003「残業」
「なんだ、半角スペースが無かっただけか。こういう初歩的なミスをしないでほしいなあ」
青白い光を煌々と発する二つのディスプレーを交互に眺めながら、灰色の背広を着た男が小声で呟くと、その背後に、懐中電灯を持った青色の制服姿の女が忍び足で近寄り、片手を男の肩に置きながら言う。
「わっ!」
「ひっ!」
椅子から飛び上がらんばかりに驚いた男を見て、女がクツクツ笑っていると、男は振り返り、非難めいた目をしながら女に言う。
「なんだ、いつもの守衛さんか。脅かさないでくださいよ。心臓に悪いなあ」
「ごめんね。驚かせたことについては謝るけど、いつまでも居残っていられると、こっちとしても仕事が片付かないのよ」
「そう言われましても、まだ、やらなきゃいけない仕事があるんです」
「ほほう。それ、本当に楠見くんが一人でやらなきゃいけないことなのかな?」
ディスプレイに書かれた英数字の羅列や、机に積まれた書類の束をしげしげと見ながら女が言うと、男は、目を泳がせながら言う。
「そうです、よ。全部、僕の分に決まってる、でしょう」
「ダウト! おおかた、先輩から押し付けられた分と、後輩から代わった分ってところね」
「あっ、ちょっと、守衛さん。勝手に触らないでくださいよ」
男が文句を言う横で、女は開いていたページを手際よく保存し、シャットダウンしながら、男に捲し立てる。
「五階の秘書課、総務課、四階の倉庫、三階の経理課、営業課。ここまで、すべて見回りが終わってるの。あとは、二階だけなのよ? 背負わなくても良い仕事をして、いつまでもズルズル居残られてると、私、困っちゃうわ」
腰に手を当てて女が言うと、男は、机の下からショルダーバッグを引き出し、肩に斜めにかけながら立ち上がって言う。
「わかりましたよ。今日は、これで終わりにします」
「わかればよろしい。あっ。まさか、明日、定時より早く来てやろうとしてるんじゃないでしょうね?」
立ち去りかけた男に女が声を掛けると、男は一瞬、足を止め、そのまま上ずった声で答えながら、ぎこちなく歩き出す。
「嫌だな。そんなこと、無いですよ」
「そう? それなら、明日の開錠時間は、定時五分前にしておこうっと」
女が窓の方へ行き、ブラインドを下げながら言うと、男は踵を返して窓辺に近付き、女に話しかけようとする。すると、先に女が口を開く。
「言いたいことは、察しが付くわ。でも、本当に楠見くんが言うべき相手は、私じゃない。たしかに優秀だし、仕事は丁寧で早いけど、それを良いように使われるんじゃなくて、勇気を持って、ハッキリ『ノー』と言わなきゃ駄目よ。良いかしら?」
「……はい」
「結構。それじゃあ、おつかれさま」
「おつかれさまです」
楠見桜:開発課。梓の彼氏。三十一歳。院卒入社。引っ込み思案だが、機械に強い。センター分け、黒縁眼鏡。
柊柚:二代目社長。三十三歳。ときどき守衛に扮装して見回りしている。バイタリティー溢れるチャレンジャー。ボブカット。睫毛が長い。