002悪役令嬢アクジョ
悪役令嬢、アクジョはあからさまに動揺した。扇子を取り落としたことにも気付かず、顔の血を引かせてわなわなと震える。
「な……何をわけのわからないことを……。私が捨てられる、ですって? あのカイザ王子様から?」
別にアクジョなんかどうでもいい。成熟した大人びた容姿に、フリル付きの黒いロングドレスが似合っていたが、俺の好みではなかった。金髪のツインテールと、ツンとすました顔は美しかったが。
ただ、どうやら転移直後、川で意識を失っていた俺を助けてくれたのは間違いない。だから親切心を働かせて、一応忠告しておいてやったのだ。
もっとも女子プレイヤー操るヒロインの前に破り去られる悪役令嬢。その運命がゲームの中で決まっているのだから、俺の言葉など関係ない、か――
「ぐえっ!」
俺のどてっぱらにアクジョの蹴りが叩き込まれた。激痛と苦痛で両膝をつく俺の頭を、今度は踏みつけるように足裏が殴りつけてくる。
「ちょっと、何なのよあんた! 助けてやった恩も忘れて、何とんでもない暴言を吐いてるのよこのアホ!」
「痛、いてて、ちょ、やめ……」
「カイザ王子様と私は婚約してるのよ? あんたに私たちの結びつきが分かるものですか! ああ、アッタマ来るわね、この女装男!」
女装は自由意志でやったんじゃねえよ。俺は降り注ぐ靴の雨から這いつくばって逃げ去ることに成功した。壁を背に立ち上がる。
「わ、分かった、悪かったよ。忘れてくれ」
肩を怒らせ、アクジョは俺を睨みつけた。メイドのカイが扇子を拾ってご主人様をあおぐ。悪役令嬢は腰に手を当ててなおも憎々しげな視線をぶつけてきたが、やがてプイッとよそを向いた。
いやー、おっそろしいなこの女。俺は彼女を刺激しない方向で、ともかく男物の服を要求しようとした。
「あの、アクジョさん?」
と、その時だった。鐘の鳴る音が戸外から響いてきた。俺は開けっ放しの窓に近寄る。そして、息を飲んだ。
「おお……」
夕暮れの日の光に、中世ヨーロッパの、『ブレードパラダイス』の街並みが照りはえている。馬がいななき、馬車が走り、人が井戸に水くみで並んで、ドアが開閉している。
客引きの少年が通行人の戦士や狩人に片っ端から声をかけている。焼印を押された豚、紫ローブの聖職者、がやがやとにぎやかに笑い合う石工たちが、広い通りを歩いている。
「こいつはすげえな……」
瞬間、俺は自分の今いる立場、状況を忘れ去り、絶景に見入ってしまった。こいつがプレステ5の最新ソフトの実力か……
「あの、ちょっと?」
咳払いで我に返った。振り向けばアクジョが苛立ちをつのらせたような目でこちらを射抜いている。俺は年がいもなくはしゃいだおのれを恥じた。
「ああ、悪い。何だ?」
「何だ、じゃないでしょう。このゼイタク王国でも有数の財閥の一人娘、このアクジョを前に、あなた口の利き方がなってないわ。帰ってきたらメイドたちにうんとしつけてもらいなさい」
帰ってきたら? どっかに行くのだろうか。アクジョが俺の心を読んだように言った。
「今、鐘が鳴ったでしょ? 私はこれから舞踏会なの。カイザ王子様と一緒に素敵なダンスを踊るんだから。あなたも……ええと……」
「主治広重。ヒロでいい、アクジョ」
「ヒロ、言い方をわきまえなさい。……あなたも一緒に来るのよ」
ええっ? 何で俺が? しかもこんな女装状態で?
「断固拒否する」
アクジョはアイスブルーの瞳を輝かせ、初めて俺に笑顔を見せた。嘲笑だったが。
「あなたに拒否権はないの。なぜならヒロは私の拾い物だから。さあ、行くわよ。大丈夫、ヒロは見た目が女の子っぽいから、騙される紳士も意外と多いかもしれないわ」
そういう問題じゃないだろ。俺が突っぱねて動かずにいると、メイド三人が群がってきて、俺を無理矢理抱え上げた。こいつら、信じられん馬力だ。
「待てっ! 俺は行かねーぞっ! おいっ!」
「まあまあ……」
満月がこうこうと輝き、宝石のような星々がそれにかしづく。ゲームの中とはいえ、馬車の窓から見上げた空は、例えようもなく美しかった。どうせなら、もっと気分良く眺めたかったが。
「ヒロ、あなたは私のしもべよ。礼儀作法を守らなかったら即刻首をはねるから気をつけておきなさい」
俺はガタガタ揺れる箱の中で、窓枠に頬杖をつきつつ答える。
「だったら連れて行かなきゃいいのに……」
「だってあなた、本当に女の子みたいな顔してるんだもの。私の新しいおもちゃ。これは皆んなに見せびらかさなくてはもったいないというものだわ」
くっ、すっかり所有物扱いされてる。この女、偉いのか金持ちなのか、その両方なのか分からんが、自分がそれを成したわけでもなかろうに。ふんぞり返りやがって……。むかつくなあ。
「着いたわ。お行儀よく、ね、ヒロ」
確かに俺は顔立ちはいい。なよっとしているというか、草食系男子というか、とにかくはかなげで女のようだとよく評される。俺自身は丸っ切り男の性格なんだけどな。
馬車から降りて召使いたちに案内されながら、やたらと天井の高い宮殿を歩く。廊下の左右には絵画や彫像が置かれて、いよいよ俺は肩身が狭くなってきた。女装だし。アクジョのやつはしかし、堂々と落ち着いている。慣れ切っているといっていい。
大きな扉の前で止まった。室内からドラの鳴り響く音と、「アクジョ様がお越しになりました!」の声が漏れ聞こえてくる。そうして男の下僕たちが左右にドアを開けると――
そこには、きらびやかな舞踏会の光景が広がっていたのだ。