウーザイ、アクジョは、控え室の中に入った。扉が閉まる。アクジョはアドレナリンが出まくっているのか、その両目をぎらつかせる。
「あなたたち、私の味方よね? 私が事件を起こした理由を分かってくれるわよね?」
俺はロウソクの明かり一つだけの薄暗い室内で、彼女の肩をつかんだ。
「落ち着け、アクジョ。まずは深呼吸しろ。吸って、吐いて」
彼女は言われた通りにした。吸って、吐いて、吸って、吐いて……
その体が次第に震え出す。ゆっくりとだが、知性が回復し、感情を追い払ったのだ。
「ああ、私、私、どうしよう! メス猫を……ヒロイを傷つけてしまった! それも、殺そうとする勢いで……!」
俺はアクジョを椅子に座らせ、ウーザイ共々近づいた。雨戸の向こうで嵐が吹き荒れているおかげで、扉の外の兵士たちには聞かれずにすみそうだ。俺はゆっくりと語りかけた。
「いったいヒロイはお前に何をしたんだ?」
アクジョは頭を激しく振った。
「私にしたんじゃないわ。あいつ、王子と……カイザ王子様と、キスしていたのよ!」




