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LOST PRINCE  作者: 天海六花
7/39

影 3

     3


 マーシエから思いも寄らなかった事を告げられ、もともと気弱なフェリオは完全に萎縮して意気消沈してしまっていた。喉が乾いても用意された水が飲み込めず、ジョアンが持ってきたスープとパンの簡易的な食事も全く手を付けていない。

 今もすぐ傍で、ジョアンがフェリオの身支度を整えている。

 体を隅々まで丁寧に拭かれ、上等な服を着せられ、髪を梳いている。

「……あ、の……」

「はい、なんでしょう?」

 王子の影などできない。そう何度も訴えようとして、いざ声を掛けたら言い淀む。それを先ほどから何度も繰り返していた。

「フェリオ君。身支度が整ったら、ご案内する場所があります。夜の食事はその後になってしまいますけれど、今、食べなくて大丈夫ですか?」

「は、はい……」

 身支度が整えられ、フェリオはジョアンにしばらく待っているように言われた。部屋を出て行ったジョアンを見送り、気弱でおとなしい彼は、彼女の言うままに静かに待っていた。待つ事しか、できなかった。


 ジョアンはメイド服を着ているだけで、鎧も着ておらず、マーシエのように帯剣もしていない。穏やかな人柄なのは、何度か声を掛けられて分かった。

 なので『彼女は恐ろしくない。敵意はない』と、必死に勇気を振り絞って話してみようとするのだが、マーシエより年上であるジョアンに、まだ本心を打ち明けられない。

 兵士はもちろん、大人も怖い。

 そんな彼の心情が、ジョアンを受け入れる事を拒否していた。

 サイドボード代わりの木の椅子には、冷め切ったスープとパンが乗ったトレイが置いてある。質素とは言え、ピオラたちとスラムの墓守小屋で過ごしていた時には、見る事もできなかったような豪華な食事だ。

 今はジョアンの姿もない。

 フェリオはそっと手を伸ばして、スプーンをスープに浸してみた。黄金色のスープを掬う。そして音を発てずにそれを口へと含んだ。

 塩味とスパイスの効いたスープが口いっぱいに広がる。フェリオは初めて食べるそのスープの味に感動した。そしてピオラたちを思い出し、再び目を潤ませた。

「僕が王子の代わりなんてできるのかな? それに出来たとして、本当にピオラたちみたいな子が救われる日がくるのかな?」

 王子を演じ切る自信は微塵もない。しかしピオラならきっと、自分を応援してくれただろう。ならばピオラのために、スラムの他の孤児のために自分を犠牲にするのも悪くない生き方なのかもしれない。だって自分には、もう守ってもらえる者も、守る者もない、天涯孤独の身の上なのだから。だから少しでも、誰かの役に立てるのなら。

 若干の心変わりをしていた。美味しいスープが心境の変化をもたらせたのかもしれない。もしくはピオラたちの死を、ようやく心が受け入れられたからかもしれない。

 理由は分からないが、自分を助けてくれたマーシエを、ジョアンを、信じてみようかと思い始めていた。


 少しして、ジョアンが戻ってきた。フェリオはまたとっさに身構えてしまう。

「謁見の用意ができましたので、どうぞこちらへ」

「え、謁見?」

 オウム返しに問うと、ジョアンは小さく微笑んだ。

「フェリオ君をオーベル殿下として扱う事に同意した、ごく少数の方との謁見です。フェリオ君という影の存在を認識せずに、この重大かつ秘密の作戦を実行する事などできませんからね」

 彼女の言う事はもっともだが、まだ他の大人や兵士に会う度胸などない。フェリオは嫌だと首を振った。

「僕、まだ……」

「皆様お忙しい方々です。あなたの我が儘を押し通す事はできません。どうぞ」

 彼女は無理に腕を引くのではなく、あえてフェリオの自主的な行動を促す。もはや彼に拒否権や退路は無かった。


 怯えながらも、渋々ジョアンに付いて部屋を出る。着た事のない上等の服は少し大きめだったが、とても息苦しく、フェリオは何度も襟を引っ張って空気を貪るように喘いだ。

 石造りの廊下。ここにも窓は小さな明かり取りのものが並んでいるだけで、通路の明るさを確保するための明かりは主に、均等に設置された獣油のランプだった。

「……あの……大きい窓、ないんですか?」

「ええ。この隠れ家は、半分地下に沈んだ形で、大岩を繰り抜いて隠されています。ですからフェリオ君一人では逃げ出せませんよ」

 逃げるつもりは毛頭ない。逃げ出せるとも思っていなかった。

 冗談めかして呟いた自分の言葉が可笑しかったのか、彼女はクスリと笑い、小さく肩を揺らした。フェリオの緊張など、お構いなしだ。

「じゃあ……その……誰に会うんですか?」

「それは皆様にお会いしてから自己紹介なさると思われますので、私からは申し上げません。皆様立派なお方ですので、極力粗相のないようにお願いします」

 ますます萎縮するような事を言われ、フェリオの歩みが鈍くなった。

「こちらです。皆様もうお揃いのはずですから」

 木の扉に掌を向け、ジョアンは彼に一度礼をし、そして背を向けた。ゆっくりと扉を開けて再度、中の者たちへ一礼し、室内へと入る。

 フェリオも慌てて室内へ入り、そして彼女の真似をして一礼した。頭を下げる事で、少なくとも失礼な出会いにはならないだろうと考えたのだ。

 顔を上げてまず視界に飛び込んできたのは、大層立派な紋章のタペストリーだった。初めて見るものではあるが、それが自分の身代わりである王子の事を表すものなのだとぼんやりと認識する。

 室内には長いテーブルと、椅子が四脚。初老の老人と屈強な騎士、そしてマーシエとがいた。余っている椅子はフェリオのものだと、彼は瞬時に理解した。

 自分のための椅子が用意されているだけでも、ことさら緊張感を増してしまう。

「フェリオ、よく来たね。こっちに座るんだ」

 マーシエが自分の隣を指差した。フェリオはガチガチに緊張したまま、彼女の言うとおりにする。彼のすぐ脇に、ジョアンが控えるように立った。メイドである、彼女の分の椅子はないようだった。


「なるほど」

 老人がフェリオをじっと見ている。その隣では騎士がフンと鼻を鳴らしていた。

「もう少し貫禄をつければ充分影として通用しそうじゃな」

 老人の声に、騎士の視線に、フェリオは俯いてしまう。するとすぐさまジョアンが小さく耳打ちした。

「俯かないで。その癖は直してください」

 フェリオは慌てて顔を上げ、僅かに震えながらぎゅっと目を閉じた。だがすぐに、目を開き、前髪の隙間から老人と騎士を怯えながら見つめる。

「フェリオ、紹介するよ。こちらが魔術師アスレイ師。あちらがヘイン騎士長。今回の話を知っているのは、あんたとジョアンを含めてここにいる五人だけとなる。ジョアンがあんたから離れる事はないけど、誰にも吹聴しないように。最重要機密だからね」

 頷きはしたが、声を出して返事は出来なかった。まだ心に恐怖が残っていたのだ。いや、その感情を払拭する事など、永遠にできはしないのではないだろうか。ここにいる者たちと、孤児である自分は、あまりにも身分が違いすぎる。

「スラムのガキに殿下の真似事など、正気の沙汰とは思えん」

 屈強な騎士長ヘインは露骨な厭味を口にする。

「しかし考えようによっては、うってつけの人選じゃと思うぞ。何かあったとしても、誰も責める者はおるまい」

 魔導師アスレイが好々爺の笑みを浮かべて辛辣な言葉を続ける。

 マーシエは申し訳無さそうに眉尻を下げ、フェリオに語りかけた。

「フェリオ、重責を押し付けてすまない。何かあった時のためにスラムの孤児を影として使う事は、あまりに不公平で打算的で卑怯だったとは思うけど、こっちもいつまでもデスティンから逃げ回る事もできないし、必死だったんだ。分かってくれると嬉しい」

 フェリオが弱気で自身の言葉を、思いを口にする前に、どんどん話が進んでしまう。もう逃げ出す事ができないところまで。

 これが最後のチャンスだと思い、フェリオは懸命に声を絞り出した。

「あのっ……ぼ、くは……できません」

 それまで同情的だったマーシエが、突然ドンとテーブルを叩いた。思わずフェリオは俯いて顔を背ける。

「まだグダグダ言ってんのかい!」

「マーシエ、落ち着きなさい」

 アスレイがいきり立つマーシエを宥める。

「孤児から一転、王子の身代わりをさせられるのじゃ。そりゃあ心の準備に時間が掛かるのは当然じゃろうて」

「たっぷり二日も考える猶予を与えて、まだその態度かい? あたしだって、スラムの孤児にオーベルの代理なんて不安で仕方ないんだよ!」

「影を使おうと言い出したのはマーシエではないか。今更そちらで内輪揉めするな。腹ただしい」

 ヘインがマーシエを責める。

 完全に気後れして泣き出しそうになっていたフェリオに、メイドのジョアンはそっと背を撫でて落ち着かせようとした。

「フェリオ君。私が背中を支えます。だから勇気を出してください」

 ジョアンの暖かい手に、フェリオは恐る恐る顔を上げる。マーシエは怒りの形相だったが、もう怒鳴るつもりはないらしい。唇をぐっと引き結んでいる。

「僕、は……僕……」

「スラムの孤児友達たちを安心させてあげたい……でしょう?」

 考えていた事をジョアンに先に言われ、彼は彼女を見上げた。彼女は優しい笑顔でコクリと頷く。


 すぅっと小さく深呼吸した。乱れた思考を整理した。心の奥底に沈んでいた、なけなしの勇気を必死に絞り出した。

 そして──フェリオは決心した。

「……質問、させてください」

「なんだい?」

 マーシエが首を傾げる。彼女の向こうでは、アスレイとヘインが黙って二人のやり取りを見つめている。

「ぼ、僕が王子の真似事をすれば、本当にスラムは変わるんですか? もうピオラみたいに飢えて死ぬ子供はいなくなるんですか? 怖い兵士に追い回されるような事はなくなるんですか?」

 今にも胸が張り裂けそうなほど、心臓がバクバクと脈打っている。尋常でないほど、鼓動が早くて息苦しい。

「……そうなると、あたしも信じている。フェリオならできるさ」

 フェリオにとってそれは、、責任転嫁されたようで、満足な返事ではなかった。しかし、マーシエの気持ちははっきり分かった。

 乾いた喉を、唇を、唾を飲み込んで濡らし、フェリオはゆっくりと顔を上げた。

「……わ、わかりました。やり、ます。自信ないけど……僕、ピオラのためにやります。スラムの仲間のためにやります。だから、みんなを、僕を、助けてください」

 ほとんど淀みなく言えた。

 本音はまだまだ不安の方が遥かに大きい。正体がバレれば死ぬと言われているが、死はさほど恐ろしくない。失敗する事によって、自分に関わった者たちが道連れに死ぬ事が怖いのだ。

 だから彼はやると決意した。自信はないが、やると口にした。自信のなさを心の奥底に押し込め、固い決意をこめて。

 マーシエの表情が和らぐ。

「ありがとう、フェリオ。アスレイ師、ヘイン騎士長、これでいいですね?」

「俺はまだ納得できんが、アスレイ師が仰るのなら、それに従おう」

「フェリオじゃったか。殿下の身代わり、しかと頼むぞ。マーシエ、ジョアン、しっかりこの者に殿下としての教養を身に付けさせるのじゃよ」

 ジョアンは一礼し、マーシエは深く頷いた。フェリオはどうしていいか分からず、膝の上でしっかりと拳を握り締めた。だがその拳は本心を映し出すようにブルブルと震えていた。手汗がじっとりと滲んで気持ち悪かったが、この者たちの前でそれを拭き取る仕種も憚られるほどの緊張を強いられていた。


「まずは体を作る所からだね。それから勉強だ。ジョアン、頼むよ」

「承知いたしました」

 フェリオの隣でジョアンが深々と頭を下げた。

「では今後の動向や作戦について、引き続き内々なる会合としよう。『殿下』は下がっておられよ」

 アスレイはフェリオを『殿下』と呼び、下がる事を指示した。もうすでに影として扱われる事に、フェリオは喉の奥で唸った。

 やると言ったものの、まだ躊躇いは捨てきれていないからだ。

「殿下。お部屋にお食事をお持ちします。どうぞこちらへ」

 今までフェリオと呼んでくれていたジョアンまで、自分を殿下と呼ぶ。フェリオは自分の名前を失くしてしまったかのように錯覚した。

 もう、僕は孤児のフェリオではないのだ。

「……はい」

 椅子から下り、彼女に導かれながら退室する。アスレイとヘインの隣を通る時、ヘインが露骨な咳払いをした。フェリオは思わず身を固くする。

「俺の咳払いくらいで怯えるな」

 彼だけはまだ、フェリオを敬う気はないらしい。露骨な敵意を見せる。その様子はますますフェリオを萎縮させた。

 まだ会って数分であり、彼に王子の身代わりを労ってほしい訳ではないが、これから共にやっていく仲間なのだ。怯えさせるような行動は極力慎んでもらいたかった。

「ヘイン騎士長様。失礼ながら申し上げます。殿下の事は私がマーシエ様より託されております。横槍はご遠慮いただけないでしょうか」

 ジョアンが強気な態度でヘインからフェリオを庇った。ヘインはフンと鼻を鳴らし、顔を背けた。


 来る時も通った薄暗い廊下に出て、フェリオはようやく息苦しさから開放された。これから先の事を考えれば、まだまだ頭の痛い苦しい事ばかりだが、ひとまず呼吸を整える事ができた。

「よくあの短時間で決断なさいましたね」

「ピオラなら僕を応援してくれると思ったから……」

「そのピオラさんと仰るのはどなたです?」

「友達、です。誰より大好きで、大切な妹みたいな子でした。死にましたけど」

 ジョアンは緩い癖のある髪を揺らし、無言で頷いた。

「そうですか。フェリオ君の大切な友達のために、私も尽力いたします。一緒に頑張りましょう」

 呼称が名前呼びに戻っていた。フェリオはじっとジョアンを見上げる。ジョアンも彼の視線の意味に気付いたようだ。

「私と二人の時は、これまで通りフェリオ君と呼ばせてくださいね。皆様の前では殿下とお呼びしなくてはいけませんが、フェリオ君はフェリオ君でしょう?」

「あ、はい。嬉しい、です。殿下ってずっと呼ばれたら、僕じゃなくなっちゃうみたいだったから……」

「そうですか。それは良かったです」

 彼女がふふと笑い、フェリオは少し気持ちが軽くなる。彼女の優しさが心地よく、気持ちが楽になってきたのだ。初対面の時の緊張は何だったのかと、笑えるほどに。

「あの……ジョアンさんはどうして僕なんかに優しくしてくれるんですか?」

 思い切って聞いてみた。いくら王子の影を務めるとはいえ、もともとスラムの孤児である自分に肩入れする意味が理解できなかったのだ。

「昔の話ですが、弟がいました。戦の前に流行り病で亡くしましたが、あの子が死んだのが、フェリオ君よりもう少し幼い歳の頃でした。ですからフェリオ君があの子のように感じられてしまって。迷惑でしたか?」

 結った栗色の髪を揺らし、彼女は小首を傾げる。

「い、いえ。その……嬉しい、です。優しくしてもらえて……」

「それは良かったです。さぁ、早くお部屋に戻りましょう」

 ここへ運ばれてきた時に休んでいた部屋の前に辿り着き、ジョアンは木の扉を開けてフェリオを見つめた。

「もう一度確認させてくださいね」

 フェリオはジョアンを見上げる。

「本当に殿下の影を引き受けてくださるのですね? もう後戻りはできませんよ」

「はい。精一杯がんばります。ジョアンさんこそ、本当に僕でいいと思ってるんですか?」

「私の意見は関係ありません。私はマーシエ様と本物の殿下に仕えるだけです」

 彼女の言葉に、浮ついていた彼の感情は一気に冷え固まる。

 味方だと思っていた彼女に期待されている訳ではなかったと知り、フェリオは少し落胆する。それでも、自分で考えて決めた事は必ずやり遂げようと、もう一度胸に刻んだ。

「温かいお食事を準備します。これからはどんな用件でも私に仰ってください」

 ジョアンは一礼して立ち去った。フェリオはそれを見送り、室内へと入る。

 先ほどまでは息苦しく圧迫感のあった部屋だが、今はもっと息苦しい。しかしこれに慣れなければならないのだと、必死に自分に言い聞かせた。

「僕はオーベル王子……王子なんだ……王子……」

 小さく呟きながら、フェリオはベッドの端に座った。

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