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嘘の理由

 ――約束する。また、ここで会おう。



 ああ、そうか。

 ジルは約束を守ってくれていたんだな……。



 今頃になって甦った記憶。

 思いのほか鮮やかな記憶の雲が晴れるように意識が浮き上がる。

 浅いような、深いような眠りから覚醒し、胡蝶はぼんやりと天井を眺めた。


 平気だと言ったが、怪我の大事を考えて、また寝かされてしまった。

 少しだけ痛む身体を抱えて、胡蝶は寝返りを打つ。

 全身を打撲しているが、骨は折れていないらしい。

 恐らく、また数日で仕事が出来るだろう。


 勇猛苛烈で、男のような「虎姫」。

 そう呼ばれてきたが、ここ最近はずっと寝ている気がする。

 これでは「猫姫」ではないかと、自嘲の笑みを浮かべた。


「コチョウ様、入ってもよろしいですか?」

 扉を叩く音と同時に響く声。

 胡蝶は慌てて寝台から起き上がり、入口を見据えた。

「入れ」

 胡蝶が返事をすると、ゆっくり扉が開き、ジルが顔を覗かせる。

 手に持った盆には、生野菜(サラダ)麺麭(パン)野菜汁物(やさいスープ)の簡単な食事が乗っていた。

 胡蝶が凝った料理を食べられないので、比較的口にしやすいものを選んだのだろう。


「具合はいかがですか?」

 ジルは食事を寝台の横に置きながら胡蝶を見据える。

 だが、胡蝶は何を言えばいいのかわからず、黙って唇を結んでしまった。


 今更、何を言えばいいのかわからない。

 ジルは胡蝶を覚えていた。約束通りに覚えていてくれた。

 それなのに、胡蝶は今まで、ずっと彼を忘れてしまっていた。


 その間に、自分が彼にどんなことをしてきたのかを考えると、どんな顔をすればいいのかわからない。


 酷い仕打ちをした。

 自分が渡した耳飾りさえ覚えていなかった。

 娘を探してやるなど、どの口で言ったのだろう。

 ジルは、どんな想いで胡蝶を見ていたのだろう。


 胡蝶は不安になって顔を持ち上げる。

 すると、ジルのまっすぐな視線とぶつかってしまった。


「すまない」

「どうしたんですか? 急に謝るなんて、頭でも打ったんですか?」

「違うんだ。すまない、覚えていられなかった……私は、お前のことがわからなかった」

 わけがわからない。

 そんな表情で眼を見開いているジルを、胡蝶は無意識のうちに引き寄せた。


 軽く抵抗しようとする頭を両手でつかんで、唇を押し付ける。


 再会の約束を果たした証は本当に一瞬で、口づけと呼べるのかどうかも怪しかった。

 胡蝶の行為にジルは驚いて眼を見開いて、動きを固まらせてしまう。


「あの……」

「こ、こういう礼儀なのだろう! べ、別に恥ずかしくなどないぞ!」

 顔が熱くなりすぎて、三回くらい爆発してしまった気がする。

 その熱を抑えようと、胡蝶は悶えるように寝台に横たわり、枕に顔を埋めた。

 もう穴があったら入りたい。掛け布団も頭から被りつつ、胡蝶は悶絶する。


 ジルは胡蝶の様子を眺めて放心していたが、やがて、いつもの笑みを取り戻す。

 ゆっくりと掛け布団が剥がされる。

「やっと、思い出してくれたんですか?」

「だから、すまないと言っている。約束通り、こっちから接吻してやったぞ! それで許せ!」

「身勝手ですね……でも、僕も謝らないといけないことがあります」

 枕に顔を鎮めた胡蝶の頭に優しい手が触れる。

 なんだか子供扱いされているようで不愉快だったが、顔を上げる気にもならないので、放っておいた。


「申し訳ありません。あれ、嘘なんです」


 嘘?

 ジルがいつ嘘をついたのだろう。

 胡蝶は眉を寄せながら、少しだけ視線を上げた。


「再会の約束にキスするなんて、嘘ですよ。そんなことを言ってしまったなんて、僕の方が忘れていました」

「な……なにッ!?」

 胡蝶はあまりの衝撃で起き上がり、ジルの胸倉をつかむ。

 ジルは申し訳なさそうにしているが、それは表情だけだ。

 尻尾の方はパタパタた左右に振れており、嬉しいと思っていることが丸見えだった。


 だが、すぐに我に返って掛け布団を被り直した。

 そんな風習などないというのに、自分はあんな恥ずかしいことをしてしまったのか。

 先ほどとは比べ物にならない羞恥心で顔が火照ってしまう。

 頭に山があったとしたら、もう十度は噴火しているだろう。


「何故、そんな嘘などついたんだッ」

 やっとのことで声を絞り出すが、酷く情けなくて弱々しいものになってしまう。

「何故って……理由を聞くんですか?」

 胡蝶が篭る掛け布団の殻を優しく剥いて、ジルが笑う。

 涙目になりながら顔を上げると、彼はそっと胡蝶の頬を撫でた。


「これだけ待たされたんだ。好きな人の気を引くためについた嘘くらい、許して頂けませんか?」


 震える唇に指で触れられ、胡蝶は頬に涙がこぼれるのを感じた。

 ジルは寝台の上に身を移し、胡蝶の頬を伝う涙を拭いとる。


「泣かしてしまいました。すみません」

 胡蝶の黒い前髪を撫でながら、ジルはおもむろに顔を近づける。

 だが、胡蝶が逃げるので、悪戯っぽく笑った。


「謝罪のキスをする決まりです」

「そ、それも、嘘だろッ。騙されないからな!」


 思わず手を払うと、ジルが寂しそうに眼を伏せる。

 そんな顔などさせたくない。

 胡蝶は胸の奥が痛んで締めつけられるが、それをどうやって伝えればいいのかわからなかった。


「僕が嫌いですか?」

「別に、そういうわけでは……ひゃっ」

 口篭る胡蝶の身体を覆い被さるようにジルが抱きしめる。

 唐突過ぎて硬直している胡蝶を、ジルが愛しげに撫でた。


「最初は嬉しかったんですよ。あなたがエウルに戻ってきてくれたと思って。僕には、あのときの女の子だって、すぐにわかった。そして、あなたが僕をジルと呼んで、命を救ってくれた。それだけで、とても嬉しかったんです……後で本当に覚えていないと知っても、そのときの嬉しさは忘れなかった」

「わ、私は」

 ジルと呼んだのは、イヌに立派な名前は必要ないから。

 奴隷商から買うことにしたのは、単に玩具が欲しかったから。

 それなのに、ジルはこんなにも喜んでいる。


 しかし、何処かでジルを救いたかったのも嘘ではないと思えてきた。

 あのまま突き放せば、ジルは間違いなく殺されていた。

 彼が胡蝶の前で名乗らず、そのまま、他の主に売られていたら、どんな目に遭ったかわからない。


 胡蝶はジルを忘れていたけれど、本当は何処かで助けたかったのかもしれない。

 ジルを見て感じていた苛立ちは、もしかすると、心の何処かで彼を覚えていたから――忘れてしまっていた自分への苛立ちなのかもしれない。


 それを上手く表現することが出来なくて、あんな仕打ちをしてしまった。

 後からなら、どうとでも解釈出来るが、今の胡蝶にはそう思えてならなかった。


 胡蝶は無意識のうちに、ジルの背に手を回す。

 シャツが弱々しく握られるのを感じて、ジルは胡蝶の顔を覗き見た。


 黄昏の藍を宿した瞳が熱情を帯びる。

 少し湿った吐息が触れ合うほど近くに顔が迫り、身体中が乱れた律動で脈打った。


 胡蝶は震える瞼を閉じて、ジルにしがみつくように身を預ける。

 肌の温もりが心地良い。

 少し熱すぎる身体を抱きしめると、柔らかくて、モフリとした感触が――。


 物凄い勢いで顔を舐められた。


 手にパタパタと騒ぐ尻尾が当たり、肩にはちょこんと前足が乗っている。

 おまけに、「わんっ!」と元気な鳴き声まで聞こえた。


「おい……」

 まさかと思いながら目を開けると、嬉しげに吠える白い犬の姿があった。

「お前、嬉しいと犬になる癖は直っていなかったのか?」

 胡蝶は疲れた息を吐き出しながら、思わず項垂れてしまう。


 撫でて、撫でて。

 そう言っているように見えるジルの頭を毟るようにグリグリ撫で回しながら、胡蝶は優しく唇を綻ばせた。


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