それでもかがやく暁のような
「貴方は、わたくしをさらってはくださらないのね」
延ばされた手を、カミルはとることができなかった。どんなに恋い焦がれようとも、彼女に請われようとも、その滑らかな手をとることは許されていなかった。カミルは彼女の瞳から目を離し、そっと美しい黒壇のような髪を見つめた。漆を塗ったように輝く髪と瞳、白い肌に、薔薇色の唇。どれをとっても美しく、凛とした姿勢はそれらをさらに際立だせた。しかし、どんな危機に陥っても泣き言一つ洩らさなかった唇も今や震え、真実を映し出す鏡のような瞳は涙の膜に覆われている。それでも彼女は気高かった、誰よりも誰よりも気高かった。
***
今や、この王国は崩壊の危機に面している。何人たりとて逃げられやしない。そう言ったのは国直属の預言者だった。その瞬間に人々は絶望した。きっと、心の中でそう言われることがわかっていたのだろう。それでも、誰も口にはしなかった。したくなかった。言ってしまったら最後、そうなることが現実味を帯びて、一気に死が迫ってくるような気がしていたからだろう。なぜこんなことになったのか、どこで間違えたのか。人々は既に生きる気力をなくし、自らの行いを思い返す行為を繰り返していた。その姿は死刑執行を待つ死刑囚のような憂いを帯びた姿だった。
「奇跡というのは、なんともおかしな言葉だと思いませんか?」
そう彼女が言ったのは、預言者が絶望を告げた後だった。彼女の瞳は、無感情に人々を見降ろしていた。
「……なぜ、そうお思いになるのですか?」
カミルは一拍遅れて聞き返した。彼女のことは好きだったが、哲学的なことを口説くところは好きではなかったからだ。
「奇跡というのは、常識で考えては起こりえない不思議な出来事や現象のことだそうです。でも人間は、突然予言された現状をそう表現しないでしょう?それはきっと、わたくし達が奇跡というのは喜ばしいことである、希望であると認識しているから。奇跡というのは、今のような国が崩壊するという場面には当て嵌められないのです。たとえこれが奇跡のような出来事としても、この奇跡を救うような奇跡が起きない限り、人々は奇跡と認識できないのです。それは、とても自分勝手だと思いませんか?」
カミルには理解ができなかった。伊達に3年前までいた騎士学校の座学で晩年最下位をとっていたわけではない。彼が理解しているのは、国が滅亡しそうなこと、そしてそれが奇跡と認識されていないということだけだった。
「つまり、自分にとって都合のよいできごとしか人間は奇跡と認識できないのです」
彼女は苦笑いをしながら、説明をした。カミルは漸く理解した。哲学的なことを口説く彼女だったが、それと同時に簡単に説明する能力も備えているのだった。それは馬鹿なカミルにもわかりやすく、同時に簡易すぎない説明であった。
「では姫様は、何をお望みなのですか?」
言われたことの半分も理解できないカミルだったが、その哲学的な議論を交わすことは嫌いではなかった。彼女の瞳が、夜明けの空のように輝くからだ。そしてその瞳を見るためなら、その議論に付き合うことを厭わないのであった。
「ふふっ、カミルは本当にわたくしをよく見ているのね。いつも的確に、わたくしの言いたいことを察してくれる」
――そりゃそうだ。アンタのことをいつも見てるからな。
心の中でそう言いながら、彼女を見つめる。しかし、カミルはぎょっと目を開いたかと思うと、今言った言葉を撤回したくなった。
彼女は泣いていた、涙の膜を瞳に乗せながら。そんな彼女の姿を見るのは初めてのことであったから、彼女が何を求めてるのかというのはすぐに分からなくなった。それでも本能の中で、経験の中で、心の中で、彼女が何を求めているかは察していたのかもしれない。
「貴方は、わたくしが求めていることなどとうにお分かりになっているのではなくて?」
「……。」
「ふふっ、その苦虫を噛み潰したかのような顔。言い逃れはさせませんわよ、わたくしにここまで言わせておいて」
泣き笑いのような顔をしながら、彼女はカミルに命令をした。例え泥にまみれていようと、血にまみれていようと、その高貴さと美しさは何にも覆すことは出来ないのだろうとカミルはふと思った。
「ねぇ、命令よ。カミル」
「……。」
「わたくしと、逃げて」
すっと手を差し伸べられた。白くまろやかな象牙のような手、なににも傷をつけられたことのない手。それは彫刻のように計算された美に近く、カミルの心を擽った。
それでもカミルは何も言わなかった。哀しみを湛えた眼で彼女を真摯に見つめ、何もわかっていない阿呆のように振る舞った。しばらくそうしていると、一層悲しそうな顔をした彼女がカミルを見て泣き出した。
「貴方は、わたくしをさらってはくださらないのね」
「……。」
「もう嫌なのよっ! お願い、滅亡する前にわたくしを連れ出して一緒に逃げて! お願い、お願いよカミル!」
「もう、誰も逃げられませんよ……」
「嘘よ! あなたなら……あなたならっ!」
そう言ったきり声をあげて泣き始めてしまった彼女を眺め、しばらくしてから彼女の部屋を静かに去った。背後からはすすり泣く声が聞こえるだけで、声も、手も、何も追ってはこなかった。
――これでいいんだ。
そう心の中で言い聞かせながら、自分の心が泣いているのをよく知っていた。ふと空を見上げると、暁のような不思議な色合いをしていた。それは彼女の瞳のように美しく、気高く、誇り高く、カイルの胸に突き刺さった。
***
遠い遠い、古の王国の話。滅亡の危機にさらされながら、一人の勇敢な騎士によって国は救われた。その話は海峡を渡り、国境を越え、人々に受け継がれてきた。しかし、騎士と姫君の間にあった、美しく悲しい恋のお話を知る人はいない。
(2020/3/20 改稿)
(2020/3/25 改稿)