政の闇
全身を軽く打撲していた程度なので、胡蝶は数日で仕事へ復帰出来た。
そろそろ、後回しになっていた総督の就任式を行わなければならない。
前の統括者からの資料をすべて引き継いで、落ち着いてからと考えていたが……もうエウルに来てから一ヶ月が経とうとしていた。
「影連さん、可哀想に。あんなにコキ使っちゃって、虎姫は酷いなあ」
「あれは働くのが趣味みたいな男だからな。むしろ、休ませた方が具合を悪くしそうだ」
「そうだね。君の周りは被虐趣味ばかりだもんね」
「変態が言うな」
暢気に笑っている楓雅の隣で、胡蝶は口を曲げた。
だが、不意に腕を組み、楓雅の様子をうかがうように視線を向ける。
「いいのか、私がしようとしていることは、お前たちにとって都合が悪いんじゃないのか?」
「なんのこと?」
「とぼけるな、全部知っている」
十年前、胡蝶はエウルを訪れていた。
その記憶を抹消したのは、胡蝶の母だ。
胡蝶は正義感が強く、曲がったことを許さない性分の子供だった。
政でも、自分が思ったことには口を挟み、周囲から破天荒な皇女だと言われ続けていた。
だから、当時の胡蝶には許せなかったのだ。
母は穏便に交渉を続けてエウルとの友好関係を築こうとしていた。
そのために身分を偽って秘かにエウル入りして、連れてきた外交官と共に話を進めていたのだ。
それなのに……他の有力な公家はそれをよしとしなかった。
エウルの地理は軍事的に重要な拠点となり得た。
この地を取れば、長年睨み合っている大陸第二の大国イブリスに対して、巨大な圧力をかけることが出来る。数十年前にエウル独立を許してしまった大国ルリスを出し抜くことにもなった。
エウルは不思議な力を持った獣人たちの住まう国で、決して弱くはない。
しかし、もっともな理由を作って兵力を注げば、瑞穂が勝てない相手ではなかった。
争いを行う理由を用意出来れば、瑞穂側にとって都合よく事が運べる。
「母が非公式に連れていた外交官は二人いた。一人は暗殺された九条悠馬。もう一人は浅野栄雅――お前の父親だろう?」
密命を受けた浅野栄雅は、穏健派の后妃を裏切り、九条悠馬を殺害した。
そして、それをエウル側の仕業に見えるよう工作したのだ。戦争の火種を作るために。
そのことを、一緒にいた胡蝶は悟っていた。
そして、行動せずにはいられなかった。
しかし、皇女とはいえ、政の闇に関われば命の保証はない。
母は彼女の安全を守るために、エウルを訪れたこと自体を忘れさせなければならなかった。
母は胡蝶の記憶を闇に葬ることにした。
彼女は占術師でもある。
一種の暗示のようなものを施したのだろう。
胡蝶に力がないうちは、エウルでの記憶を取り戻さないように。
「大方、実家から私が変な行動を起こさないか監視するように命じられていたんだろう? 今回だって、瑞穂に都合のいい統治をさせるように言いつけられているんじゃないのか?」
楓雅は胡蝶の話を黙って聞いていた。
だが、やがて、肩を竦めると、開き直ったように笑ってみせる。
「だって、仕方ないじゃないか。君と違って、俺にわがままは許されないんだ……で、今更どうする? 十年前の件を断罪したところで、誰も耳を貸さないと思うけど。俺は見てるだけで、ほとんど関係ないし」
「そうだな、今更遅い」
侵略戦争は実行され、エウルは占領されてしまった。
今更、十年前の件を咎めたところで、揉み消されてしまって終りだろう。
それに、事件は発端にすぎない。運命を分かつ分岐点は、他にもいくつかあった。
楓雅はただの監視役であり、胡蝶が何もしなければ動くことはない。
「私は、もう母に守られるだけの子供ではない……そういえば、武官になった理由を、まだ話せていなかったな」
歳を重ね、政治を学んだ。
武官となって戦も体験し、政の醜さにも触れてきた。
だからこそ、今更、事件を明るみにするべきではないとわかる。無鉄砲に進んでも先はない。
「たぶん、自分の正義を守るためだ」
「正義か。虎姫らしい」
胡蝶の答えを聞いて、楓雅がフッと笑みを描く。
「記憶は消されてしまっても、きっと、覚えていたんだろうな。だから、自分から総督に名乗り出たのかもしれない」
幼い胡蝶でも、文官が属州の総督を任せられる例が少ないことを知っていた。
難しい領地を任せることが出来るのは、優秀な武官や皇子ばかりだ。
そして、何よりも胡蝶の父である帝は武勇を好み、手厚く援助していた。
ならば、皇女である胡蝶が正義を貫いてエウルを守るには、武官になるしかない。
そうしなければ、ジルと再会する約束も果たせなかった。
忘れてしまっても、本能的な想いだけは、ずっと覚えていたのだと思う。
それが今までの胡蝶を支え続けてきたのだ。
結果的に遠回りしてしまったが、胡蝶はやっと、抜け落ちていた自分の想いを取り戻すことが出来た。
心の奥に疼いていた暗い空虚の闇は埋められ、明るい希望へと変わる。
だから、今度は目的を果たさなければならない。
「綺羅に嫌われたくなければ、家から頼まれた仕事は怠けることだな。お前は私の従者だ、それ以外の役目は必要ないだろう?」
「そうだね。虎姫を無視して親に告げ口したなんて知れたら、婚約破棄されちゃう……それは嫌だね。虎姫は可愛くて大好きだけど、綺羅嬢はとっても愛してるんだから」
楓雅は飄々とした態度で頷き、軽く笑った。
「案外、どうでもよさそうだな」
「まあね。実家や帝が心配してる類の無茶をしていない分には、俺は仕事しなくていいから。ただの監視役なんでね。それに」
楓雅は妙に不敵な笑みを浮かべて、舐めるような視線を胡蝶に向けてきた。
そして、何を妄想したのか、「ふふふ」と不気味な笑声を上げはじめる。
「ついに頭が逝ったか、変態」
「虎姫がエウルの着物を着てる姿を想像してさ。あー、楽しみだね。うんと露出の多い服を選ぼう。もう盛大に胸元が開いていて、丈も短いのにしちゃってさ。何なら、俺が着せてあげてもいいよ?」
「……この変態がッ!」