小さな嘘
「大丈夫?」
俯いていた幼い少女の顔を、少年が覗きこむ。
その瞬間、少女はハッとした表情で前を向いた。
「クジョウ様のお連れの子だよね。迷子になったの?」
見ず知らずの少年に図星を突かれて、少女――胡蝶は唇を曲げた。
胡蝶は数秒目を泳がせていたが、やがて、ふんっと鼻を鳴らして顔を背ける。
「迷子になどなっていない。ただ歩いているだけで間違われるとは、不愉快だ」
嘘だ。
本当は、初めて見る異国の城が珍しくて、歩いていたら部屋への帰り方がわからなくなってしまったのだ。
そもそも、天井の絵が悪い。
一見して、梁がいくつもあるように感じるのに、よく見るとほとんど騙し絵なのだ。
そこに見たこともない画風で、いろいろ描いてあれば、誰でも上ばかり見て歩いて迷ってしまうではないか。
お陰で、迷子になった上に何度も転びそうになってしまった。
そんな自分勝手な言い訳を考えながら、胡蝶は不貞腐れて窓の外を見る。
中庭に広がる薔薇園が美しく思えたが、行き方がわからない。
「君、素直じゃないね」
「う、うるさいっ! だいたい、私には胡蝶という名がある。馴れ馴れしい口を聞くな。礼をとれ!」
本当は「殿下」と呼ばれなければならないのだが、今は身分を隠す必要があるらしい。
このエウル王国との国交を結ぶために、胡蝶は母や官職の者と秘かに訪れている。
母は、胡蝶に何も説明していないが、ちゃんと理解している。
昔から政の察しが良い胡蝶を、母は自慢に思ってくれているし、胡蝶自身も誇りに思っていた。
いつかは、文官となって、国のために政治を動かしたいと考えている。
「じゃあ、一人前の淑女として扱わないと。よろしくお願いします、僕はジルドール・ディ・ローゼンベルクと申します」
「じる、ど……? この国の名前は随分と難しくて覚えにくいな」
「だったら、ジルでいいですよ。僕と同じような名前の人は、そういう愛称みたいだから」
胡蝶が宮の女官から「蝶姫」と呼ばれるのと似たようなものだと解釈した。
胡蝶が頷くと、ジルは唇に優しい笑みを描いて一礼する。
そして、片膝をついて胡蝶の小さな手に触れた。
指に落とされる唇。
その行為に驚いて、胡蝶は思わず悲鳴のような声をあげながら、手を後ろへ引っ込めてしまった。
まだ柔らかい感触が残る指に触れながら、胡蝶は頬を紅潮させてジルを睨む。
「な、なにをするっ!」
「あいさつですよ。この国では、紳士は淑女に敬意を払って、指先にキスするんです」
「そんな不埒な文化があるのかっ」
そういえば、絵画や彫刻もやたらと裸体ばかりだ。
服も瑞穂のものに比べると、露出が高いものを着ている婦人が多かった。
他国の文化を否定するつもりはないが、随分と破廉恥な人間が多いのだと思ってしまう。
「親しくなると、抱きしめて耳の近くにキスしたりもしますね」
「男と女なのにか!? 未婚でも?」
「男同士でもします」
「ここは男色まで公にしているのか!」
「軽く触れるだけですから。変な意味はないですよ」
全く理解出来ない。
珍しいものを眺めるのは楽しいが、胡蝶にとって、エウルの文化は未知との遭遇だった。
帝国でも公家たちがこぞって異国文化を取り入れて自慢し合っているが、わけが違う。
おまけに、気候が違っていて過ごし難いし、食事がほとんど口に合わない。
それに……。
「やっぱり、珍しいですか?」
胡蝶が一点に視線を注いでいるのを感じたのか、ジルは立ち上がって、自分の耳に触れた。
後ろでは、嬉しそうに長い尾が揺れている。
「触ってみますか?」
ジルが後ろを向いて尻尾を揺らすので、胡蝶は息を呑んだ。
母から、「獣人の方々は迫害されてきた歴史があります。無闇に耳や尻尾をつかんで迷惑をかけてはいけませんよ」と言い聞かされている。
馴れ馴れしく触れてしまっても良いものか、躊躇われた。
だが、ジルの白い尻尾はフサフサしており、先がクルンと巻いていて気持ちが良さそうだ。
まるで、胡蝶を誘っているようだった。
「触っても、いいのか?」
「ええ、どうぞ」
胡蝶は恐る恐る白い尾に手を伸ばして、撫でるように触れた。
すると、ジルは嬉しそうに尻尾を左右に揺らし、モフリとした毛並みで胡蝶の顔を撫でる。
「あ、ごめんなさい。嬉しくなると、つい動いちゃうんですよね。これ」
「嬉しいのか? 嫌ではないのか?」
「嬉しいですよ。あまり撫でられたことがないので。よかったら、もっと撫でてください」
変な奴だ。
胡蝶は唇を曲げながらも、気持ちの良い毛並みを撫でて顔を擦り寄せる。
すると、尻尾がパタパタと激しく振れ、やがて、ジル自身が白い犬の姿に変化してしまった。
いきなりのことに、胡蝶は驚いて飛び退く。
人間が獣になる様など、初めて見た。話には聞いていたが、本当に不可思議な能力だ。
だが、犬があまりにも嬉しそうに胡蝶に飛びつくものだから、頭を撫でながら笑った。
「獣人は、嬉しくなると動物になるのか?」
問いに答えるように、ジルは胡蝶の頬を舐め、柔らかな身体を擦り寄せてきた。
その毛並みに身体を埋めながら、胡蝶は笑ってジルの身体を撫でてやる。
「城を案内してくれないか? いろいろ、見て回りたいんだが」
そう言うと、ジルは元気よく吠えて、胡蝶の前を嬉しそうに走る。
胡蝶は花のような笑みを咲かせると、白い犬を追って長い回廊を走った。
† † † † † † †
帰国の期日が迫り、胡蝶は息をついた。
城には二週間滞在して、ジルと過ごしたのは一週間と少し。
エウルで過ごすうちに、ジルについて少しだけわかったことがある。
彼は王子だが、あまり周囲に好かれていないらしい。
誰も話してはくれないが、彼に愛情を向ける人間が一人もいないことは感じ取れた。
そして、胡蝶のように優しい母親がいないことも。
そのせいなのか、ジルの方も胡蝶にすっかり気を許しているようで、今は隣で寝息を立てて肩を寄せていた。
瑞穂で男児が皇女にこんなことをしていれば、女官たちが卒倒してしまう勢いで引き剥がすだろう。
城下の街並みを見渡せる露台からの景色は見事で、沈んでいく夕陽の影が美しく映えた。
石造りの街並みというのも悪くないと、胡蝶は感嘆の声を漏らす。
だが、胡蝶は明日で瑞穂へ帰らなくてはならなくなる。
そうしたら、次にエウルを訪れるのはいつになるかわからない。
「ん、ぅ? ごめん、寝てしまいましたね」
隣でジルが意識を取り戻し、目を擦りながら笑っている。
その瞬間に、胡蝶は小さな胸が張り裂けそうな感覚に襲われた。
そして、俯きながら問う。
「ジルは、また私に会いたいか?」
「うん、会いたいですよ」
私も会いたい。
そう唇の中だけで呟きながら、胡蝶は再びジルに視線を戻す。
「この国では、再会の約束はどうやってするんだ?」
問うと、ジルは少し間を置いてから、戸惑うように視線を背ける。
だが、すぐに悪戯な笑みを浮かべて胡蝶に向き直った。
そして、ゆっくりと、顔を近づけてくる。
小さな唇と唇が触れ合って、胡蝶は眼を見開いてしまう。
だが、不思議と嫌だとは思わなかった。
長いのか短いのかわからない口づけの間、胡蝶は身動きせずにジルを受け入れる。
「約束の儀式みたいなものです。次に会えたときは、コチョウの方からキスしてくれる決まりですよ」
そう言って笑うジルを見て、胡蝶は放心状態のままコクコクと頭を上下させた。
顔が熱くて爆発してしまいそうだったが、何とか平気な振りをしようと努める。
「大丈夫?」
「馬鹿にするな。こ、これが、こちらの礼儀なのだろう? 平気だ!」
反応をからかわれている気がして、胡蝶はつい声を張り上げてしまう。
だが、どうしようもなく恥ずかしくなって、意味もわからず頭を抱えた。
耳元で光っていた翡翠が手に触れる。
胡蝶はとっさにそれを外すと、片方をジルに押し付けた。
「瑞穂流の約束だ。持っていろ」
「でも、こんな高価なもの……翡翠はエウルでは採れないんです。僕には勿体無い」
「また会ったときに返してくれればいい」
胡蝶はジルを無理に言いくるめて、耳飾りを握らせた。
本当は、そんな約束の決まりなどない。今思いついたデタラメだった。
また出会えるという証が欲しかった。
瑞穂へ帰っても、ジルを忘れないでいるための証を作りたかったのだ。
「この翡翠が、きっと二人を引き合わせる」
耳飾りは占術師でもある母親がくれたものだ。
またいつか巡り会うための力をくれるに違いない。
「約束する。また、ここで会おう。いつか必ず、会いに来る。だから、お前も私を忘れないでくれ」
どうして、そんなことをしたかったのかわからない。
けれども、胡蝶はすがりつくような声で、何度もジルにそう言った。
ジルは優しい笑みを浮かべると、宥めるように胡蝶の手を取る。
「はい、約束ですよ。だから、コチョウも僕のことを忘れないでね」
「当たり前だ」
幼い約束と、小さな嘘が交わされた。