薔薇の棘
斜陽に空が染まり、黄昏の藍が深まりはじめる。
薄暗くなった庭に降りると、薔薇の芳しい香りが鼻に優しく流れ込んでくる。
胡蝶は薄暗い足元に気をつけながら、庭を進んだ。
今まで、庭などあまり見る気がしなかったが、こうして歩くと、花の溢れる眺めというのも悪くないと思う。
故郷の瑞穂も春には桜が咲き誇り、「桜の都」と称されるほどだが、違う趣を感じる。
裸体の彫像が戯れる噴水などは趣味が良いとは思えなかったが、門のように這わせた薔薇園や、行儀よく並んで模様を描く花壇は面白い趣向だ。
自然の風景を重んじる瑞穂式の庭とは全く違うが、嫌ではない。こういう庭を作っている者も最近は多いが、やはり、本場のソレとは違う。
やがて、薔薇の生垣に膝をつき、何かを探す青年の姿を見つける。
ちょうど、胡蝶の部屋の真下に当たる位置だ。
「今日は暗くなる。明日にしたらどうだ」
昼間から、ずっと耳飾りを探していたのだろうか。
指にいくつもの傷を作りながら薔薇を掻きわけるジルの背に、胡蝶は大きな溜息をついた。
ジルは一度だけ振り返ると、何も言わずに薔薇へ向き直る。
胡蝶は眉を寄せながらジルに近づいた。そして、行燈で彼の手元を照らしてやる。
「その……悪かったな」
聞こえるか聞こえないかわからない小さな声で呟きながら、胡蝶はジルの隣に腰を下ろした。
ジルには聞こえていたようで、頭に乗せた犬の耳をピクリと動かして、胡蝶を振り返る。
「あんなものにこだわっているのは、僕だけだったと、わかっていましたから」
まるで、突き放すような、諦めたような言い方だ。
暗くて表情が見えず、胡蝶には彼の意図がわからない。
今までも、よくわからない男だと思ってきたが、こんなに胸の奥が気持ち悪いのは初めてだ。
「あれは、そんなに大事なものなのか? 家族か、恋人からの贈り物か?」
イヌにこんなことを聞いてどうする。
自分の頭がどうかしてしまった気がして、胡蝶は更に気が滅入った。
しかし、このままにしておくと、もっと気分が悪くなると思った。
胸が痛いのは、一日中何もせず寝すぎたからだろうか。
それとも、朝からほとんど何も食べていないからだろうか。
先ほど食べた菓子が胸やけを起こしているのか。
苦しくて喉の奥でつかえる何かを感じる理由が、よくわからなかった。
「僕には、家族も恋人もいませんよ」
「……すまない」
エウルの支配権を奪う際に、王族はジル以外、皆殺しにされている。そのことを思い出して、胡蝶は自分の失言に気づく。
エウル制圧を達成したのは他の武官だが、瑞穂の人間だ。
だが、ジルは胡蝶の考えを否定するように首を横に振った。
「家族なんて、最初からいなかったんだと思います。優しくしてくれた人なんて、いませんでしたよ。国なんて、どうでもよかった」
ジルの言っている意味がわからず、胡蝶は首を傾げた。
国のことをどうでもいいと思う王族が何処にいる。
幼いころから帝国に貢献するために学び、武芸を磨いてきた胡蝶には、理解しがたかった。
胡蝶の兄弟たちだって同じだ。中には、昼行燈を演じているような兄もいるが、食えない男だと理解している。
すると、ジルは仄かな行燈の灯りに自嘲めいた笑みを浮かべる。
「帝国では、コチョウ様のような皇女や下位の皇子にも、等しく機会が与えられているようですね。でも、エウルは違います。僕は妾腹の第四王子。それも、国王を謀殺しようと企てた愛妾の堕とし子です……母は処刑されましたが、幼い僕は城で育てられました。反逆者の子と罵られながらね」
教養、武術、食事や生活は他の王子たちと平等に与えられてきた。
だが、決して愛は与えられなかった。
誰にも愛されずに蔑まれてきた彼に、家族と呼べる存在など最初からなかったのかもしれない。
ジルはごく自然な口調で笑いながら、そう言った。
幼い頃から母の温もりに包まれて、何でも望めば手に入ってきた胡蝶とは違う。
成功さえすれば相応の報償が与えられ、そのたびに、周囲から賞賛されてきた胡蝶とは決定的に違っている。
「あれをくれたのは、瑞穂から来た女の子でした。城で迷子になっていたくせに、強がっていた。でも、初めて出来た友達だった。僕に城を案内するようにせがんで、いろいろ見せて回りました。わがままで自信家で、可愛げがなくて……優しい子ではなかったけれど、心は綺麗だったと思います。初めて、楽しいと思いましたね」
恐らく、瑞穂がエウルを侵略する前の話だろう。
確か、十年前、瑞穂から外交に来ていた高官が暗殺され、それをきっかけにエウルとの関係が崩れて戦争が勃発したと記憶している。
元々、大陸で迫害されていた獣人たちが寄り集まって出来た国だ。
あまり国交は開かれておらず、瑞穂でも、まずは貿易からはじめようと言われており、后である母自ら尽力していた。
あんな事件がなければ、今頃は属州にはなっていなかったかもしれない。
「もらったときは、大きな翡翠がはまった立派な耳飾りだったんですよ。片方ずつ持っていようって……でも、奴隷商につかまったときに、石は盗られてしまいました。何とか、土台だけは取り返したんですけどね」
ジルの話を聞きながら、胡蝶は彼の真似をして薔薇の生垣を掻きわけた。
けれども、手元が暗いせいもあって、耳飾りを見つけることは出来ない。
きっと、ジルにとって、その少女との思い出が唯一の支えなのだろう。
彼が生きてきた中で、一番楽しかった記憶。
ジルが譲れないと言っていたものの一つなのかもしれない。
だから、胡蝶の仕打ちにも耐えられるし、耳飾りを必死に探すのだろう。
本当は、獣人に襲われたときや、菓子屋へ行ったときに逃げることも出来ただろうが、そうしなかったのは、瑞穂の少女に会いたいからだと思えば納得もいく。
彼を支えるのは、王族の誇りでも、獣人としての生でもなく、たった一つの思い出。
胡蝶とは違う、そして理解出来ない価値観だ。
「…………ッ」
指先に小さな痛みが走り、紅い雫が滴る。
「こんなに美しいのに棘があるんだな」
別にエウルに来て初めて見た花ではないが、胡蝶は指先に浮き上がった血を眺めながら笑った。
宮に献上された薔薇は、既に棘が落とされているものだったのだと、今気がつく。
「そうですね。コチョウ様に似ています……美しいのに、棘がある。それでも、愛でてみたいと思える花です」
ジルは傷ついた手で胡蝶の指に触れ、唇を寄せる。
「なッ……わ、私は皇女だぞ。馴れ馴れしく触れるなッ!」
予期せず傷口を舐められて、胡蝶は顔から火が出るほど熱を感じた。ジルはいつもの笑みで胡蝶を覗き込んだ。
「エウルでは、紳士は淑女へのあいさつとして指に口づけるんですよ。前にも教えたでしょう? それに、イヌは人を舐めたがる生き物ですよ」
「そんな不埒な文化を教わった覚えはないッ。だいたい、お前は犬科だが、本物のイヌではないだろ!」
「ずっと、イヌだと言い続けているじゃないですか。だったら、イヌなんですよ」
ついに、楓雅の阿呆に毒されてしまったのか。それとも、少し弱腰になった胡蝶につけ込んでいるのか。
この状況を抜け出そうと、胡蝶は慌てて顔を背け、話題の転換を試みる。
「その娘に会いたいか?」
もしかすると、ジルは思い出の少女に会いたいのかもしれない。
だから、危険だとわかりながら、瑞穂の人間である胡蝶に正体を明かしたのではないか。
今まで恵まれていなかった彼にとっては、あそこで失敗して殺されても良いという覚悟もあったのだろう。
胡蝶についていれば、いずれは瑞穂へ行けるかもしれない。
そうすれば、少女を探す手がかりもつかめる。
十年前にエウルを訪れることが出来て、立派な翡翠の耳飾りを所有している少女など、限られているのだ。
「あんな耳飾りに頼らず、もう一度会って話せば良いだろう……別に、その娘にお前を払い渡してやっても、私は構わない」
そう言って、ジルに視線を戻す。
だが、ジルは胡蝶の予想に反して戸惑ったように口を閉ざしていた。
急に胡蝶の態度が変わったので、怪しんでいるのだろうか。胡蝶は気まずさを振り払おうと、ジルの鎖をつかんで立ち上がる。
「条件は絞られているんだ。すぐに見つかる……それに、そろそろイヌ遊びにも飽きてきたからな。押し付ける相手が見つかれば、ちょうどいい。わかったら、早く来い。一晩中探し回る気か?」
もう一度鎖を引くと、ジルは引きずられながら胡蝶を見上げる。
だが、やがて、鈍い動作で立ち上がった。
「――はい、コチョウ様」
いつもと同じなのに、何故だか、その声が沈んで聞こえたのは、周囲を覆い尽くしてしまった夜闇のせいだろうか?