耳飾りの少女
ただの邸宅建設予定地の視察に、輿は目立つし時間がかかりすぎる。
結局、口煩く輿にこだわる影連を無視して、胡蝶は馬に跨った。
「まったく、二人とも頑固なんだから」
目付役との一連のやりとりを見ていた楓雅が肩を竦める。
「文句があるか?」
「いやいや、君らしくて良いと思うよ。俺も疲れないし」
「浅野殿が甘やかすから、皇女殿下の素行が乱れるのですぞ!」
影連は相変わらず、不満そうに口を曲げている。
胡蝶は頑固な目付役を睨んで息をついたが、不意に、足元でジルが行き場なく見上げていることに気づく。
「おい、楓雅。こいつを乗せてやれ」
「ヤダよ。何で、男と相乗りしないといけないんだ。君のイヌなんだから、そっちでいいじゃないか。うん、やっぱり、こういうのは綺羅嬢もダメって言うと思うんだ」
「こういうときだけ許嫁を盾にするなっ!」
「こういうときに限らず、いつでも盾にする! 可愛い虎姫とだったら、相乗りでも添い寝でも、混浴でも、何だって大歓迎だけど」
「尚のこと悪いわ、変態! だいたい、未婚の女子が男と相乗りして良いわけあるか」
「俺だって、まだ未婚ですけど。いつ帰れるかわからない異国の地で、男と相乗りするなんて、独身時代最大の黒歴史になっちゃうよ」
「意味がわからない。その理屈はおかしい」
「噛み砕くと、別に飼い主とイヌなんだから、気にしなくていいってことだよ。嫌なら、置いて行けば?」
「それは噛み砕いた結果なのか!?」
まったく、楓雅の言うことはいちいち突っ込みに困ってしまう。
今にはじまったことではないとは言え、胡蝶は嘆息せざるを得なかった。
「……後ろに乗れ」
置いて行っても良いのだが……少し迷った末に、胡蝶はジルに手を伸ばした。
すると、ジルはいつものような笑みを描いて、胡蝶の手を取る。
「いいのですか? 先日、あれだけの仕打ちをしたのに、今日は同じ馬に乗せてしまっても」
輿に乗って街を移動したときのことを言っているのだろう。
胡蝶はジルの問いに顔色一つ変えず、返答した。
「今更、どんな扱いをしたところで、私が歓迎されていないことには変わりないだろう」
胡蝶は案外しっかりとしたジルの身体を馬上に引き上げながら、面倒くさそうに息をつく。
それを見ていた影連が「皇女殿下ともあろうお方が……」などと文句を言っていたが、敢えて、聞こえない振りをした。
「急に丸くなりましたね。僕のことを気にしているのなら、不要です。あんなものにこだわった僕が悪いんですから。もういいんです」
「勘違いするな。新しい飼い主に悪いと思っただけだ。あれを持っている約束だったんだろう? 失くしてしまっているのでは、相手の娘が不憫だ」
「……そうですね」
胡蝶の背中から聞こえる声に、先日のような怒りの色は微塵も感じられなかった。
胡蝶はジルの宝を失くしてしまったというのに、彼は首輪に触れながら平気な顔をしている。
それとも、胡蝶が思い出の少女のことを探し当てることに期待して、もう耳飾りは必要なくなったのだろうか。
しかし、ジルの期待に反して、少女探しは骨が折れそうだった。
手始めに、ローゼンベルク城に残っていた外国人の賓客名簿を見てみたが、該当しそうな者はいない。
今は本国から出国者の名簿を取り寄せているところだ。こちらも、期待出来るかどうか怪しかった。
もしかすると、非公式の訪問だったのかもしれない。
しかし、自分から探してやると言ったものの、胡蝶は内心面白くなかった。
もしも、その少女が見つかったとして、胡蝶はどうするのだろう。
二人が望むなら、宣言通りにジルを少女の元に譲ってやらなければならない。
元々、叩き売りされていた奴隷だ。代わりのイヌは他にもいる。
揺れる馬上で背中の温もりを感じながら、胡蝶は乱暴に手綱を握った。
「あまり引っつくな」
「申し訳ありません、コチョウ様」
少し馬を揺らし過ぎたのか、胡蝶の背中にジルがしがみつく。
「新しい飼い主に、私が手をつけたと思われては困るからな」
皮肉っぽく言いながら、胡蝶は視線でジルを振り返った。
しかし、馬が揺れるからなのか、ジルは、ひたりと胡蝶の背に身を寄せて、顔を見ることが出来ない。
「コチョウ様は、何もわかっていない。それとも、本当に僕のことがお嫌いなんですか?」
蹄の音に乗る、かすかな声。
その声が震えていることに気づいて、胡蝶は手綱を放して後ろを振り返りそうになる。
だが、寸でのところで留まって、視線だけを向けた。
「どうせ、生まれてから優しくされた記憶なんて、ほとんどありません。どんな仕打ちをされても、僕は平気です……でも、あなたにそんなことを言われるのは、嫌です」
胡蝶の肩をつかむ腕に熱い力がこもる。
まるで、絶対に離さないと言っているような気がした。
「どういう意味だ?」
その強さが肩だけではなく、身体のずっと深いところまで締めつけているようで、胡蝶は戸惑ってしまう。
「本当に、わかりませんか?」
不意に腕を抱きしめるように肩の前に回され、胡蝶は動きを止めた。
背中越しに刻まれる鼓動の律動が跳ね上がり、耳元にかかる吐息も熱く感じる。
それに呼応するように、胡蝶の胸も不規則に乱れていく。
何をしている、放せ! そう叫ばなければならないのに、震える唇からは何の言葉も出なかった。
片手を手綱から離し、ジルの腕を払おうと試みる。
だが、触れ合う手があまりに温かくて、力が入らなかった。
「耳飾りなんて、もう必要ないんです。あの子のことも、探す必要なんてありません。あなたの傍にいられるなら、僕はイヌでも構わない」
ジルは何を言っているのだろう。
その真意を即座に理解することが出来ず、胡蝶は手綱を握る手を緩めてしまう。
同時に、胸の奥で疼く何かが悲鳴を上げる。
まるで、その意味を理解出来ない自分を責めるように。
心に出来た空虚の闇から何かが浮き上がり、爆発してしまいそうだ。
――約束する。また、ここで会おう。いつか必ず、会いに来る。
「なんだ……? くせ者!」
前方で馬を操っていた影連が声を上げる。
すかさず楓雅が矢を番えて放つ。
すると、物陰から隠れていた何かが飛び出した。
熊だ。
人の身長など優に越す大熊が両手を広げて、胡蝶たちの前に立ちはだかった。
楓雅の矢は確かに熊の胴を捉えていたが、薙ぎ払われてしまう。
胡蝶は素早く腰に帯びた刀に手をかけ、馬を宥めた。
「こいつも獣人か」
ここは小高い丘へ登る林の中とはいえ、熊が出るのは不自然だ。
瑞穂の支配に反対する獣人の賊と見なすのが道理だろう。
胡蝶は覆い被さるように向かってくる熊を射ぬくように睨む。
身体は大きいが、動きが鈍い。
居合の間合いまで引き付ければ、胡蝶の抜刀の方が相手よりも速いはずだ。
「虎姫、降りろ!」
楓雅が叫んだ瞬間、乗っていた馬が激しく嘶き、身体が傾いてしまう。
「なッ!?」
「コチョウ様!」
迂闊だ。
馬の足元を噛んだ犬の獣人を見て、胡蝶は舌打ちした。
半瞬も置かずして、胡蝶たちは馬から投げ出され、地面を転がってしまう。
胡蝶は手から離れてしまった刀を拾おうと起き上がるが、肩を強打したらしい。
思うように右手が伸びず、顔を歪めた。
「ジルドール殿下、こちらへ!」
何者かがジルの手を引いて立ち上がらせていた。
初めから、ジルを奪還するつもりだったのだろう。何人かの男が手際よく、彼を取り囲んでいた。
「おい、待てッ!」
連れて行かれようとするジルに、胡蝶は腕を伸ばした。だが、不意に躊躇われて、動きを鈍らせてしまう。
ジルは最初から逃げるつもりだったのではないか?
そんな思いが過る。
胡蝶に取り入ったのも何らかの間諜行為をするためで、最初から逃げるつもりだったとしたら?
彼が話したことは全て嘘で、胡蝶の油断を誘おうとしていたとしたら?
本当は思い出の少女などいなくて、全部作り話だったのだ。
該当者が見つからないのも当然だ。先ほどだって、胡蝶の隙を作るために、あんなことを言ったのかもしれないではないか。
ジルは王子だ。獣人にとって、彼の奪還は意味がある。
そう考えれば、全て辻褄が合うではないか。
「く、あッ……!」
戸惑う胡蝶の背を熊の腕が襲う。
幸い、熊の一撃は袖をまとめていた襷を裂いただけだった。だが、襷に絡まった熊の爪が胡蝶の身体を持ち上げ、軽々と放り投げてしまう。
地面に叩きつけられた瞬間に胸を圧迫され、激しく咳き込む。
苦しくて蹲ると、懐から肌守りの袋が滑り落ちてしまう。
肌守りを踏みつけ、獰猛な熊が胡蝶を見下ろした。
「コチョウ様!」
「殿下、なにを。ジルド……うああぁぁあ!」
名前を呼ばれた気がして顔を上げる。
すると、ジルを連れて行こうとした男が腕から血を流して崩れていた。
立ち上がれない胡蝶の前に白い影が疾風のように踊り出る。
大きくて白い犬だった。
鋭い犬歯を剥き出しにして唸りながら、犬が胡蝶を守るように立っている。
「……ジル、か……?」
胡蝶はジルが変化した姿を見たことがない。
けれども、その犬がジルであると、すぐにわかった。
ジルは首輪の鎖を咥えて、熊に投げつける。長い鎖は熊の両足に絡みつき、あっという間に動きを縛ってしまった。
ジルはそのまま熊の股下を走り抜け、鎖を強く引いた。すると、熊は平衡感覚を失って、後方へと倒れ込んでいく。
「く、そ。舐めてくれるなよ」
胡蝶は力を振り絞って立ち上がり、素早く刀を抜いた。
そして、傾いて行く熊の脇腹に刀身を叩きこんだ。
渾身の一撃に熊は仰け反り、その場に崩れる。
峰打ちだったが、肋骨の一、二本は折れているだろう。
「容赦はせん」
胡蝶は息を整えて、他の獣人たちにも刃を向けた。
勇猛果敢、苛烈な武官として名をあげた「虎姫」を前に、獣人たちが身じろぎする。
「裏切り者が」
「……所詮は謀叛者の子か」
獣人たちが吐き捨てた。
楓雅が逃げていく男の一人に矢を放つ。
だが、とっさに鼠に変化されてしまい、的を外してしまった。
代わりに、変化を解いて逃げようとした熊の男を、他の警護が捕える。
白い犬が胡蝶の前に歩み出て、くぅんと鼻を鳴らしながら頭を垂れた。
胡蝶はまだ少し痛む胸を押さえながら、ジルを見据える。
「お前は……本当に私のそばにいたいのか?」
恐る恐る手を差し伸べると、問いに答えるように、ジルは胡蝶の指を舌先で舐めた。
「私は、お前に一度だって何かを与えた覚えはない」
胡蝶はジルから名前を奪った。
誇りを奪い、虐げ続けてきた。
首輪をつけて、自由も奪った。
大事にしていた宝さえ奪ってしまった。
それなのに、何故、彼は胡蝶の傍にいたいと言うのだろう。
胡蝶は眼を伏せた。
急に、ジルを疑ってしまった自分が恥ずかしくなる。
彼が胡蝶を騙していたなど、どうして、そんなことを思ってしまったのだろう。
結局、ジルに同情していただけで、信じてなどいなかったのだ。
胡蝶はジルのことを何一つわかっていなかった。いや、わかろうとしなかった。
その必要がなかったからだ。胡蝶は悪くなどない。ジルは胡蝶が買った奴隷なのだから。
その必要などない。
なのに、目頭がジンと熱を帯びる。
涙など、母が死んだとき以来流していなかったのに、どうして、今溢れそうになるのだろう。
胸の奥で疼く空虚のような闇が何かを訴えている気がした。
何かを叫び、胡蝶の中で溢れそうになっている。
しかし、それが何なのかわからない。
こんなに心の中を占領しているのに、その正体すらわからないのだ。
だが、そんな胡蝶を宥めるように、ジルが頬を舐める。
そして、何か言いたげに顔を覗き込んできた。
犬になっている間は、言葉が喋れないのだろう。困ったように耳を垂らした後に、ジルは胡蝶の肩に前足を乗せた。
「わんっ!」
柔らかな肉球が徐々に大きくなり、温かな掌に変わる。
心地の良い毛並みの肩に鎖骨が浮き上がり、人の形を成していった。
「泣かないでください」
それだけが言いたかったのだろうか。ジルは黄昏色の瞳に優しい笑みを描き、胡蝶の頬に触れた。
零れそうになる涙が止まった。
「――お、おまッ」
だが、ジルが服を着ていないことに気づいて、胡蝶は頬をカァッと紅潮させてしまう。
恐らく、変化のときに脱げたのだろう。
慌てて視線を逸らすと、ジルは申し訳なさそうに項垂れた。
「すみません。悩んだのですが、今言っておかないと、泣いてしまうと思って」
動いたせいで少し汗ばんだ肌や、存外しっかりとした骨格は間違いなく男のものだ。
胡蝶は今まで、まともに男の肌を見たことも、見せたこともない。
いや、楓雅や他の武官が稽古をするときに上衣を脱いでいることはあるが、あれとは、少しばかり違う気がする。
「う、うるさい馬鹿! 言いたいことが済んだなら、さっさと戻れッ」
「戻れって……一応、こっちが素の姿なのですけど?」
「お前は、すぐに口応えして。何処かに売ってしまうぞ!」
脅し文句のつもりで言ったはずなのに、ジルは楽しそうに笑いながら胡蝶から離れる。
そして、犬の姿へと変化した。
本当に、胡蝶には理解し難い体質だ。
だからこそ、大陸で迫害を受けて、自分たちの国を作ったのだろう。エウルは瑞穂に侵略される数十年前に、大国ルリスから独立したばかりだった。
胡蝶は嬉しげに尻尾を振りながら擦り寄ってくるジルを軽く押し退け、刀を拾う。
そして、母からもらった肌守りが落ちてしまっていたことに気がついた。
手に取ると、袋の糸がほつれて、中に入っていたものがこぼれそうになってしまう。
――良いですか、胡蝶。決して、中を見てはなりません。
持ち上げた守り袋から落ちる煌めき。
蒼穹の光を吸いこむ翡翠が、胡蝶の瞳の中で跳ねる。
「これ、は……?」
大きな翡翠を嵌めこんだ耳飾り。
土台には花と蝶があしらわれ、瑞穂風と華国風の装飾を融合させた見事な逸品だ。
どうして、こんなものを胡蝶が持っているのだろう。
見覚えのある耳飾りを前に、胡蝶は困惑した。
そんなはずはない。
胡蝶はエウルに来たことなどないはずだ。
――あなたのためなのです。さあ、目を閉じて。今までのことは、全てお忘れなさい。そうしなければ、ならないのです。あなたは強い子だけれど、まだ背負えない……こんなことになる前に、止められなかった母を許して。
――嫌です、母上! どうして、このようなことを認めなければならないのです。おかしいではありませんか! 父上に相談しましょう。絶対に許してはなりませぬ!
――胡蝶、許して。ごめんなさい。
急激に浮かび上がって、心に出来ていた空虚を埋めていく記憶。
すっかりと抜け落ちていた数週間足らずの出来事が甦り、胡蝶の頭で再生されていく。
ああ、そうだ。
胡蝶は知ってしまったから。
そして、許せなかったから……だが、幼い胡蝶には何も出来なくて、母は彼女を守るために――。




